2024年2月25日

説教題「初めての受難予告」

聖書箇所 マルコ8:31~38

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

おはようございます。

四旬節第二主日です。3月31日のイースター前の40日

今日の聖書箇所は、先日、2月11日の主の変容主日礼拝の時に読まれた箇所の一つ前の箇所です。

時間順に聖書日課がなっていないので少しややこしいかと思います。

2/11の変容主日 イエス様のお体が白く輝き、神の子としてお姿を弟子たちに現わされた。時です。

それはなぜかと考えるに、一つの大きな理由は、イエス様がこれから殺

されるという預言があったからです。

弟子たちが不安になった中で、イエス様はペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子に、ご自分の変容したお姿を見せました。それをしなければ弟子たちが不安でつぶれるような状態だったからです。

さて今日は、変容主日の前、イエス様が弟子たちに一番最初の受難の預言をした箇所であります。そこを学んでいきましょう。

イエス様は、5000人の人たちや4000人の人たちにパンを食べさせてあげたり

目の見えない人を見えるようにしたり・・・驚くべきことをしています。

そんな中でイエス様は、人々は私の事を誰だと言っていますか?と尋ねます。

弟子たちは、「人々はこのイエス様は、死んでしまったバプテスマの生まれ変わりだとか、エリヤが再び現れた(エリヤは旧約聖書の中で、死ぬことなく生きたまま天にあげられた方です)

いや神様の遣わされた預言者だ!と言っています。」と答えます。

とにかく素晴らしい人だと言っているのです。

8:27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

8:28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」

この人たちの言っていることはイエス様を尊敬し・・・素晴らしい人だという事です。

イエス様は弟子たちに、それではあなた方は私の事を誰だと言いますか?と問うのです。

するとペテロが答えます。

8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」

ペテロはイエス様の事を正しく答えたのです。あなたはすばらしい人ではない。ただの人間ではない。あなたはキリストです。と答えるのです。別の福音書では「あなたは生ける神の子、キリストです」と言います。

キリストとは私たちの救い主。人間ではない神の子であります。

こんな風にペテロはイエス様を正しく理解したのです。

あなたは私たちを救い出してくださる本当の救い主です。すなわちキリストです。と告白するのです。

イエス様はこの事はまだ公に言ってはならないと口止めします。

8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。

自分はキリストである。それが弟子たちにわかっているとき。

その中で今日の聖書日課に入るのです。

ここはイエス様の生涯で、ご自分の受難をはっきりと告げられた、第一回目です。

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。

イエス様は、私はこれから多くの苦しみを受けます。

そしてユダヤの指導者たち 長老、祭司長、律法学者たち(現在のユダヤを治めている人たち。ユダヤ教の中の人たち)に

捨てられ

殺され

三日目によみがえる

と言われます。

あなたはキリストですと、今、目の前で告白したペテロはこのイエス様の言葉に驚きます。納得がいきません。自分の考えるキリスト観と合いません。ペテロはイエス様をいさめるのです。

するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

そんなことがあってはなりません。とわきにお連れして 意見するのです。

その時イエス様はペテロに言います。ペテロを叱っているというよりも、ペテロの心の中にあるサタンに支配されている罪の心に叱るのです。

マル

8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人

のことを思っている。」

これはペテロだけではない。弟子たちを見ながらとありますから・・・イエス様をあなたはキリストですという弟子たち。それは現代のわたしたちにでもあります。

イエス様のこれからなされようとする受難、十字架、復活がわからず。人間的にイエス様が死なれることはいけませんと言っている者に対してです。

ペテロを叱りましたが。まさにペテロの中にいるサタンを叱ったのです。

「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

先日この言葉は私が献身に導かれたとき、フェリーの中で示された言葉だと証ししました。

私たちは神のことを思わないで、人の事を思ってしまう。これは私もそうです。皆さんもそうであるでしょう。

私たちは人間の考えで、救い主ならこうあるんだろうと考えます。王様のように来られて、今、ローマの属国となって虐げられているユダヤの国を再興してくださる方。そんな救い主の姿を想像する人は多かったと思います。

救い主・キリストとは人々を癒し、人々に慰めを与え、生きる希望を与える素晴らしい方を想像していたかもしれません。

それゆえに、ペテロはイエス様をいさめられたのです。

マタイの福音書では

16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

救い主がそんなことになってはいけません。と言った。ペテロでなくても私たちでもそういうのではないでしょうか。しかし、実はそうではなかった。

人の現実はそうではなかった。私たちを救い出すのはそんな甘いものではなかった。そこには大いなる犠牲がいるのです。

クリスチャンになってからだんだん、それが深くわかってきました。私たちがそのままでは滅びの中にいる。それを救い出す。神の怒りから救

い出す。

そのためにキリストが私たちの身代わりになって、私たちの受けるべき罰を受ける・・・そして私たちは赦される。

それはとてつもない事なのです。まさにクリスチャンになって時が立つほどわかってきています。

イエス様が救い主として来られた。そしてその救いは十字架と復活である。

そのためにイエス様がされたこと。それは

① 捨てられる

② 殺される

③ 三日目によみがえる

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

イエス様がなされる救いのみわざ その三つを考えてみましょう。

それは本来私たちが受けなければならなかった苦しみ。私たちの犯した罪の罰を代わりに受けてくれることによるのです。

聖書は、義人はいない。一人もいない。(神の前に正しいと認められる人はひとりもいないと言っています)

そして すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(ローマ3:23)とあるのです。

これは大変なことです。クリスチャンになる前は思ってもいませんでした。

ある人がそのことを滝の前(川の上流でゆっくり遊んでいる)でいる人みたいとたとえで話していました。

滝の上流は穏やかな川です。この後、恐ろしい滝があるなんて考えてみいない人々が遊んでいます。

でもその流れはやがて滝に行く。私の少ない海外旅行経験の中でナイヤガラの滝に行ったことがあります。確かに上流はそんなことはわかりません。しかし、滝に来るとすべての物が滝に落ちるのです。落ちたら到底助からない滝です。

この人々を助け出す方法は、橋を架けるしかない

これがイエスキリストの十字架だと言われ、なるほどと納得しました。

そのためには並大抵のことではない

イエス様は私の代わりにその苦しみを負ってくださり、私に救いの道を用意してくださったのです。

① 捨てられる

イエス様は多くの苦しみを受け、人々に捨てられるのです。あなたはだれかに捨てられる体験をしたことがありますか?

社会に

仲間に

私の体験です。前の教会の牧師を批判しているみたいになると悪いのですが、ここはお許しください。

私は27歳でクリスチャンになって19年間いた教会から牧師と合わなくなってそこを去りました。それまで教会で中心的働きをしていましたから、牧師は出ていく私のほかの人たちへの影響を考えて「豊島さんご夫妻とは今後関わらないように。彼らは不信仰者です」という指令をしたそうです。その気持ちがわからなくもありません。

大阪に来て教会員以外に友達もいない私にとってそれはすべての人間関係を断たれたみたいでした。皆さんとは付き合いはあったけど、牧師の命令で私は捨てられたようになりました。一瞬で孤独になりました。今日のイエス様の捨てられたという事。それは民衆に捨てられたのではなく上層部に捨てられた。ゆえにすべての人に捨てられたのです。

これはつらい事です。この間まで癒してあげて喜んでいた群衆も手のひらを反すのです。

そして天のお父様にも捨てられた

十字架上での言葉です。

マル

15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

イエス様の捨てられるという短い言葉の中になんと深い意味があるか? イエス様はなんという苦しみの中にいたのか・・・。

② 殺される

イエス様は殺される

究極です。完全にいのちを絶たれるのです。

罪の罰を受けなければならない。

罪からくる報酬は死です。

③ 三日目によみがえる

罪の罰を受けて・・・完全に死に

完全によみがえる 復活する。

復活によって罪の赦しの確証が与えられる。

私たちの救い主なるキリストは 本来ならば私たちが受けるべき罰を受けたのです。

それは捨てられる

そして殺される

これを完璧に行ったゆえに三日目によみがえるのです。

そしてこのよみがえりによってキリストの死はただの死ではない。私たちの救いの完成だとわかるのです。

このキリストを信じるとき。私たちは救われる道ができたのです。

この話を弟子たちにしても、特にペテロは全く理解できず、

イエス様をいさめたのです。

ペテロの気持ちがわかります。

私は、福音に生かされて歩まされていますが。最近とりわけ難しいなあと思います。

イエス様の受難・復活・そして信じる者は救われるとの福音の言葉

そのまま信じる人は本当に少ない。

まさに福音はおろかな言葉であるからです。

ペテロも受け入れられなかった。

Ⅰコリ

1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世

の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

ペテロは、イエス様が用意してくださった救いの道を、自分の価値観、自分の考えで受け入れることができず。

イエス様が教えてくれているあなたのための十字架であり、復活であるという事がわからなかったんです。

そして多くの人がわからないんです。

1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

私はあるときイエス様の十字架と復活は私のためです。私のためでした。と信じることができました。

人間の考えでは、理性ではおろかに思えるかもしれません。

でも感謝なことに、このおろかに聞こえるイエス様の十字架と復活は私にとっては力なのです。ここに神の力があるのです。

喜びがあるのです。

1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

このイエス様の第一回目の受難予告を頓珍漢な答えで否定したペテロさん。この時は叱られますが。イエス様はペテロさんを見捨てられません。やがてペテロさんもイエス様の本当の十字架と復活の言葉が理解し、その十字架の救いの中に生かされていくのです。

ですから皆さんも安心してください。

イエス様はあなたを見放さず、あなたが本当の救いの中に生かされていくように導いてくださるのです。

私のようなものでも救われたのです。そして神の力で喜んで生かされているのです。

8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

イエス様を信じるとき。イエス様の十字架と復活は私のためであったと信じるとき。人は全世界を得る以上に大切なものをいただくのです。

これは本当に確かです。

祈り

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