2024年4月14日
説教題「キリストの復活の証人」
聖書箇所 ルカ24:36~48
24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
おはようございます。
復活節の第三主日になりました。
先週の復活の箇所と同じ個所です。今日はルカ福音書です。
ルカの福音書の復活後の流れ24章の流れをざっと見てみますと。
週の初めの朝 日曜日の朝 女たちはイエス様の墓に行き、イエス様の復活を知ります。そして信じます。
ルカ
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤに
おられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
でも使徒たちはたわごとだと思い、女たちの話を信用しませんでした。
このころエマオと言う町に旅した二人の弟子(エルサレムから逃げていっていた弟子)が道の途中でイエス様にお会いします。
彼らは、最初はわからなかったけれどイエス様だと気づき 弟子たちの所に帰ってきます。
ルカ
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
こんな状況の中で今日の聖書日課に入ります。
24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
エマオから帰ってきた弟子たちの話・・・
女たちがイエス様は復活されたという話
弟子たちは、それでもまだ信じられず、恐れていました。
そんな中でイエス様がみんなの前に現れたのです。
もうびっくりです これは夢か?幻か?
24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
そう思って当然な気がします。しかし、事態は彼らの思いを超えたことが起こっていたのです。死んだはずのイエス様がよみがえられたのです。
24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
確かに霊なら・・・体の実態はない。・・・しかし、今目の前におられるイエス様は十字架にかかられ死なれたイエス様です。手にはくぎの跡、足にもあります。体があるイエス様がどうして鍵のかかった壁も通り抜けられる・・・どういうこと・・・。復活の体の不思議です。
エマオ途上の弟子たちにも現れ、消えてしまった・・ワープする体。
もう取り乱しても不思議ではありません。
24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
焼いた魚を食べられた・・・これはまさに復活のイエス様です。
弟子たちは復活のイエス様に出会ったんだという事に確信を持ち、落ち着いてきました。
その中でイエス様は語り始めるんです。大事なことを。
24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
私についてモーセの律法と預言者と詩編とに書いてあること。これは旧約聖書の事です。旧約聖書全体を表す言葉です。
旧約聖書とは当時の聖書です。
聖書に書いてあることは必ず全部成就する。
そのことをイエス様は言われていました。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。
聖書に私の預言があったのだ。イエス様の事について書いてあったのだ。
すなわち 預言されていた救い主、メシヤ、キリストが私なのだという事です。
それはどういうところですか?どのみ言葉からですか?
と疑問がきっと湧きます。
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみ
を受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
これこそ福音の神髄です。福音の三要素とも言われます。
① キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、
② キリストは葬られたこと、
③ キリストは三日目によみがえられたこと、この3つです。
これを信じるとき、信仰と恵みによって救われる。
この福音の三要素がはっきりと語られます。
そしてこの福音はエルサレムから始まってユダや、サマリヤ、全世界に宣べ伝えられる。
使
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
そして大きな事、大切なこと、イエス様からの言葉です。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
弟子たちへの言葉ですが・・・これは私たちへの言葉です。
弟子たちへの使命 あなたがたは。これらの事の証人です。
私たちも、私の罪のためにイエス様は死んでくださいました。
そしてイエス様はその罰を受けるために死んで葬られました。
私たちの罪の赦しは完成され。イエス様は三日目によみがえられました。復活しました。
私たちはイエスキリストによって新しく生かされているのです。
そのことの証人です。
証人とは実際に見たこと、聞いたこと、体験したことを、そのままに伝えるものです。
それ以上のことはしなくてもいいのです。話を盛り上げて嘘をつく必要
もない。ただただ自分の身に起こった事を話す事。証言することです。
私は、イエス様を信じる前はこうでした。あるとき、聖書の言葉を聞き
あるとき、イエス様は私の罪からの救い主と信じました。
イエス様によって私は、私の罪が赦されて私は新しい人間になりました。
① Ⅱコリ
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
今までとは違うのです。新しくされたのです。
そして今はキリストにあって、その恵みの中で
② Ⅰテサ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
こんな歩みをさせていただいています。
いつも喜んでいるのです。
どんなことがあっても、この世の歩みはいつも嬉しい事ばかりではありません。つらい事厳しい事もあります。
それでも
③ ロマ
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
そのことの証人です。はたから見たら、そうは見えなくても、私に起こった事はそうなのです。
それはキリストの復活が証しされているからです。
それを私たちは聖書の中から教えていただいているのです。
確かに豊島さんは、どんな時も幸せそうにしているなあ・・・悩みなんかないような感じやなあ・・・ノーストレスやろう。と言われることはあります。これでもストレスがないわけではないんですが・・・・
基本的にキリストにあって、やっぱりいつも喜んでいるのです。
皆さんもそうではないでしょうか?
キリストを知る前のあなたと、今のあなたは違っているでしょう。
キリストによって救われてあなたは新しく喜びの人生の中にあるのです。
それはどうしてか
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
このイエス様を私の救い主として信じたとき。その信仰と恵みによってあなたは変えられたのだからです。
そしてあなた方はこれらの事の証人です。これは弟子たちに与えられた宣教の使命であるでしょう。
復活のイエスにあった弟子たちはどのような歩みをしたのか?彼らの事は聖書は語っていないことが多いです。ですからこれは伝承になるので不確かかもしれないし、断言はできませんが・・・使徒たちはみなイエス様の復活をのべ伝えて イエス様の復活の証人となる人生を送りました。
聖書に記録されている唯一の使徒の死はヤコブです(使徒行伝12:2)。ヘロデ王がヤコブを「剣で殺した」と書かれていますが、おそらく首をはねたのでしょう。
他の使徒たちの死の状況は、教会の伝承に基づくものしか知られていませんから、これら他の記録に関してはあまり重きを置くことがないようにしなければなりません。もっとも一般的に使徒たちの死の記録として受け入れられている教会の伝承は、イエスの預言の成就として、使徒ペテロがローマでXの形の十字架に逆さにはり付けられたというものです。次にあげるのは、ほかの使徒たちの死に関してもっとも普及している「伝承」です。
マタイは、エチオピアで刀傷によって殉教の死をとげました。
ヨハネは、ローマで迫害の波が起こったとき、煮え立った油の大釜の中で殉教するところでした。しかしながら、奇蹟的に命が助かりました。 その後ヨハネは、パトモス島に島流しになりました。彼は、預言的な書、黙示録をパトモスで書きました。使徒ヨハネはのちに釈放され、現代トルコとして知られているところに戻りました。彼は老齢で亡くなりました。使徒の中で唯一、平和に亡くなった人物です。
エルサレム教会のリーダーだった、イエスの兄弟ヤコブ(正式に使徒ではない)は、キリストへの信仰を否定することを拒否したとき、宮の南東の小尖塔から突き落とされました。彼が、その墜落でも死ななかったことを発見した敵たちは、ヤコブを棍棒で撲殺しました。
ナタナエルとしても知られていたバルトロマイは、アジアへの宣教師でした。 彼は、今日のトルコで証し、アルメニアで説教したことで、むちで打たれ皮膚がはがれて亡くなりました。
アンデレはX型の十字架につけられ、ギリシャで亡くなりました。7人の兵士にひどくむち打たれたあと、彼らはアンデレの苦しみを長引かせるためにひもで彼の体を十字架にくくりつけました。彼が十字架に引かれて行ったとき、彼は次のようなことばをもって十字架にあいさつしたと彼の弟子たちは報告しています。「私は、この至福の時を長いこと待ち望んできた。十字架は、キリストのからだがかけられたので、神聖なものとなったのだ。」彼は、彼を苦しめた人々に2日後に死ぬまで説教し続けました。
使徒トマスは、そこに教会を建てるために出かけた宣教旅行の間に、インドで槍で刺されました。
裏切り者イスカリオテ・ユダの代わりに使徒として選ばれたマッテヤは、石打ちにされ、そのあと首を切られました。
使徒パウロは、ローマにおいて紀元後67年に、拷問のあと邪悪な皇帝ネロによって首をはねられました。他の使徒に関しても伝承がありますが、それらには、信頼できる歴史的、また伝承的なサポートがありません。
使徒たちがどのようにして亡くなったかはそんなに重要なことではありません。重要なのは、彼らはみんな信仰のために喜んで死んでいったという事実です。イエスがよみがえらなかったのなら、弟子たちはそのことを知っていたはずです。誰も、うそだと分かっていることのために死ぬ人はいません。すべての使徒たちが、キリストへの信仰を捨てることを拒んで、自ら進んで恐ろしいしかたで死んだという事実は、彼らが本当に復活したイエス・キリストを目撃したということのすばらしい証拠なのです。
イエス様の復活に出会った弟子たちはこのように証人となりました。
さて私たちはどうでしょうか?
私たちもまた救われたものとして証人となります。それはみんなが宣教師になるのではなく与えられた場で、それぞれの賜物に応じて、なすべきことがあると信じるのです。
祈祷会で学んでいるキリスト者の生き方
これもまた証人の生き方と教えられています。
④ ロマ
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。
殉教だけが証人の道ではありません。それを支える人もいます。いろんな役割があるのです。毎朝散歩をしていますが、浜寺公園駅舎のお花はいつもきれいです。この間、写真を撮りに見に行ったら、お世話をしている人がいました。鷺ノ森姉もおられました。水やりだけでなく種を植えて、芽が出たものを植え替えて・・・・そんな影の努力、お世話があってきれいな花が咲いていると教えられました。
まさに証人にもいろんな形があるのです。
その基本は
4:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
ここに立つ。私はキリスト十字架の死によって罪ゆるされた
なんと感謝なことか
それゆえにこのキリストと共に生きていきます。
これがキリストの証人の生き方の基本です。
この世は、厳しい事もいっぱいあります。もう疲れ切ってしまう事もあります。
それゆえに、私たちは毎週の礼拝が大切なのです。礼拝の中でキリストからの罪の赦しと恵みを信仰でいただいて、
力をいただいて、この世に証人として出かけていくのです。
学校や、職場、家庭、地域へ・・・私を救ってくださったキリストの復活を、素晴らしさを話していくのです。
いつも、いつもは無理でしょう・・・・いつも言っている方がおかしいけれど。忠実にお仕事をしながら、それぞれの働きをしながら
ここぞという時には語らせていただくのです。その準備はしておきましょう
⑤ Ⅰペテ
3:15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
3:16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
こんな証人にならせていただきたいと祈るのです。
祈り