2024.1.14 堺育麦キリスト教会礼拝説教

説教題「」

聖書箇所ヨハネ1:43~51

1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。

1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

おはようございます。

12月31日の一年の感謝礼拝と1月7日の新年礼拝が終わりました。

この間は少し私たちの教会 堺育麦キリスト教会独自の聖書箇所をなりました。

教会歴とは少し外れました。

今日から聖書日課に則って、通常の礼拝になります。

クリスマスからその後の事を、教会歴に沿って少し取り戻してみます。

まず12月31日は、ルカ2:22~40

ここではイエス様が宮に行く箇所です。

ルカ

2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。

2:23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──

2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。

これは律法に則ってのことでした。その時、宮で長く救い主の誕生を待ち望んでいた。信仰深いシメオンとアンナに会うのです。

まずシメオン

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。

2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。

2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。

2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。

2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。

2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。

2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

そしてアンナです。

2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、

2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。

2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

2:39 さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。

イエス様が待ち望んでいたユダヤの救い主。救世主 キリスト そしてユダヤ人だけでなくすべての国の救い主であることが証しされ。ほめたたえられたのです。

そしてイエス様の家族はナザレに帰りました。

そして1月7日の聖書日課の箇所はマルコ1:4~11

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、イエス様の公生涯が始まるのです。

マル

1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

1:6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。

1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御

霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

イエス様が神様の祝福を受けて、その働きが始まります。

そして今日の聖書日課になります。

1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。

まずその翌日とありますので。今日の箇所の前を読みますと。

そこではバプテスマのヨハネの証しによってイエス様について行ったアンデレがイエス様の弟子になり・・・彼が兄弟ペテロを誘ってペテロもイエス様の弟子になったとあります。その翌日です。

イエス様がガリラヤに行こうとされて、そこでピリポを見つけ、彼を召し出します。「私に従ってきなさい」と声をかけられるのです。

1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

ピリポはすぐにイエス様に従って行くのです。彼はアンデレやペテロと同じ町の出身だとあります。

イエス様の弟子たちは小さな同じ町の出身の人が多いのです。世界的なキリスト教の弟子たちが実は小さな町の出身。

ビートルズも小さな田舎町リバプールの出身 明治維新を成し遂げた維新の有名な志士たちは山口県の萩野町の小さな松下村塾の出身

なんか歴史は面白い

とにかくピリポは素直に従って弟子になった。これもすごい事です。

ピリポは、今度は自分の友達 ナタナエルを誘うのです。

1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

彼(ピリポ)は旧約聖書をよく読んでいたようです。そしてもっと熱心に旧約聖書を学び、その中に預言されている救い主をp待ち望んでいたナタナエルに声をかけるのです。

今度はナタナエルは聖書をよく読んでいた故に・・・ナザレの田舎からは救い主は出ないと結論付けます。

1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

ピリポは拒否するナタナエルにとにかく来て、そして見なさい。と誘う

のです。

この熱心さ 熱さ。彼はナタナエルにイエス様を知ってほしかったのでしょう。

1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

ピリポに誘われてイエス様の方に来ようとしているナタナエルについてイエス様は彼こそ本当のイスラエル人だと言います。これは神を信仰する律法を守って生きている素晴らしい人だと賞賛されます。ナタナエルはまさにいい人。旧約聖書を学び。救い主を待ち望んでいる人。このかたこそ真のイスラエル人だと言われるのです。

このナタナエルという人。イエス様の12弟子のひとりとなるのですが。彼は本当に地味に見えます。聖書にナタナエルの記述はここしかありません。イエス様とご一緒に歩んでいるのですが、聖書に名前は出てこないのです。

そしてナタナエルという人はバルトロマイという名前で12弟子のひとりになっています。

この方もまさに地味な人で聖書にはここしか出てきません。

でもイエス様が「これこそ、本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と称賛した人なのです。

1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

ナタナエルがやっいぇきてのイエス様との問答

どうして私を知っておられるんですか?初めてお会いするのに。と聞いた時。イエス様はピリポがあなたを呼ぶ前にあなたがイチジクの木の下にいるのを見たからです。多分それは透視術でもなかったらわからないことです。

ナタナエルはその言葉に驚いて・・・・ナザレから救い主なんかでない・・・と言ったが。ピリポがあまりに熱心に誘うので

どんな方かを見に来たら・・・・到底わからないことをズバリと言われた。

ナタナエルは驚き

1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイス

ラエルの王です。」

ナタナエルさん。えらい単純にイエス様を信じたものです。

「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

彼は救い主を待ち望んでいたのもあったからでしょう。

ピリポは嬉しかったでしょうね。

ピリポのしたことは 「来て、そして、見なさい。」

と言っただけ・・・・・

人はイエス様にお出会いすれば イエス様を信じることができる。

この時ピリポが熱心に誘ったことは大きなことです。彼が声をかけなければナタナエルはイエス様と出会えなかったのです。

まあもともとピリポはナタナエルと親交があったのでしょう。仲がよかった。と思います。だからナタナエルはピリポの誘いに従った。

私たちも誰か?愛する誰かに

難しい事を説明する必要はありません。「来て、そして、見なさい」とお誘いし、その方がご自分でイエス様に会い、道が開けるのです。

ナタナエルとピリポの前でイエス様は語られます。

1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

あなた方は素晴らしい主の御業をこれから見るようになりますと約束され。彼らはイエス様の弟子になるのです。

ナタナエルは聖書ではここしか出てませんと言いましたが。もう一か所出ていました。

それはイエス様が十字架にかかり、殺され、葬られ 三日目に復活されたイエス様にお会いしましたが・・・・・

その後どうしたらいいかわからない弟子たちが・・・まだ聖霊を受けていないとき。まだ弱さの中にいるとき。弟子たちの何人かはエルサレムからガリラヤに帰り・・・・ペテロたちが漁に出る。という時。まあ弟子たちにとって暗い、苦しい時期 その時にナタナエルの名前が出てきます。彼もまた弱さを持ちながらもイエス様の弟子としてずっとついてきていたんだとわかります。なかなか名前の出ないナタナエルです

が・・・今迄イエス様と図と一緒にいたんだとわかります。

ヨハ

21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

他に二人の弟子の中にピリポもいたと私は想像します。

それはピリポの紹介の時(12弟子の紹介の時)

いつもピリポとバルトロマイ(ナタナエル)とセットで紹介されているからです。

マタ

10:2 さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、

10:4 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

ピリポとナタナエル 彼らは信仰の良き友であったと想像します。

まじめで正直なナタナエル。その彼をイエスキリストの救いに導いたのはピリポの熱い言葉

ナザレから何の良いものが出るだろう

自分の考え、常識、理性ではわからないもの。

そんなナタナエルにピリポも説得ができるわけではない。

でも「来て、そして、見なさい。」

と語ったピリポの言葉からナタナエルの人生も変わったのです。

私たちにもキリストを紹介してくれた人がいたのです。

この来て、そして、見なさいという言葉。他の訳 口語訳では「来て見なさい」とあり、新共同訳では「来て、見なさい」とあります。なんか新改訳聖書が私にはぴったり来ました。来て見なさいではなんとなく簡単そうです。来て、見なさい。途中に点が入っています。それよりも来て、そして、見なさい。

ナタナエルのすることが明確になっています。来て、イエス様の所に来て そして、一拍於いて・・・彼のすること。見なさい。イエス様を見なさい。これは人が救われる段階です。まずイエス様の所に来

て・・・・そして・・この間・・・この間に求道の心が芽生え

イエス様を見るのです。そこに救いがある。

ですから「来て、そして、見なさい」いい言葉だと思いました。ピリポにできる最高の言葉です。

ロマ

10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。

10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

ナタナエルは旧約聖書は読んでいた。でも彼がイエス様に出会わなければ道は開けなかった。

別の言い方をすればピリポは自分で彼を説得したのではない。

私たちは友人にキリスト教を、救いを説明することができればいいですが

難しい・・・でも

来て、そして、見なさいという事は出来ます。そこに聖霊が働き

私たちの思いをはるかに超えた方法でキリストが語ってくださるのです。そのことを信じて、生きましょう。

最初の弟子たちはやっぱり、人から人へと伝わっています。それが一番大きな伝道です。

アンデレはあまり華々しい働きはないかもしれません。でも彼は使徒のリーダーとなるペテロを誘いました。イエス様に会わせました。

ピリポはナタナエルをキリストに出会うお手伝いをしました。

私たちにできる事

それはお誘いすることかと思います。

後は、神様の働きなのです。そして今はその大きな役割を教会が担っています。教会に来れば、そこに見るべきものがある。それはイエス・キリストです。キリストの福音が語られている。イエス様が語られている。

そしてイエス様を救い主と信じて歩む、聖徒たちがいる。イエス様のみ言葉に導かれて歩む聖徒たち 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と告白し、イエス様を見上げていく聖徒たちがいる。

それが大切な気がします。

私たちはふさわしくないもののように思えるかもしれません。

私を見られてもなあ・・・・と思いますが

私の背後にある。私の信じるイエス様が現れてくださるように祈るのです。

私たちのできることは愛する人に

来て、そして、見なさいと語ることだと示されました。

祈り

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