2024年3月24日

説教題「受難週が始まります」

聖書箇所

11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、

11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。

11:3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」

11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。

11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」

11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。

11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。

11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。

11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

11:11 こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。

さて今日は枝の日主日礼拝です。

今日の聖書箇所はマルコの福音書からです。

イエス様のエルサレム入城の時です。

今日から受難週という一週間が始まります。

聖書の中のクライマックスの時です。今日の枝の主日礼拝から一週間 クリスチャンにとってとりわけ大切な期間です。この時、毎日聖書をしっかり読んでイエス様の受難を覚え、またイエス様の愛に生かされて生きましょう。

これって大切な時。恵みの時であると信じます。皆さんもそうかもしれません

が受難週にいろいろ問題があったり、またその時、イエス様を深く知る体験を良くしてきました。今年の受難週も皆様にとって恵みの時であるように祈ります。昨日、堺朝祷会がありました。その時にも今日の箇所が読まれました。その時上野芝教会で長年、主に仕えて良き働きをしてこられたご高齢の婦人の方が「今日の箇所は私にとってとても思いのある箇所です。牧師夫人から私の働きを助けてほしいという話があった時・・・・祈りの中でロバの子に「主がお入り用なのです」とかけられた言葉が私に響き、私のようなものでも「主がお入り用なのです」と言ってくださっていると信じ、牧師夫人の手助けの働きを続けて来れました。もう40年以上前ですが。今のその時の事を思い出します。そして感謝していますとのことを話してくれました。

聖書の言葉が私たちに語り掛け、そしてみ言葉に導かれて歩む恵み

今年の目標聖句 あなたのみことばは。私の足のともしび、私の道の光ですとの言葉通りです。

今年も受難週に特別の恵みが皆様にありますようにお祈りいたします。

受難週のはじまり

その第一日目が枝の主日と言われる日。イエス様がエルサレムに入られる日です。

イエス様がどうしてエルサレムに行き、受難を受けられたか?

聖書はこのことを、何とかしてわかってもらいたいと書かれています。

そして神様のご計画と愛を記されています。

聖書の大部分は最後の一週間の事が書かれています。

しかし、時間を中心に説教をしていくと

今日は枝の主日礼拝

来週は主の復活されたイースター礼拝です。

という事は、この大切な一週間は礼拝の説教では語る時間がないんです。

それゆえ、皆さんにお勧めは、毎日少しでも聖書を読んで とりわけ受難週の一週間を心に覚えながら日々を過ごされることです。

その中でイエス様の受難 私たちの姿 神の愛 そんなことを一杯教えられるときであることを願います。

その愛に相応しい人間でない私たちを、罪ある私たちを明らかにしておられます。

イエス様をホサナホサナと、大歓声の中で、枝の主日に相応しく、イエス様の通られる道にレッドカーペットを敷くように木の葉を枝ごと切ってきて道に敷いた。上着を道に敷いた。・・・・・

それほどまでに民はイエス様を喜びと歓声の中で迎え入れました。

それがなんと木曜日には、このイエス様を十字架につけろ!と叫ぶのです。

神様が送られたひとり子イエス様をぼろ布のように捨てるのです。

それがわかっていながら、私たちの罪をすべて負われてイエス様は十字架につかれるのです。

今日の箇所をもう一度読んでみます。

11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、

11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。

11:3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」

11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。

11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」

11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。

11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。

11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。

11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

11:11 こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。

先ほど、この一週間の事を説教で語ることができない。来週はイースターですと言いました。

それではこの一週間を、その動きを簡単に見てみましょう。

今回はマルコ福音書を中心にイエス様の受難週のできごとを見てみましょう。

パワーポイント

祭りの5日前(日曜日) 昼ごろ、エルサレム入城 夕方にかけて、エルサレムを視察

祭りの4日前(月曜日) 早朝、いちじくの木を見つける 午前中、宮を清める

祭りの3日前(火曜日) 昼間、ユダヤ指導者たちとの論争 昼過ぎ、最高額の献金について

2レプタをささげたやもめの話 夕方、終末について

祭りの2日前(水曜日) 昼間、十字架刑の予告 夕食の席で、イエスを葬る準備

イエス様にナルドの香油をささげたマリヤの記事 深夜、ユダの謀略

祭司長たちにイエスを売り渡す相談をする。

祭りの前日(木曜日) 昼間、祭りの準備 夕暮れ、最後の晩餐

弟子たちの足を洗うイエス様 聖餐式の約束 夜、オリーブ山へ向かう 深夜、ゲツセマネの祈り、そして逮捕

安息日前日(金曜日) 鶏が鳴く頃、ペトロの裏切り 夜明け前、大祭司の裁判

不利になるのに答えない。イエス様が。あなたは神の子か?の問いにそうですとはっきりと宣言されます。神を冒涜するものとして有罪とされるのです。

明け方、イスカリオテのユダ

事の重大さの中で、ユダはお金を返しに行きます。

知ったことか!と言われユダは裏切りの苦しみの中で首をつって死にます。

夜が明けたのち、ピラトの裁判

ピラトはイエス様の罪を認めないのに、群衆の心をおそれイエス様に死刑を宣告します。

朝、ゴルゴタへの道

午前9時、十字架につけられる

昼12時、母マリアを託す

午後3時、イエス絶命

夕方、イエスの埋葬

アリマタヤのヨセフと、ニコデモさんによって葬られます。

安息日(土曜日) 昼間、注意深い指導者たち

死体が盗まれることを恐れ、ローマの番兵をつけ、墓を大きな石で封印します。

これが受難週の一週間のできごとです。

イエス様の孤独な祈りと願いが弟子たちをはじめ人々には通じていません。

裏切りがあります。

逃亡があります。

しかし、その中でイエス様は私たちへの愛を示してくださり、

私たちが復活の主にある時、新しく生きていくことができること。聖餐式の約束にあること。

洗足のごとく、互いに愛を持って仕えあうことを、また私たちへの永遠の命の約束。終末における大きな恵みを教えてくれています。

この受難週の中にはっきりとわかること。それは今日の使徒書の交読文 ピリピ2:6~11にある通りです。

ピリピ2:6~11

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考え

ず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

受難週のイエス様を覚えるとき・・・・・。このピリピ2章は心に響きます。

イエス様は神の子なんです。

苦しみなんか体験する必要のない方です。

苦難を回避しようとすれば、いつでもできる方です。

おなかが空いていれば道端の石ころでもパンにすることもできる方です。

すべての人がイエス様に膝まづくようにさせようとすれば、サタンの提案にさえ乗れば可能です。

しかし、生まれた時から、ずっとイエス様のご生涯は、ご自分をいやしくして歩まれたのです。

その究極が十字架の受難です。

鞭うたれ、あざけられ、いばらの冠は頭に食い込み、渇きに苦しみ、最後には私たちの罪の罰をその身に追われ、父なる神様からさえ捨てられる悲しみを受け、葬られるのです。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

この死でイエス様は終わられる方ではなかったのです。

悲しみと苦しみだけがあるのではなかったのです。

私たちは罪だらけです。イエス様をさえ裏切るようなものでした。

しかし、イエス様の十字架の死により、私たちの立場は変えられたのです。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

イエス様の十字架の死によって

イエス様の御名によって私たちは救いの道が完成するのです。

神の愛というのは無条件の愛です。

私たちが神様の前に何か良いことをしたでしょうか?

何もしなくても、いや神様の悲しむことばかりをしたとしても、神様は無条件で愛してくださる愛なのです。

愛にはギリシャ語で三つの表現があります。

エロスの愛。 それは自分中心の愛です。自分の欲望のままに愛する愛です。

フォレオーの愛。これは相互交流の愛です。あなたが愛するから私も愛する。友情とかもその愛です。素晴らしいものです。そこには互いの愛が必要なのです。

神様の愛はアガペーの愛です。

それは与える愛。一方的に無条件で愛する愛です。

母親と子供の中にある母親の愛に似ているといえます。どんなことがあっても悪い子ほどかわいいと母親が子供を愛する愛。

そんな愛で私たちは神様から愛されているのです。

この愛を受ける者は、また人を、神を愛せるのです。

まず神様の愛を知り、受け取る中で私たちはイエス・キリストによって新しくされるのです。

人は自分が愛されている体験がいります。

しかし、この世界で現実の家族の中で、学校の中で、職場の中で

必ずしもずっと愛されている人は少ないでしょう。

愛されて育った人は幸せですが・・・・。人間の愛は条件付きの愛です。

しっかり勉強ができたから、何かスポーツができるから…かわいいから・・・

何にもなくて、周りからの愛を受けずに育った人もいるでしょう。

でも神様の愛は違うのです・・・・。

私達をそのまんまで愛してくださるのです。

アガペーの愛。無条件の愛です。

この愛に、この神様の愛の中に人がいるとき、心の底から平安があります。

こんなものを愛してくださっているという喜び。

罪人の頭のようなものさえ神様は愛してくださっている・・・・。

その愛を受ける者はまた人を愛することができるように変えられていくのです。

でもわれらは失敗ばかり・・・。

でもイエス様の受難週に現わされた一方的な愛。

それを私たちは知ること。そこに帰ってくること。

そこからまた一歩を踏み出せるのです。

受難週の一週間のイエス様のできごと

たとえば今日の枝の主日のできごと。自分の都合の良い王様としてイエス様を迎え入れ、ホサナホサナと歓喜の声を上げ、自分の都合が悪くなると、自分の思い通りに行かないときは「イエスを十字架につけろ!!!」と叫ぶ。たった数日でがらりと態度が変わるようなもの。そんなものにもイエス様は死んでくださったのです。

受難週の中で、イエス様に何か良いことがなされたでしょうか???

裏切るもの・・・・。逃げるもの・・・・ののしるもの・・・・。そんなもののためにイエス様は来てくださり救いの道を用意してくださった・・・・

受難週のできごとを、一つ一つ見ていく中で、私たちに何の功績もないのに・・・

それでもそのままの私たちを愛し、祈り、救いの道を用意してくださったイエス様を見るのです。

それは私のため、あなたのためです。

今日の枝の主日礼拝の中で主に用いられたものがいました。それは小さなロバの子でした。なんの誇るべき姿もないロバの子が「主がお入り用なのです」との言葉で召し出され用いられました。

私たちに、神様は無条件の愛。アガペーの愛で愛してくださっているのです。そして私たちに生きる道を与えてくださるのです。

それを私たちは神様からの一方的な恵みを、信仰で受け取るのです。

この一週間に、さらに皆様の心の中のイエス様からの愛が大きくなりますように・・・

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