2024年3月10日
説教題「仰ぎ見る時、生きる」
聖書箇所 ヨハネ3:14~21
ヨハ
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
おはようございます。四旬節第四週です。
先週はイエス様の宮きよめを見ました。
宗教というのはいつの間にか堕落してしまいます。
最初は良いと思っていたものさえ、いつの間にか形式になってしまいます。
いつのまにか本当の信仰を失う事は確かに歴史が証明しています。
イエス様が宮きよめをしましたが、それも最初はいい事だった。
なんでもそう
いつの間にか
おかしくなってします。
私達が歴史を学ぶことはそういう意味で大切です。
神学校でキリスト教の歴史。教会史などを学ぶのも大切です。
普通に社会科で歴史を学ぶのも大切です。
歴史は私達に沢山の事を教えてくれます。
今起こっていることも、多くは、歴史は繰り返すと言うことから大事な事です。
人間の世界で起こっていることは、真新しいことは何もないのです。
時代と科学的な事は変わっても人間の本質は変わらないからです。
ですから聖書を読み、聖書を学ぶことは、今も私達に語りかけておられる真理であると信じるのです。
これは宗教だけに限った事でなく、すべての事に於いてです。
そして人は一度やりだしたものを変えることが難しいのです。
間違っているとわかっていても
イエス様が宮きよめで言ったこと。宮は神の前に出る神聖な場所 祈りの家であるべきなのにそこを商売の家としてはならない。と言われているのに・・・・それを悔い改めることができないのも、ある意味、人間の社会なのです。
人間って昔から変わらないんだなあ・・・愚かだなあ・・・と偉そうに見ている私自身も同じ事をしているのです。
誠に人間は愚かで罪深いものなのです。
でもそんな私達に希望があります。それはそんな愚かな私達のために救いの道が備えられているのです。そこには希望があるのです。
それが今日も語らせて頂きます福音です。
イエス・キリストの十字架なのであります。
イエス・キリストは私達を救うために十字架に付けられたのです。
さて今日の聖書日課に入ります。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
この言葉は旧約聖書の民数記の出来事です。
イスラエルの民は、アブラハム、イサク、ヤコブと続きますが、ヤコブの時代に飢饉があり、エジプトにすでにいて、エジプトの総理大臣のような立場にあったヤコブの息子ヨセフを頼って移住します。エジプトに移ったヤコブの家族は70人でありました。
その70人が神様の祝福の中で増えていき。壮年男子だけで60万人と
言う一大民族になります。妻子を入れると200万人くらいであろう言えます。
その時はヨセフの事を知らないエジプトの王様であり、イスラエル民族はエジプトで奴隷のような悲惨な立場にありました。イスラエルを哀れんだ神様はモーセを通してイスラエルを救い出しエジプトから脱出します。出エジプト記です。
彼らがエジプトにいた期間は430年であったと聖書にあります。
モーセに率いられた民は、紅海では後を追ってきたエジプト軍から逃れるために海が割れるというような奇跡を体験します。
また荒野を旅する中で神様からの食べ物(マナ)をいただき
まさに神様の恵みと守りの中で旅をしていきます。
聖書を見ると、民は助けられたときは大喜びして神様を褒め称えるんです。でもちょっと時間が経ってきて、自分の思うように行かないことが起こると神様の恵みを忘れて、文句を言い始めるんです。
これは私達の姿でもあります。
自分のとてつもない苦しみを助けられたのに・・・・・
小さな事で文句を言う。
民数記21章を見てみます。
民
21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
マナに感激していたのに
エジプトから助け出されて喜んでいたのに
その神様に信頼せず・・・文句を言うのです。モーセに文句を言うのです。
モーセに言った文句はすなわち神様への文句です。
神様は怒られ、罰を与えられます。
その罰は燃える蛇を送られました。
民
21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
これをみて民はモーセに泣きつくんです。助けて下さいと・・・・・
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
自分の罪を認め、悔い改め神様の助けを願いました。
モーセも民のために祈りました。
そこに神様からの助けがあります。
民
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
これはイエス・キリストの十字架の予表と言われています。
罪を犯したものは裁かれる
燃える蛇に噛まれたものは死ぬ。裁きが避けられない
ところが噛まれたものに救済の方法が与えられた
青銅の蛇 旗竿の上に付けられた (十字架のイエス様)
もし噛まれても 青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。
私達も十字架を信じて仰ぎ見るものは生きる。
蛇はいなくならない
問題はある
でも十字架を仰ぎ見るものは生きる。ここに福音があるのです。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
イエス様もまたあげられなければならない。十字架につかなければならない
それはなぜか
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
そして聖書の中の聖書 ここ一節で聖書を著している 小聖書とも言われるヨハネ3:16が語られます。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神様は、世を愛された。世とは今の世界であり、私たち、あなたの事です。神様は私を愛された。でも私たちにはみな罪があります。神様に逆らう心があります。罪ある私たちをそのまま受け入れることはできません。神は愛であると共に正義である方なのです。私たちをそのまま許し、愛することはできなくなっているのであります。
そのために私たちの身代わりになるものがいります。旧約聖書の時代には罪を犯し、それを許していただくために動物のいけにえがささげられました。その血によっていのちによって、罪が赦されたのです。
でも人は、罪を犯して赦されたとしてもまた罪を犯すものです。
永遠に続く、本当の赦しはありません。
それは身代わりが不完全だからです。それでは完全な身代わりとはなにか?
それは全く罪を犯したことのない方。神の子イエス・キリストであるのです。
父なる神様からしたら、たった一人の子 その子を犠牲にしてあなたを、私を許されたのです。
そしてそのイエス・キリストを私の救い主と信じる人に罪の赦し、永遠のいのちを与えてくださったのです。
このみことばはまさに偉大な福音です。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ここで御子を信じる者とありますがそれはどういう事でしょうか?信じるってどんなこと。私は今イエス様を信じているんだろうか?それならは永遠のいのちさえ約束されているけど…大丈夫だろうか・・・・
そんな気持ちになることはありませんか?
信じるという事、信仰とは感情ではない。
感情はコロコロ変わります。いい気分の時は心も前向き。
今剣道に行っていて体調が悪くて、動けなくなってしまったときはどうしても気が沈みがちです。牧師であってもそうです。なんか祝福がないような気がします。
逆に体調がいいと気持ちもなんかうきうきです。神様ありがとうございます!!って感じです。
その時は救われている永遠のいのちを感謝する。
気分が落ち込んでいるときは救いさえ心配になる。それは感情で信仰を持っているからです。そうではない信仰は感情ではなく。聖書の約束に立つのです。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
このみ言葉に立つとき。神様の愛と。自分の救いが明らかになるのです。
御子を信じるとはどんなこと。これは信じて仰ぎ見ることです。
燃える蛇にかまれた人が、旗竿につけられた青銅の蛇を仰いだ時生きたとあるようにです。
私たちはイエス・キリストを仰ぎ見ること。それが信じることです。信じていないならば仰ぎ見ません。自分の力で何とかしようと思うかもしれません。
神を呪うかもしてません。ただ神様の救いの方法はつけられた青銅の蛇を仰ぎ見る事なのです。イエス様を仰ぎみることなのです。
イスラエルの人たちは、昔はこんなに良かったのに・・・・神様なんでことをされるのですか。と神様に文句を言いました。
私たちも何か問題があると…昔はよかったのに・・・・とか言います。過去を美化することがあります。しかし、過去は過去。そこには帰れないし、過去が(美化された過去)に帰って生きることはできないのです。
私たちは過去には生きていない。今現在に生きています。その時本当に生きる方法はイエス様を信じて仰ぎ見ることから始まるのです。
どうしてそう言えるか?
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
それは神様がイエス様を遣わされたのは、私たちを裁いて罰を与えるためではなく
御子によって イエス様を信じて仰ぐことによって私たちが救われるためですとはっきりとあります。
神様は裁くためにではなく、救うためにイエス様を送られたのです。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
私は神様の愛を信じています。私たちの罪の性質はご存じですが、私たちを裁くために来られていない。
ですから信じる者はイエス様の方に光の方に向かいます。
世の中には闇に向かう人がいます。それは光であるイエス様から離れて居る。
闇に向かう人は、過去に生きている人であるかも
私たちは日々の中で、イエス様を仰ぎ見ない時 そこは闇です
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
裁きというのは イエス様がすでに来られ、光が来ているのに
人は光よりも闇を愛したのです。
光っていいけど、怖い部分もあります
何もかも見えるとき 光は怖い ゴキブリは光を怖がり、逃げます。
闇にいよう
光の中では自分の罪も明らかになります。光に向かう事はつらい事でもあります
だから人は光よりも闇を愛する
イエス様と共にいるよりも
イエス様のいない世界を愛する
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
これってわかる・・・・クリスチャンでもそう・・・・
悪いことをしたらお母さんに叱られるから・・・隠れる 闇を好む
光の方に行かない
でも聖書の言葉に立ってください
神様はあなたを愛しておられるんです。その最愛のひとり子イエス様を犠牲にしてまであなたを愛し、十字架の救いの道を用意してくださっているんです。
神様の愛は、どんなものか・
私たちが、神様のお役に立ったから愛されたのか?
私たちが、神様が喜ばれることをしていたから愛されたのか?
私の心にいつも語り掛けてくださる神様の愛
ロマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
私の行いも何もないのに・・・罪人であったのに・・・・
キリストが十字架にかかってくださった。神様がそのひとり子を犠牲にされて迄愛してくださっていた。
この愛なんです
神様の愛は私たちが罪人であったときに現わされているのです。
そしてその福音はすでに完了しているのです。2000年前にイエス様はあなたのために救いの業を完了しているのです。
あなたのすべきこと
それはあなたが修行することでもないのです。
ただただ、信じて仰ぐことなのです。
旗竿につけられた青銅の日々を信じて仰いだように
苦しい中、頑張って、がんばって旗竿の下まで這って行かなくてもいい
そこで仰げば生きたのです。
その場で仰ぐ
あなたもいろんな問題があるかもしれません。しなくてはいけないことがいっぱいあるでしょう。パニックになっているかもしれません。
心の感情は闇になっているかもしれません。
ああ、昔がよかった…と過去を求めているかもしれません。
ただあなたのために用意してくださっているイエス・キリストを仰いで
ください。神様はあなたを愛し。この救いの道を用意してくださっているのです。
それを信じてください
イエス様を仰いでください。そうすればあなたは生きるのです。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
この偉大な福音 小聖書と言われる 聖書のエキスのようなみ言葉
それは変わることなく今日も私たちに語られているのです。
祈り