2024年3月31日 堺育麦キリスト教会礼拝説教
動画こちらから https://youtu.be/nJDsyUGdZYk?si=mKie23S-NGoBIQmB
文字原稿は以下からです。
説教題「イースター(復活)の希望」
聖書箇所 ルカ24:1~12
ルカ
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
24:10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
24:12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
おはようございます。
イースターおめでとうございます。
イースターで私たちは何をおめでとうございますと言っているのでしょうか?今日初めてイースター礼拝に出席された方もあります。今日はイースターの意味を知っていただきたいと願っています。ずっと教会に来られている方々にとってもイースターの恵みを深く知っていただきたいと願います。
イースターというのは復活祭と言われます。何を記念しているかといえば、ちょっと専門用語も入り難しいかもしれませんが、キリスト教の中心です。
私たちの救い主イエス・キリストが、人類の罪の罰を身代わりに受けるために、私たちの罪の赦しのために、神の子の位を捨てて、この人間の世界に来られ、
人として生き、罪なき人生を送られたのち、十字架につき殺されるという事がありました。
本来私たちが受けるべき刑罰を代わりに受けてくださいました。
それゆえに私たちはキリストの十字架のゆえに、神様の前にすでに罰を受けたもの。
キリストの十字架のゆえに私たちは神様の前に全く正しいものとされるという恵みにあずかっているのです。
その事が聖書に書かれています。
イエス・キリストを信じる者には罪の赦しが与えられ、神の子とされ、永遠の命が神様からの一方的な恵みによって与えられているのです。
そのことが明らかなもの。本当であること。嘘ではないことを、私たちにはっきりとわかるために。
墓に葬られたイエス様は三日目に墓からよみがえられたのです。復活されたのです。
Ⅰコリ
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
これからいう事はキリスト教の核心です。ここが一番大事なのです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。
すなわち聖書の伝えたいことの一番大切な事は
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
これなのです。
すなわちキリスト教の中心は復活にあるのです。
復活こそがキリスト教の根拠なのです。
キリストが復活されたからこそ、私たちの救いは確かなものなのです。それを信じているから私たちは安心しているのです。という事です。いわば信仰はキリストの復活にかかっているのです。
このキリストの復活をのべ伝えているのがキリスト教です。
復活と言うことばを私達は良く使います。どん底からの復活。業績の復活。恋の復活。
相撲でもよく使われます。怪我での休場からの復活劇。
復活と言う言葉は、素晴らしい言葉です。人生の中で私達は暗闇の中に置かれる事もあります。今まで信じてきたことがまったく失われたように感じる時があります。
作家の三浦綾子さんは、戦争中に小学校の教師をしていたそうです。その時に天皇崇拝、軍国主義の教育をしていたそうです。ところが戦争が終わり、新しい時代になった時、教科書がないので、今までの教科書を使って授業をするわけですが、その際、軍国主義教育、天皇崇拝につながる箇所は、黑い墨で塗りつぶしたそうです。そうすると教科書が黑い墨だらけになりました。三浦綾子さんは教育者としての使命感にあふれて、子どもたちを教えていたのですが、全く塗りつぶしだらけになったという事は、自分が教えていたことがすべて否定されたような事になったわけです。
もっと言い換えれば、自分は今まで教師として子供たちに間違った事を教えていた事になるわけです。
彼女は、全く打ちのめされます。自分の今までしてきたことはなんだろうという事で、悩み、また空虚感の中で、教師を辞めたのです。
今までの人生を全く否定されるという事は、まさにどん底のような状態です。
今まで信じてきたことが全くなくなったような事になりました。それは三浦綾子さんにとっても非常な悲しみでした。自分の命をかけて生きてきたものが全く否定されたようになった時。
戦争の時、特攻隊で御国のためにいのちをかけていた人たちが終戦になり、何を信じて生きていけばよいかわからずに心の中に大きな、大きな空洞ができたようになり、耐えられないほどの虚無感の中に打ちのめされた人もあったと聞きます。
イエス様について来た弟子達。女たちにとっても自分達が信じてきた。主と信じて慕い、ついてきた方が犯罪人として処刑された・・・・・・。
自分達が信じてきた神の国が、もうなくなったように感じました。イエス様から語られた愛の言葉も今では、もうすべてが空しくなったように感じました。
弟子たちは、虚無感に襲われると言うよりも、自分達もイエス様のように殺されるのではないかとの恐れに震えていました。
ちりじりに逃げて、隠れていました。
その心の中に、今まで響いていたイエス様の言葉はもう何の役にも立たないように思えました。
皆様はこんな体験をしたことがあるでしょうか・・・・・・。自分が信じてきた方がもういなくなってしまった。それどころかその方は抹殺され、今、自分は逃げ回っている・・・・・。
もうすべての希望や夢が失われたようになってしまう事。程度の差はあと思いますが、皆様にもそんな経験はあると思います。
私も学生時代学生運動をしていました。これが正しいと信じていました。赤軍派のあさま山荘事件の時も赤軍派を応援していました。しかし、その後で赤軍派の内ゲバ事件を知った時。活動のむなしさを知りました。そしてまさに髪を切って就職しました。思想というものは捨てました。
今まで信じていたことが否定されたとき。
それは暗闇です。先の見えない悲しみです。また恐れです。
弟子達の心はまさに暗黒でした。
暗闇でした。
暗闇の中にあるとはどんなことでしょうか?
何の光もない状態です。
田舎の方にいけば、夜に懐中電灯をつけて歩いていて、突然をその光を消せば体験できるでしょうか。
私は昔、トンネル工事をしていまして、検査前のトンネルを一人で歩いた事があります。最初は入口の光がさしているので少し明るいですが、何回かカーブをすると、もう光は入って来ません。まさに何の光もなくて暗闇です。
心の中がこんな風になったらどうでしょう?
イエス様は弟子達の大きな光でした。イエス様という光を信じて弟子たちは歩んできたのです。すべてを捨てて歩んできたのです。それゆえにイエス様が殺されて死んだ・・・・・。この時の心の闇、暗さ、希望のない状態はどんなでしょうか?
男たちは全く、打ちのめされていたようです。
でもこんな時でも女たちは違いました。
女性と男性を比べるわけではありませんが、どうもこのような危機の時に、試練の時に、強いのは女性のように思います。
自分達の光であったイエス様がなくなった時。女たちは、悲しむ事もあります。これからどうしようと思い煩う事もあったと思います。でも女たちは、葬られたイエス様に香油を塗りに行こうとするのです。
現実的な、生活に生きているのです。泣き悲しんでいる。落ち込んでいるのが男の弟子達とするならば、女性たちは、実際にやるべきこと、遺体を丁重に葬るという働きを淡々とするのです。
女性は悲しんでばかりはいられない。やるべきことは毎日たくさんあります。という感じです。
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
女たちにとって、気になる事はありました。墓の前にある大きな石です。自分達の力では動かせません。しかも、別の福音書にはローマの兵隊が墓の前で番をしているとあります。
そんな中、墓に入れるのか・・・・・。そんな気になる事を持ちながらも女たちはイエス様の墓に行ったのです。問題はあっても、暗闇のような心であっても・・・・・。淡々と出かけていった女たちのすごさを思います。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの
衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
驚くべきことが起こっていました。
遺体を丁重に葬ろうとした女たちは、主イエス様はよみがえられたという事実に出会ったのです。
イエス様の復活です。
よみがえりです。
これはなんと驚くべきことでしょう。
イエス様がよみがえられた。信じられない思いであったでしょう。
死んだ人がよみがえるという事は、人間の考えをはるかに超えています。
しかも、イエス様がよみがえられたという事には深い意味があったのです。
イエス様が死なれたのは、私達人間の罪の身代わりのために死ぬこと。
そしてよみがえられたのは、イエス様の死が、ただの死ではなく、私達の罪の罰をすべて受けて下さったと言う事。
そして、イエス様の死によって私達の罪は赦されたと言う確証としてのよみがえりであったのです。
その事をイエス様は、すでに弟子達に、女たちに生きている時から話していたのです。
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
イエス様のみことばを思い出した。
その事は、イエス様が死なれるわけが話されていたのです。
そのイエス様のことばが確かな事であった。その事を思い出した。それは暗闇のような心の中にはっきりと光が差し込んだ出来事だったのです。
復活。
それは、今まで、暗闇と悲しみと絶望の中にいた弟子達に、女たちに、鮮やかな光を差し込んで下さったのです。
復活!
それはどん底の中に苦しんでいた人に、大いなる希望を与えてくれたの
です。
女たちは喜びに満たされました。
弟子達も最初はおののきながら、復活のイエス様におであいした時。彼らの生き方が根本から変えられたのです。
キリストの復活 この事実は人間には到底考えられない事でした。しかし、これは神様の言葉、聖書に神様のご計画として啓示されていた。
その復活の事実が私達に大いなる光と喜びを与えて下さるのです。
イースターの説教を毎年していますが、これは毎回毎回、忘れることなく、一番大切な福音として語られていく事なのです。この事実に私たちは立っているのです。
イエス・キリストの福音(良い知らせ)は、この復活という事実に堅く立っているのです。もし復活がなければ、福音はまったくのうそ。絵に描いた餅という実質のないものとなるのです。
そして、聖書を読みながら、心に残った箇所は、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。
というみことばです。
私たちは本当に大切なものを、場違いなところで捜している事があります。
イエス様の遺体を丁重に香油を塗って葬ろうとした女性たちの行動は人間の常識的な行動です。
死んだ人を墓の中で捜すのも当然の事です。
ところが、天使が女たちに語られたのは、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」
という言葉です。
死人の中で死人を捜すという事は不思議な事ではありません。
女たちはイエス様を死んでしまわれたと思って捜しているからです。
死んでしまわれたイエス様を探す心は、まさに暗闇の心の中です。先生として慕い、自分のすべてを賭けてついて来たイエス様。イエス様の語られた恵みの言葉に喜んでいた自分達が、今は、処刑され死んでしまわれた先生を死んでいる人たちの中で捜している。
それは、悲しみの捜索です。
絶望の中で捜索です。
それは死んだ人の中での捜索です。
そこには、悲しみしかありません。
死んだ人の中で捜すという事の中に、光や希望は確かにありません。もし見つかったとしても、遺体とのお別れができると言うだけで、なんの望みもないものです。
この説教を準備しながら、私達は結構死人の中で捜すという事をしていると思いました。
死人とはある意味、もうどうしようもない事という事でもあります。
いろんな愚痴を言ったり、自分の過去を悔やんだり、足りない事ばかりが頭を占領します。
それは死人の中で捜すというような事です。
生きている人を捜すとは、愚痴だけではない。これからの希望があります。
しかし、もしその人が生きているのなら、全く違ったことなのです。
イエス様が死んでいるという中で、遺体を捜す。
そうではありませんよ。
あなたはイエス様を死んでいると思って、イエス様とお別れをしようとして捜しているのでしょう。そこには諦めというか、暗闇というか、悲しみ以外ないでしょう。
私達の人生にも暗闇の時、絶望の時があるでしょう。その時死んだ人の中でイエス様を捜すということをしています。でもそうではないのです。イエス様は生きておられる方なのです。
復活されている方なのです。イエス様は使徒信条にもあるように、三日目によみがえり、天に昇り、父なる神の右に座しておられるのです。
イエス様を捜すという事は、死んだ人の中でイエス様を探すのではないのです。イエス様は生きている方なのです。これはなんという希望でしょう。
死んでしまえば、そこには何もありません。しかし、生きているならば、どんなに悲しい時であっても、生きているという事は希望があるのです。死と生。そこには大きな、大きな違いがあるのです。
確かに、生きている事はすばらしいですが、私達は、全ての人がずっと生きているわけではありません。人は必ず死ぬものです。
しかし、復活の事実は、私達に希望を与えて下さいます。キリストにあるものは死では終わらないのです。
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 ヨハネ11章25節
キリストを信じる者は死んでも生きるのです。永遠のいのちがあるのです。天国への希望があるのです。
人は確かにこの世のいのちは終わりがあります。でもキリスト教の葬儀は、もう会えないと言う悲しみだけではないのです。やがて復活して会えるという希望があるのです。
例話:内村鑑三の娘 るつ子さんの葬儀
内村鑑三は明治の日本のキリスト教の草創期に活躍した代表的な指導者の一人です。
彼は、ボーイズビー アンビシャツ 「少年よ大志をいだけ」と言う言葉で有名なクラーク博士が教えた札幌農学校の出身です。そこでクリスチャンになり、日本人による教会形成ということに大きな影響を与えました。
いろいろな業績がありますが、彼の娘さんルツ子さんが19歳の時に亡くなります。
それは悲しい事ですが。その時に復活を信じる内村鑑三は葬儀の時、「これはルツ子の葬儀ではない。ルツ子は天に嫁入りしたのである。今日はルツ子の結婚式である。」と言ったのです。
そして、墓地で埋葬の時、内村鑑三は、土を握りしめた手を高く挙げて、「ルツ子さん。万歳。」と叫んだのです。
その一部始終を見ていた若き日の矢内原忠雄(後の東京大学総長)は、「私はカミナリに打たれたように身がすくんでしまった。」とその衝撃を岩波新書の「余の尊敬する人々」という本に記しています。
そしてこの矢内原忠雄はクリスチャンになりました。
この内村鑑三のように万歳とは言えないとは思いますが、復活の事実は私達に、天国の確信と、永遠のいのちへの喜びを与えて下さるのです。
私は3,4年前に家内と父を見送りました。その時は寂しさはありましたが。二人とも神様の身元に召された この世の人生を精いっぱい生きて天に、凱旋したんだと思いました。復活の希望があるからだと考えま
す。つらいというよりも、お疲れ様・・・ありがとう。また会おうねと心から思いました。父の時なんか、主治医の先生が「私はクリスチャンでないんだけど。昭二さん、ご家族の皆さんの姿を見ていると。おめでとう!!っていうのが正しい気がするわ」「おめでとう!」と言ってくださいました。父の最期、悦子の最期 そこには希望がありました。今もあります。私たち夫婦は44年前のイースターに二人そろって洗礼を受けました。そしてその信仰は希望と喜びの中でずっと守られてきました。
キリストの復活の事実は、私達の復活の希望であるのです。
イエス様を死人の中で捜さないでください。イエス様は生きておられるのです。
私達の愛する人たちを死人の中で捜さないでください。
私達の愛する人々も、キリストを信じる信仰のゆえに死んでいるのではないのです。
死んでも生きるのです。
やがて私達も復活の時。永遠のいのちの中で生きるのです。
復活の事実は、私達の心を喜びで満たして下さいます。希望で満たしてくださいます。
私たちはキリストの復活のゆえに、死人の中で愛する人を探す必要はないのです。生きているのです。
ここにおられる方々もキリストの復活のゆえに、死んでも生きるのです。
神の家族として永遠のいのちの中に生かされているのです。
この復活の信仰があるとき。私たちの困難なこの世の人生の中でも、生きていく希望が、喜びが与えられるのです。
祈り: