2014年4月21日
説教題「わたしはよい牧者です」
聖書箇所 ヨハネ10:11~18
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
おはようございます。復活節第四主日です。
先週はキリストの復活の証人という題で説教をさせていただきました。
イエス様の弟子たちは復活のイエス様に出会い・・・復活の証人となりました。
そして今、現代の私たちも聖書の言葉を通して、キリストの復活を信じその証人となって歩ませていただいています。
では、確かにキリストは復活されました。それは私たちの信じる、また世界の多くの人が信じる事実です。
この世の出来事の中でも、不思議なことはたくさんあります。その現象
を見た人が「私は見た!!」と証人となることはたくさんあるでしょう。
例話:例えば私は今まで誰も見たことのない自然現象を見たとか・・・宇宙人を見たとか・・・オーロラを見たとか・・・私は見た!と証人になることはあるでしょう。
確かに見た!と証人にはなりますが、もっと大切なこと。それは復活されたイエス・キリスト その方はどんな方なのか。私にどんな関係があるのか。そのことが重大であると言えます。
私になんの関係もない方に起こった出来事ならば、それは確かに起こったかもしれないけれど・・・・私には関係がない。というならば・・・・復活の意味はないのです。
しかし、今日の箇所でイエス様は、私たちにとって何の意味もない方なのではなく。大きな、大きな方。大切な方。この方なしには私は生きていけない方。私の生きる力である方。であることを知ってほしいと願います。
「わたしは、良い牧者です」
この事を今日はしっかりと覚えて、喜びの中でここから出かけてほしいのです。
今日の聖書の文脈 背景を簡単に説明します。
今、イエス様は当時のイスラエルの宗教指導者たちと論争、戦いの中にあります。そのころのユダヤの人々は、まことの神様、神様からの救いから遠いところにありました。
霊的な悩み、苦しみ、絶望、飢え乾きのような中にありました。信仰は祭司長、律法学者、パリサイ人が私たちこそ正しい。私たちのようになりなさい。あなたはなれないでしょう。あなた方は罪人です。神様からの愛も受けられないものです。律法を守りなさい。私たちのように守れば祝福されるのです。あなたがたは守っていない・・・と責められていたのです。
指導者たちは、自分たちは霊的な目が見える。あなた方は盲目だ!!と責めている。神殿に行っても何の救いもない。ただしなければならないしきたりの中で恐れの中での信仰のような状態。
貧しい人々 明らかに律法を守れない人たち。安息日を聖別できない人たち。病気の人たち。弱さを覚えている人たちは神様の祝福から漏れた人だとさえ言われていたのです。
こんな状況の中で神様から遣わされてきたイエス様。神様はこの現状を
救うためにイエス様を送られたのです。
しかしそれは当時の勢力。既存のユダヤ教 宗教指導者たちとは合いません。そこに戦いがあるのです。これは避けられないことです。
一般の民衆にとってイエス様は私たちの本当の救い主なのではと期待もかけていたのです。それは多くの癒しや奇跡の中で民衆は思っていました。
ヨハネ9章では目の見えない人がイエス様によって目が見えるようになりました。
そのことでも宗教指導者たちとの戦いがありました。その中でイエス様のおっしゃられた言葉。今日の聖書日課の少し前です。
ヨハ
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
パリサイ人たちは、自分たちは正しい。目が見える。神の前に祝福された人間だ。盲目なんかじゃあないと思いがあったのです。
その中でイエス様が私たち人間を羊に例えて話をします。
この背景には、人々を間違った方向に導いているパリサイ人たちと
本当の救い主であるイエス様との比較が語られているのです。
パリサイ人たちを盗人、本当の羊飼いではない 使用人の羊飼いに例えて、本当の羊飼いは私ですよ。と語られているのです。
現代でもいろんな宗教と呼ばれるものがあります。その中でイエス様が語られるのは私こそあなたを救うまことの羊飼いだと宣言しているのです。
イエス様がこの世に来られたのは
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持
つためです。
イエス様が来られたのは羊がいのちを得、あなたが本当のいのちを得
それを豊かに持つためです。あなたが生き生きとした人生を歩むことができるために私はあなたのために来たのですよ。と語り掛けてくださっているのです。
そして今日の聖書日課に入ります。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
私たち人間を羊に例えています。羊は弱い動物です。羊には羊飼いが必要です。餌を見つけるために 牧草地に導くために オオカミのような敵から守るために・・・・現代の私たちも実は羊のようなものです。私を導いてくださる羊飼いが必要なのです。羊飼いの事を牧者と呼んでいます。
イエス様は、私は良い羊飼い、良い牧者です。と言っています。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。これはまさにイエス様の事です。
良い牧者の一番の事は羊のためにいのちを捨てますという事です。
良い牧者は羊の事を気にかけているのです。羊を深く知っているのです。そうでない雇人は羊のためには死のうとまで思わない
羊の事を心にかけていない。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
私は日曜日の夜に剣道の稽古に浜寺昭和小学校に行っています。
子供たちが頑張っています。私は一応行って子供たちと稽古をしますが・・・・自分が強くなりたいという思いで、子供たちの指導にはある意味重きを置いていません。(悪い先生です)
でも良い先生は子供たちの名前を全部、下の名前で呼んでいるのです。
垂れネームに名字がありますから、私は名字で呼んでいます。でもいい先生は下の名前で呼んでいます。それを考えると私はいい先生ではないなあと思います。
少し心入れ替えて子供たちの事にも心に賭けようと少し思っています。
羊の所有者でない雇人みたいです。オオカミが来たら・・羊を守るどころか逃げていくようなものです。
羊も誰が自分を本当に守ってくれる人かを知っています。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
それは天の父なる神様がイエス様を知っておられます。またイエス様も天の父なる神様を知っています。
私たちと良い牧者であるイエス様との関係はそのようであると言われるのです。
それゆえに私は羊のためにいのちを捨てますと言われるのです。なんと凄い言葉でしょうか・・・・私は私の羊のために すなわちクリスチャンである私のためにいのちを捨てますと言ってくださるのです。
豊島守のためにいのちを捨てますと言ってくださるのです。あなたのためにでもです。
そしてイエス様にはもう一つの使命があります。それは囲いに属していない羊 すなわちイエス様を信じていない人たち。ノンクリスチャンの方々を導くためにも来られたのです。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
良き牧者であるイエス様は大忙しです。群れの中にいる羊を世話し、その羊に心をかけ、そしていのちを捨てる覚悟です。
教会の牧師は、それに近いでしょう。イエス様みたいには到底できませんが良き牧者を祈っています。
そして気にかかっているのがこの囲いに属さない羊。教会に来ていない人たちです。その人たちをも導きたいのです。群れから離れた1匹をも大切にしたいのです。
99匹の羊のたとえがあります。
ルカ15:4
ルカ
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
私たちも一匹の迷える子羊になるときもあります。その羊のためにイエス様はいのちをかけて探してくださるのです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
あなたのためにもイエス様は良い牧者として来られたのです。
これを知ってください。
私の良い牧者と共に今週も歩ませてください。
私のためにいのちさえ捨ててくれるようなイエス様が共におられるのです。それはあなたが立派だとか、羊飼いの言葉をよく聞くとかではないのです。自分勝手な羊をも愛してくださり、心にかけてくださっているのです。
なんと感謝な
心強い事でしょう。
今日は、まさにこのみ言葉を握りしめて、心に刻んで、一週間を歩ませていただきましょう。 アーメン