2024年3月3日 説教

説教題「宮きよめ」

聖書箇所 ヨハネ2:13~22

ヨハ

2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、

2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、

2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

おはようございます。

四旬節第三主日礼拝です。

先週は、イエス様の最初の受難予告がありました。

それを聞いた弟子たちの驚き、その対応が書かれていました。

ペテロはイエス様、救い主キリストである方が、そんなことが起こるはずがありません。とイエス様をいさめました。

その時イエス様に「引き下がれサタン。あなたは神の事を思わないで人の事を思っている」と叱られました。

神様のご計画は、私たちの思いをはるかに超えているのです。

さて四旬節第三主日 今日の聖書日課は

エルサレムに向かったイエス様の宮での出来事が今日の聖書日課です。

「イエス様の宮清め」と言われている事件です。

聖書を見てみると、みや清めの出来事は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書ではイエス様が受難週の時、人々の歓喜の中で、ロバの子に乗ってエルサレムに入城したすぐ後の出来事として書かれています。

ところがヨハネ福音書ではイエス様の公生涯の初期。2章でみや清めの出来事が記されています。受難週にはヨハネの福音書には書かれていません。

これはどう考えればいいんでしょうか?

聖書はこれほど研究され、読まれてきているのに、わからないことは今でもあるんですね。

このことについては、みや清めは二回あったという考え・・・・。イエス様は公生涯の初期にエルサレムに来て、その時に今日のみや清めがあり、受難週にエルサレムに来た時にも行った。

二回もみや清めを行ったイエス様のお気持ちはいかばかりであったであろう・・・・という考え方。

いや、みや清めは一回だけである。それは最後の一週間受難週の時の出来事である。ヨハネ福音書は、時系列において自由なところがあるので、あえて、みや清めの出来事を2章という早い箇所で書いているのである。

だから、ヨハネ福音書の受難週にはみや清めの事件の事が書かれていないのだ!という説です。

ここに聖書といえども説が分かれることもあるんです。

私は素直に聖書を読んでいく中で、今日の出来事はイエス様の初期の伝道旅行の時のことだと考えます。イエス様の最初の奇跡はカナの婚礼で、水をぶどう酒に変えました。こののちしばらくしてユダヤの過ぎ越しの祭りの時にイエス様がエルサレムに上られたときと考えています。

イエス様がみや清めをなされた、しかしそれはその時だけの事であり、やがて人々は同じことをし始めた。

イエス様が受難週に入城された3年後にも同じことをされた・・・・・。人間の罪というのは深いものだと思いながら読んでいました。

2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。

ユダヤ人の過ぎ越しの祭りというものは非常に重要で大きな祭りです。

敬虔な人々はこの時期エルサレムの神殿に詣でるのです。

過ぎ越しの祭りは、旧約聖書の出エジプトの事件を記念して世世にわたって民が守るべき祭りとされています。

エジプトの王様とモーセの戦いの中で、神様は最後の災いとしてエジプト中の初子を全部殺す。家畜の初子も殺すといわれます。

ただしイスラエル人が家で羊を殺し、その血を家の門柱と鴨居に塗り付けている家は災いを過ぎ越すという約束をされます。

この過ぎ越しは、日本の節分のルーツでもあると言われたりしますし、

家の門柱、玄関にヒイラギとイワシがあれば災いが過ぎ越す・・・・

本来滅ぼされるものが門柱の血によってその災いを過ぎ越されるとは・・・・。

本来滅ぶべき私たちがイエス・キリストの十字架の死と血潮で神様の災いが過ぎ越される・・・・。十字架の救いの予表ともいわれます。

過ぎ越しの祭りはユダヤの三大祭りに数えられ、その中でも最大のものです。

日本の新年の初詣より大きいものでしょうか。七日間あります。その期間に各地に散っている人々はエルサレムに来て、神殿に捧げものをささげ、礼拝するのです。

大鳥大社の初詣が日頃とは違い、大変な混雑だといいましたが、それよりももっと大規模な祭りの時なのです。

イエス様一行もいかれました。町は、ユダヤ地方以外からの旅行者もいます。現地の人もいます。エルサレムの町はごった返していました。

2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、

2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、

2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

当時の宮の様子ですが、この神殿はヘロデ王が大々的な改修工事をしてヘロデの神殿と呼ばれていました。立派な神殿でした。

神殿は金箔も施され豪華絢爛でした。そして宮の中(正確には神殿の外、異邦人の庭と呼ばれる一般の人が入れるところ)には牛や羊や鳩を売るもの。両替人たちが座っていました。

神殿にささげる動物は、傷のないものでなければなりません。

田舎や外国から来る人は捧げものの動物を家から持ってくる、連れてくることは現実的ではありません。

旅の途中で動物たちがけがをするかもしれません。そうなると傷のないものではなくなり、ささげることができません。

ですから、宮の中には捧げものに適した牛や、羊や鳩が専門業者によっておかれているのです。これは昔から許されていることでした。人々の便宜を図ってのものでした。

ところがここで人々のためというよりも、神殿側や王様や祭司たちの利益のために、動物を用意する専門業者との癒着があり、バックマージンがあり、自分で勝手に持ってきたものは祭司が許可しない・・・。というようなことがありました。

運転免許でも飛び込みは難しい。自動車学校と警察との持ちつもたれつという癒着です。

お墓なんかも指定の石業者以外は墓を作ることができないとか・・・。

同じように両替人も神殿にささげるお金は、ローマのお金は異邦人のお金で汚れているということで、ユダヤの国のお金、神殿用のお金に両替しなくてはいけません。

ここでも癒着がありました。その両替の手間賃は非常に高いものでしたが、仕方なく民は支払ったのです。

ささげものも、両替も商売になっていたのです。

イエス様はこれを怒られ、ものすごい剣幕で怒られるのです。

2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、

状況を想像してください。

大鳥大社の参道でこんなことをしたら大変でしょうね。

イエス様には迫力があったんでしょうね。

そして鳩を売っている人に

2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

神殿は商売の場所ではない!!と断言されます。

宮というのは商売になってしまうことが多いです。宗教の堕落です。

2/28,29の二日間 大鳥大社で先の見えるお守りというのが売り出され、大変な

活況でした。権禰宜さんを中心に大鳥大社はSNSを利用してヒット商品を売り出しています。最初は大鳥大社を再興するためにという思いでしょうが・・・これが儲かりだすと、堕落が起きてしまい。信仰とは違い商売になってしまう事が往々にして起きるのです。

イエス様は宮の腐敗を嘆き、宮きよめをしました。

2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

弟子たちが思い起こした言葉は詩編69:9の言葉です。

69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。

神の前に正しく生きようとする努力は(神の家を思う熱心は)

罪人の世界では正しく評価されるわけではない。逆に人々のそしりが降りかかってくるのです。という言葉です。

例えば、世の中の悪を見て見ぬふりをするのでなく、正しく非難し戦うものは必ずしも正当に評価されないということがあります。

宮の中で、牛や羊のような捧げものを売っている商売・・・・そこに業者と宮関係者の癒着があること。両替人が商売をする代わりに神殿の関係者にリベートを渡していること。

これはある程度、誰でもわかっていることです。

ここに異を唱えて、イエス様は大暴れ・・・・・

その心の中は、宮は祈りの場所であるのに、そこを商売の場としている

正しい礼拝の姿ではないとの聖なる怒り・・・。

でも弟子たちは思いました。これはイエス様やりすぎでは・・・・。かえって宮の関係者からやられてしまいますよ。

誰も今まで、いつのまにか堕落してきた宗教に反抗はできなかった。

いや、した人は滅ぼされてきた・・・・。だから見て見ぬふりをしてきた。

たとえばいじめの問題があります。それに向かうには、大きな強い力に向かっていくことは難しい・・・・見て見ぬふりをする・・・・。

電車の中で暴力沙汰があってみて見ぬふりをする・・・・。

聖なる神殿が商売の場になっているのを見て・・・・見て見ぬふりをする。

それが大人のすること。

しかし、どうしても見て見ぬ振りができない。主の家を思う熱心。正しいものを正しいと告げる。その思いがイエス様を突き動かしたのです。

宗教改革の時、ルターは当時世界を支配しているように見えた、ローマ法王に逆らいました。

人の救いは、罪の赦しは、免罪符で得られるものではないと叫びました。

声を上げました。

信仰を商売にしているローマカトリックに公然と抗議したのです。

見て見ぬふりはできなかったのです。

弟子たちは驚いたでしょう。

2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

この言葉はイエス様のこれからの厳しい立場を予想したのです。

この騒ぎの中で、ユダヤ人たちが怒ってくるのです。

話の流れからは当然の事でしょう。

今までそれでうまくいっていた。と思うことに突然ナザレのイエスというものがやってきて大暴れをしているのです。

なんでこんなことをするのか!!なんの権限で!!!と問い詰めようとするのです。

2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

こんなことをしてただで済むと思っているのか!!という勢いです。

ただ、民衆の事を思えば彼らは、「イエス様今まで誰も言えなかったことをよく言ってくださった!!」という思いはあるでしょう。

心の中で、やんや、やんやと拍手をしていたように思います。

今までかなり、いいように儲けられていたのです。

ユダヤ人の指導者たちの怒りの言葉に対してイエス様はこう言われます。

2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたし

は、三日でそれを建てよう。」

不思議な言葉です。

この神殿を壊してみなさい。

イエス様はこの時、ご自分のいのち、ご自分の体を神殿に例えて言っているのです。たとえというよりももっと意味のある。今や神殿よりももっと大切なものがイエス様なのであります。

聞いた人は意味が分かりません。

われらを馬鹿にするのか!!!という思いです。

2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

ユダヤの神殿というものは、ソロモンの時代に建てられました。

その神殿は、ユダヤの国がバビロン捕囚に会うときに壊されました。

この辺りは旧約聖書の知識がいります。

神殿は破壊された後。ネヘミヤの時代に捕囚から帰ってきた民は神殿を再興するのです。それはソロモンの神殿のような豪華な神殿ではありませんでした。

まあみすぼらしいものでしたが・・・・。しかし心からの、信仰によって建てられた神殿でした。

その神殿を、ヘロデ大王が大々的な改修建築をしたのです。

これは信仰からというよりも、人々に自分の力を示す。神殿の偉大さを見せつけるというような意味合いがあります。

信仰よりも荘厳さで人々を驚かせ自分の権威を高めるというような神殿でした。

ユダヤ人たちはイエス様の言っていることがわかりません。

2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

この宮清めの時、イエス様は復活の預言をされているのです。

人々に真の神様への信仰を語り、形骸化、形式だけにこだわる信仰を否定し、

金儲けの手段ではなく、本当の救いへの道を指し示されたのです。

イエス様のなされた宮清め。それは私たちも陥りやすい弱さです。

信仰がいつの間にか形だけのものになったり、自分の生活の糧になったり・・・・

本来とは違う道に進んでいくことがあるのです。

それを周りの人はわかっていても注意してくれない時もあります。

その人がかたくなになったり、傲慢になったりしていくからです。

これもまた誰でも陥ります。

相撲の白鳳も、朝青龍と比較されているときは、まじめな、人格者のように見えました。そうだったと思います。でも長く横綱を続ける中でいつしか傲慢になっていく・・・・。そんなことがあります。

最初は一生懸命だったのが、成功の中で徐々に権威主義になっていく。

裸の王様になることも私たちにはあります。

間違いを指摘してくれないことがあります。

心しなくてはいけません。聖書を読みながら自分はどうだろうかと反省しました。

イエス様はご自分にかかるそしりをわかりながら、宮清めをして、人々に真の信仰に立ち帰るように叫んだのです!!!まさに荒々しく叫んだのです。

ユダヤ人たちがそれを受け入れなかったことは、三年後にもう一度イエス様が宮清めをなさったことからもわかります。

人はなかなか悔い改められないのです。変わらないのです。

談合はいけない!と言いながら・・・・。確かにいい部分もある・・・・。

完全に決別したと宣言をしながら、結局しばらくしたらまた始まるのです。

私たちの日々もそうです、これは悪いと言われ!!!

反省しても、また繰り返すというような事ばかりです。

しかし、復活のイエス様にお出会いするとき・・・・。イエス様の言葉を心から受け入れ悔い改め、その救いを受け入れるのです。

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエス

がこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

本当に信仰は、聖書とイエスが言われた言葉の中から与えられるのです。

ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

このことばを私たちはお伝えしていく働きに召されているのです。

10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

私たちの心の中にもイエス様は入ってきてくださり、宮清めをしてくださいます。そのイエス様を排除するのではなく、悔い改めてイエス様の住んでいただける私たちにさせていただきましょう。

Ⅰコリ

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

祈り

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