2024年2月11日

説教題「変容の主はあなたのために」

聖書箇所 マルコ9:2~9

9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。

9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

9:4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。

9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

9:9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。

第二コリント4:3~6

4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。

4:4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

おはようございます。

先週は「さあ福音を知らせよう!」という題で説教をしました。

イエス様の一日。それはすべてを私たちのためにささげられた一日のように感じます。

病の人、悲しみの人に慰めと癒しを与え、悪霊を追い出し・・・・。それらの人がイエス

様に感謝しついてくるとは限らないことも、裏切ることも知りつつ、それでもなお惜しみなく愛を示されました。

99匹の羊を置いても、たった一匹の迷いだした子羊を助け出されるために命を懸けられました。

私も皆さんもそんな風なイエス様の愛によって救い出されたのです。

そして朝早く起きて祈られているイエス様の姿がありました。

イエス様の力の源。それは神様との祈りの時間に、祈りの中の交わりの時間にあったのです。

弟子たちが、イエス様を待っている人々がいますと迎えに来るとき、

ある意味安住の地である、今の環境を捨ててでも、さあ別の村里に行こう。福音を伝えに行こう!!と言われるのです。

どこまでも救いの必要な方を求め、福音を届けようと生きられたのです。

さて、今日は聖書日課では主の変容主日です。なんか早いような気がします。

毎年話していますが、教会歴では、今週の水曜日が灰の水曜日と言って、イエス様の受難を覚え、私たちが自らを省み、悔い改めと黙想の時をもって主イエス様の十字架と復活をとりわけ考え、生活する四旬節(レント)が始まります。

主イエス様の十字架の時の前の40日間です。

今年は3月24日が枝の主日(イエス様がエルサレムに入場した日)

そして受難週が始まり 3月31日が、イエス様が復活された日となります。

私たちの救いが完成された復活祭、イースターの喜びの日となるのです。

今年も私たちはこの期間に私たちになしてくれたイエス様の愛と恵みをしっかりと学び受け取り、自らのものとし・・・・・。その喜びと感謝の中でこのイエス様の救いの知らせを語っていきましょう。

イースターは卵ももらえますし・・・・・。最近はイースターが日本でも有名になってきているようですから・・・・。クリスマスのようにイースターの本当の意味を教会で知ってください。とお知らせしていけたらと祈っています。

「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。

18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」

のみことばを覚えながら、この町にいる私の民(イエス・キリストの民に)届きたいと願います。

さて今日の聖書箇所を見てみましょう。

9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。

それから六日たってとは・・・その六日前にはイエス様は弟子たちに衝撃的な預言をされたのです。

多くの奇跡をし、人々を癒し、行く先々でやがて来られる救い主とはこの方の事ではないかと言われ・・・・。まさに人気絶頂のイエス様・・・

弟子たちもこの先生についてきて良かった・・・・・。と思ったでしょう。

そのイエス様が「自分はやがて長老たち祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺される」と言われるのです。

えっ!驚きです。ショックです。

自分たちの先生が殺される!!!

そんな馬鹿なことがあってはなりません。とペテロはイエス様をいさめようとします。

するとイエス様に「ひきさがれサタン!!お前は神の事を思わないで、自分のことを思っている!!」言われるのです。

このみことばは私が、家内の脳腫瘍がわかり、大阪での猛烈社員のような仕事は難しいと思い・・・・。

またクリスチャンになって教会の大きな責任も持ちながら・・・。これからどうしようかと悩み考え・・・。

四国の地元で就職の話があり、両親のもとに住んで行こうと考え、

教会は田舎の教会に行こう!!

大阪ではその時ちょうど教会の新会堂建設のときであり、私は委員長。お金もまだまだ集まれず、祈りの中にあるときでした。

そのことを思いつつも、申し訳ないと思いつつも・・・・、

どうしていいかわからず、何日もあまり寝ないで考えながら、四国行きのフェリーに乗って・・・

うとうとしているときに、突然頭に響いてきた言葉でした。

「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ああこの言葉は、私に人間の考えではなく、神様に従えという言葉だと思いました。

マル

8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

ペテロはイエス様からこの言葉を聞きました。

自分の十字架を背負う。自分の命を捨てる・・・・・。

その意味は・・・・

これからどうなるのか?

と彼なりに考えたでしょう。

弟子たちも考えたでしょう。

自分の先生がやがて殺されるとは、まさに衝撃的なことです。信仰でついていっても不安になることです。

私も、その時わかりました。と言って大阪に帰ってきて、神様に従っていこうとしましたが・・・・。現実には難しいことがいっぱいありました。

それでも神様は導いてくださいました。

そのイエス様の衝撃的ともいえる、受難の預言があってから六日後です。

その時、変容したイエス様のお姿を見せてくれるのです。

9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

イエス様のお姿が変わられるのです。

身衣が白く輝くのです。

まさに神様のお姿です。

雪のように白いのでしょうか? 圧倒的な白さです。輝きです。

9:4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。

エリヤとモーセというと旧約聖書の大預言者。

聖書を知っているものにとってこれほど有名な方はおられません。

その方と自分たちの先生が語り合っておられる・・・・・

ペテロはもうびっくりです。

私たちの先生は、やがて人々に捨てられ殺される・・・・・そんな言葉にどう考えればいいかもわからず・・・・。

ひょっとするとこのイエス様についていくのさえ恐ろしくなっているとき・・・。

ペテロ達の恐れの中には、イエス様の語られた話の半分しか聞いていない・・・。大切な後半を聞き逃している・・・・。

私たちの人生でもこんなことはあるでしょう。

悪い言葉だけを聞き、記憶し、悪い方に悪い方に考えてします・・・・。

人ってそんなものです。

医者でも、最近は特にそうですが、あとで責任がかかってくるといけないので、悪いことばかり言います・・・。

この手術ではこんな危険があります・・・・・。ずっと聞いていると恐ろしくなります。

この麻酔ではこんな危険があります・・・・。

この薬の副作用はこんな危険があります・・・・。

いのちの危険があります・・・・。

そんな言葉が耳に残ります。

実は最後にこの確率は非常に少ないのですが・・・・。と言われますが耳に入らない時があります。

私も長女が生まれる前に、お医者さんがお母さんの発作によって子どもの脳に酸素がいっていない。重い脳障害を起こす危険がありますと言われました。

その確率とか聞くまでもなく、その言葉がずしっと心に残りました。

もうそうなるように思いました。

それでも自分たちで育てようと考えていました。誰にも言わずにそうしようと思っていました。

そんな時に教会に行って、何にも知らない先生がこれから生まれる赤ん坊のために元気に生まれてきますようにと祈ってくださったのが・・・・・・。

本当にうれしくて・・・・感謝でいっぱいになり・・・・。そこから私は教会に来るようになり、やがて救われたのですから不思議なものです。

実はペテロ達にイエス様が受難の預言をしたとき。

イエス様が「私は人々に捨てられて殺される!!」とは言いました。

弟子たちはこの言葉が衝撃的過ぎて、ショックで心に残ったでしょう。

実はそのあとにイエス様は「三日の後によみがえる」ということを、復活の事を話しているのですが・・・・・。弟子たちの心には復活の預言なんかは消し飛んでいたようです。

でも、わかります・・・・。人はそんなものです。

そのペテロ達の前でイエス様は神のみ姿になられたのです。

エリヤやモーセと語り合っていたのは十字架の事。復活のことかもしれません。

その姿を見たペテロは、もう何を言っていいかわかりません。心が動揺してとんちんかんなペテロらしい言葉を言っています。

9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。

彼らは恐怖に打たれたのであった。

ただ恐ろしいというより、畏敬の念の中で恐れおののいた。

宗教改革者ルターは、道を歩くときあるとき雷がなり、当時の雷は大変危険で恐ろしいものでした。

その時ルターは神様助けてください。助かれば私は修道士になります。と誓ったのです。

ここから私たちの信仰のルーツがあるのですから。これも不思議なことです。

ペテロが恐れおののいているとき、天から声がします。

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

その時天からの声がします。

このイエスは私の愛する子である。神の子である。との宣言です。

このような言葉はイエス様が洗礼を受けた時にも聞こえました。

マル

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

イエス様が神様の子であるとの宣言。

自分の先生はやがて殺されるとの預言を聞き・・・・。弟子たちの心はついていこうとは思うものの揺れ動いていたかもしれません。

でも、今、この時

イエス様は、真っ白い変容のお姿になり、

しかも天からの声で、これは私の愛する子である。との宣言を聞くのです。

弟子たちの心は定まったと思います。

天の声の「彼の言うことを聞きなさい」との御声に自分の人生を預けたのです。

この方にこそ従っていこうとするのです。

9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

9:9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。

ペテロ達の心は、信仰は強められました。

このイエス様こそ、救い主。と確信したのです。

私はこの個所を思いながら、神様は私たちの心の弱さもご存じで、また私たちに具体的に、目に見える形で、神様を示してくださる方なんだなあと思いました。

弟子たちは、この後、信仰が一直線で、変容の主を覚えながら、どんな困難があってもイエス様は神の子であると証しし。信仰深く従っていったかといえばそうではないんですね。

やがて失敗もするのです。

イエス様を呪うことさえするのです。

ペテロはまさにそんなときがありました。

お前には特別に変容の姿を見せたではないか!なぜにお前が私を裏切るのか!!!とは言わなかったんですね

イエス様はペテロに優しいまなざしを向けられたのです。そんなお前のために私は十字架にかかって、お前の罪の赦しのために、お前を愛し、死んだのだよと声をかけられるのです。

私たちはイエス様の恵みを、救いをすぐに忘れやすいものです。

それゆえに神様は目に見える形で、毎月の聖餐式をしてくださっています。

これは私の体です。これはあなたの罪をあがなうために私が死んだことをあなたに知っ

てもらうためです。

これは私の血である。これは罪びとである私たちがキリストの体により、義とされた。義人とされた・・・。でも私たちは毎日罪を犯し続けている。その罪の赦しのために流し続けている私の血だよ!!!とパンとぶどう酒を食することと、み言葉を通して私たちに教えてくださっているのです。

聖餐を通して、こんな私であっても、私の救い主イエス様によって今私は神の家族として日々生かしていただけるんだということを確信させてくださり。日々を生きていけるのです。

この聖餐式は一度限りのものではなく、日々聖餐にあずかり、教会では毎月一回ですが、これを世よ世よ繰り返していくことにより、私たちの信仰生活は守られていくのです。

具体的な視覚教材・・・

これはバカにはできないんです。ただの儀式だ、形だけだ!ではないんです。

この聖餐式によって私たちは守られ、新しく力と救いの確信に立って歩んで行けるのです。

イエス様の受難の預言を聞いたペテロ達。その心が不安になっていたかもしれない

彼らにイエス様は

まさに究極の視覚教材をもってして教えてくれました。

忘れないように目に見える形で教えてくれました。

人って聞いたことはすぐ忘れる。10%ぐらいしか残らないそうです。

ですから、説教も教会を出たら…ほぼほぼ忘れる・・・・。

次の週の週報を見て、ああこんな話だったなあ・・・・と感動したりします。ほぼほぼ忘れてしまっています。

でも見たことはかなり覚えるそうです。

そして聞いて、見て、体験したことはさらに理解するという段階に行くそうです。その意味で旅行なんかは実際に見て、体験していますからその記憶は生涯残りますね。

そういう意味で聖餐式も、まさにみ言葉を聞き、パンとぶどう酒を見、そして食べる・・・。かなり覚えていますが・・・・。それでも忘れるので

イエス様はいつまでもこの聖餐式を行いなさいと言われました。

変容のお姿のイエス様もペテロにとっては衝撃的なお姿。また天から聞こえた声も心に響きました。

「これは私の愛する子。彼の言うことを聞きなさい」

ペテロは喜びの中でこの変容の主のお姿を心に刻みました。

でも忘れるんですね・・・・・。人間ってそんな弱いものです。

彼が今一度変容の主の前に立つ。その時の恵みと喜びに立つ。

これは私たちにも言えることだと思います。

イエス様が見えなくなる時・・・・。わからなくなってしまうような時が私たちの人生にもあるでしょう。

その時また変容の主が私たちに現れてくださるのです。

毎年、毎年、説教の中で、変容の主の事が語られる・・・・。

これもまた大切なことであると思いました。

毎年毎年、変化もなく。

イエス様はその姿が変わられた。神の子であった。そのことを視覚教材的にも教えてくれている。

まさに忘れやすい私たちに示してくださっているのです。

福音というものは変わらないものです。

時代と共に変わるものではありません。

ですから福音の説教も変わらないのです。

私たちの罪の赦しのために、神の子であるイエス・キリストが人間の姿を取り、人として生きられ、私たちの弱さの中にいきられ、最後は十字架につけられ、私たちの罪の刑罰の身代わりに死んでくださいました。それで終わるのではなく、キリストは三日目によみがえられました。

まさに神の子であることを明らかにされました。

このイエス・キリストを私の救い主として信じる者には完全な罪の赦しが恵みによって与えられるのです。

私たちの行いではなく、キリストの死という神様からの一方的な犠牲と恵みにより、救いの道は用意されたのです。

そしてそれを信じて生きる私たちには神の子としての命が与えられ、キリストに似たものへと変えられていく人生があるのです。

そのことを、語っていくのが福音の説教です。そしてこれはまさに毎年毎年語られていくのです。

今日は主の変容主日の朝です。

これから受難の主の事を覚えながら、受難節、四旬節、レントの時期になります。

もう一度、天から聞こえた主の言葉に耳を傾け

歩ませていただきましょう。

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛

する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」

祈り

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