2024年2月18日 説教

説教題「試練の中で得るもの」

聖書箇所 マルコ1:9~15

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

1:14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

おはようございます。四旬節第一主日です。

いよいよイエス様の受難をとりわけ心に深く覚え、自らの心を探り、悔い改めと主イエスの十字架の救いの技に感謝して過ごす時です。

主イエス様は、神の子であられる方ですが、私たちの罪のために、その救いのために、人間の姿を取ってこの世に来てくださり、

そして最終的には十字架にかかり、私たちの罪の赦しをなしてくださいました。

この四旬節(レント)の期間はとりわけ、私たちの救いのために、主が十字架へと導かれる姿を学びます。

それは何よりも、私のため、あなたのため、この町には私の民がたくさんいるといわれたとイエス様が言われる、神様に愛された人々のためであるのです。

そしてその十字架はただの死で終わるのではなく、イエス様の復活へとつながります。

その主を信じる人々の罪の赦しの確証と、永遠の命。そして私たちがこの世で生きていく中で常にイエス様の恵みと導きがあり、われらがキリストに似たものへと変えられていく日々にあるのです。

先週は、弟子たちに、考えるに不安になっていた弟子たちに・・・。

それはキリストを信じ救われたもの。信じて歩むものもイエス様が見えなくな

って不安になってしまうこともあります。

その弟子たちの、目の前に、イエス様は真の主であり、神の子である。この方の言うことを聞きなさい。とはっきりと語られた天からの御声を聞いたのです。

私たちは、調子のよい時は、イエス様の救いを喜びます。ほめたたえます。

しかし、この世で生きていく限り、厳しい試練の時はあるのです。この世に悩みのない人はいないといいます。何かしら悩みがあるのです。

その時に、私たちは自分の力で何とかしようと頑張ります。これは悪いことではありません。

例えば入学試験があります。

神様どうぞ受からせてください。と何にも勉強をしなくて祈っているだけではだめでしょう。

剣道でも稽古もせずに強くならせください。尺八でも稽古もせずに吉田先生みたいな音が出るようにしてくださいと祈ってもそれはできません。

私たちは試練に向かって人間としてするべきことはしなくてはなりません。そこで頑張ることは悪いことではありませんし、しなければなりません。

しかし、どんなに頑張っても自分の力の限界があるでしょう。

どうしても問題が起こることがあるでしょう。

めちゃめちゃ勉強ができるのに・・・・突然の病気になったり、・・・。お家に不幸があったり、その時自分だけで頑張るのではない。自分でギブアップしたとき・・・・。私たちは絶望することはないのです。

まさに天が開き。そこから声がするのです。

これは私の愛する子。彼の言うことを聞きなさい。私の救い主イエス様がおられるのです。

そして私たちに本当の救い、いのちを与えてくださる方がおられることをわかるのです。

あなたが祈るとき、試練が大きいほど、主もあなたのそばにしっかりといてくださるのです。

今日の聖書日課を読んでみます。

1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

聖書に四つの福音書がありますが、マルコの福音書は非常にシンプルです。記事がある意味短いです。

ですからその詳しいことを知りたいと思うとき、そのほかの平行記事を読んでああこういうこともあったのかと知ることは大切です。

でも、マルコの福音書の短さは、ある意味余分な肉をそぎ落としたようなシンプルさの中に、神様の御心が見えてくる時があります。

み言葉はたった二節ですが

その行間の中に私たちは神様の御心を教えていただきたいと思います。

短いことは流れがよくわかります。

1節神の子、イエス・キリストの福音のはじめ

イエス様の福音が語られる時、何があったか、どんな順番であったか

マルコの福音書はイエス様のご降誕の話、クリスマスの話はそぎ落とされています。

イエス様が公生涯に立たれる時から書かれています。

まずバプテスマのヨハネが現れて、人々に神に立ち帰れ!と悔い改めのバプテスマを施します。

そこにイエス様が来られるのです。

ヨハネはすぐにこの方こそ、自分たちが待ち望んでいる救い主だとわかります。ですから私はあなたのただのさきがけです。私にはあなたにバプテスマを授ける値打ちもありません。と言います。しかし、

イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けるのです。

これはイエス様の働きのスタートです。

神の子であるイエス様が人間と同じ目線で、人として生きるためにバプテスマを受けられたのです。

このことについては、今日は詳しく話しません。

そして洗礼を受けたイエス様が次になされた事。

それは御霊に導かれて、荒野で試練を受ける。サタンの誘惑を受けられたのです。

そして荒野での誘惑を、試練を受けられてのち、イエス様は福音を告げ知らせる働きに本格的につかれたのです。

サタンの誘惑の誘惑という言葉と、試練 あなた方のあった試練はみな人の知らないものでは・・・。の試練とは同じギリシャ語です。

イエス様が受けられたのはサタンの誘惑でありますが。それはまた試練ととら

えることもできます。

マル

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

1:14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

ここの聖書の箇所は、私は個人的にはとても好きな箇所です。

イエス様の動きが、いやそこに至る神様のご計画が、はっきりと見える。

イエス様の流れが躍動的に、見えてくる箇所なのです。ほかの事がないので余計にわかるのです。

イエス様はまず洗礼を受けられた(スタートを切られた)私たちの信仰もまず洗礼というスタートを切ります。

そして40日間の試練の時。悪魔の試みの時があった。これはイエス様の訓練の時(イエス様のような神様の子が、訓練がいるのでしょうか。イエス様は人として生きるとき、人間の弱さや苦しみを受けるために試みの時は必要だったのです。)

試練と共に、神様の助けを深く知るときだったとのです。

こんな時を通って、働きが始まったのです。

洗礼を受けて、人と同じ立場に立たれ、何の試練も誘惑も受けずに働きについたのではなかった。その試練は神様が用意されていたのです。

そしてただ試練だけでなく、

1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣ととも

におられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

試練と共に、いつもそばにいるみ使いたち。を体験していた。

荒野で野の獣と共におられたが・・・・・。

考えれば荒野で済むこと自体が大変なことです。

野の獣も共にいた。羊やウサギ・・・ならかわいいですが、オオカミなんかもいたでしょう・・・・。

例話 奈良公園の鹿でさえ恐ろしい・・・・

私たちは荒野の大変さを全く理解できません。文明社会の中にいるからです。暑ければエアコン。寒ければストーブ…テレビもあるし‥‥風呂も入れる・・・まあ荒野とは程遠いです。

野の獣も共にいるなんて体験もないでしょう。

前に話したことがありますが、学生時代に一人で寝袋抱えて無銭旅行をしているとき、奈良公園のベンチで寝たことがあります。

寝袋に入って寝ていたら、何か熱い空気・・・・変な音・・・。

そっと目を開けたら、鹿が私の顔の前にいます・・・・。

鹿でも角もあるし・・・・怖い

昼間に今の鹿は発情期。近寄らないでください…という看板も思い出し・・・・

もう怖くて怖くて・・・・。

イエス様の野の獣も共にいたという聖句で思い出しました。

野の獣もいるというのは心休まるときもないくらい、怖さがあります。

私の鹿の結果は・・・・。

緊迫と恐怖の時間が流れましたが・・・・。

酔っぱらいのおじさんがいい機嫌で・・・・近くのベンチに寝て・・・鹿たちがそちらに行ったときに。必死で逃げました。

サタンの誘惑と共に、野の獣 もう試練の連続です・・・・。

おりたくないですね・・。イエス様はそこに導かれたのです。

そしてそこでいつも神様と共に歩まれたのです。

神さまの助けを感じたのです。体験したのです。

野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

私たちの人生に重ね合わせるならば

洗礼を受けました。ああよかった・・・・。いいことばっかりがある。もう幸せばかりということはありません。

いろんな試練が起きることもあるのです。

私たちを主の兵士として、神様の喜ばれる人間にしようとするとき、いろんな試練があって当然なのです。

ヘブル

12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

ですから、訓練としての試練があるのです。そして試練の中におられるイエス様を見ることができる恵みを知るのです。

またイエス様は私たちの弱さを知るために、その試みを体験されたのです。

Ⅱコリ

1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰

めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです

聖書を見てみれば主のしもべという人はみな試みの時を通っています。

モーセは自分で人々を助けようと考えてから、失敗し、荒野に40年間訓練されました。

エジプトの王子としての学識、力だけでは本当の救い主にはなれなかったのです。彼は荒野に追いやられ、羊飼いとして、まさに下働きのような、荒野の暮らしがあったのです。そしてそこで得た経験が多くの人々を導くにになくてはならないものだったのです。

何よりも彼はそこで、神様の恵みと助けをいつも仰がざるを得ず、信仰が整えられ、自分の力で何とかすというのではなく、主の前にへりくだることを、主にゆだねることを祈りことを教えられたのです。

イスラエルの民をエジプトへの導くときに、エジプトの総理大臣として活躍したヨセフという人も、最初は、傲慢な人でした。

しかし、兄たちに奴隷として売られ、エジプトで奴隷として働き、無実の罪で牢に入れられるというような試練の時がありました。そしてその体験は用いられました。

ダビデもイスラエルの王として華やかな活躍をしていますが・・・・。一時はその活躍をねたまれ、時の王様サウルに命を狙われ、荒野を逃げ回る…放浪するような試練の時があったのです。

その試練の中で何を学んだか、まさにみ使いの助け。もう絶体絶命のように思うときに、共にいて助けてくださる神様の恵みと愛を知っていったのです。

順境の時にはわからないことです。

皆さんのクリスチャン人生を考えてみてください。

順風満帆ではないでしょう。しかし、不思議なことに、誠に不思議なことに私たちは、試練の時にこそ、余計に神様の愛。恵みを知ることができるのです。

イエス様の40日の荒野での試練の時。み使いは仕えられた。

私たちは苦しみ試練の時、イエス様を身近に感じることができます。

しかもそのイエス様が上から目線の律法学者とは違います。

私たちと同じように、いや私たち以上の試みを受けた方なのです。

十字架の死にまでの苦しみを受けた方なのです。

その方なら、私の苦しみはわかってくれるのです。

私の事を考えても、献身の志を持って、最初はモーセのように自分の力で牧師になれると考えて頑張ったのに・・・。うまくいかず、神様はまさに荒野に私を使わされました。

私の場合、献身したのが30歳。最初は自分の力で牧師になれると思っていましたが・・・・・。

なんと大挫折・・・・それから30年近く道がかかりました。

でもその中でたくさんの神様の恵みと愛もいただきました。

またその体験がきっと必要だったんだと思います。

イスラエルの民も出エジプトして普通なら一週間もあれば入れるカナンの地に40年間荒野をさまよって約束の地に入りました。

その中で、マナをはじめ神様の恵みと愛をたくさん体験しました。

その時はそんな苦しみはいらないように願いますが、神様のご計画はそういうことがあるのです。

ロマ

5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

こんな体験のために、イエス様は荒野の40日間を体験された。

そしてそれは神様のご計画だった。

私たちは、何かの試練があるとき・・・・・。ああこれは神様からの試練だ、信仰をもって受け止めよう!!!とそんなに信仰深いものではありません。

文句ばっかり言うことが多いです。

でもそれさえもご存じでイエス様は私のそばにずっとついてくださるのです。

いやある時は私をおぶってさえくださる方なのです。

40日間の荒野の誘惑の時というのは、訓練の時、私たちの苦しみ弱さを知るとき。まさに神様のご計画でした。

そして私たちも人生において多くの試練があります。喜びもありますが、苦しみ悲しみも多いものです。

しかし、私たちはその中でも、苦しみの中でも

文句を言いながら、わめきながら歩いているときでも

試練が厳しい時こそ、神様の愛と助けを身近に感じるのです。

イエス様が共におられることを知るのです。

私たちと同じに、いやそれ以上の試みに合われた方が共に歩いてくださるのです。

それは私たちがどんな最悪の時でもともにいてくださるのです。

「あしあと」という詩をご存知でしょうか。

Footprints という詩で、マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性

の作った詩です。

その詩を紹介いたしましょう。

「あしあと」

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

私は砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね

した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお

いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。

それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。

一番あなたを必要としたときに、

あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」

主はささやかれた。

「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

それはイエス様も私たちと同じ試みを受け、人間の弱さを知ってくださっているからです。

祈り

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