2023.11.12

聖書箇所 ヨハネ8:31~36

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

聖書題 心の内面を自由にする真理

分解 31~32 信じたユダヤ人

33 あなた方は自由になる

34~35 罪の奴隷

36 本当の自由

序論

ヨハネの福音書というのは聖書を読んでいるとむつかしいことに気が付きます。マタイはイエス様のことを王のように描いたといわれます。マルコはイエス様のことをしもべのように描いたといわれています。ルカはイエス様のことを人のように描いたといわれています。ではヨハネはといいますとイエス様のことを神のように描いたといわれています。私自身この聖書箇所です。ヨハネの8章31節~36節を読んだとき何のことを言っているのかはさっぱりわかりませんでした。8章の31節に「その信じたユダヤ人」にという表現が出てきます。信じたということはイエス様が神様ということを信じたユダヤ人ということになります。しかし、今から言います。このような読み方をしてはいけないとわかっていながらわたしはヨハネの福音書に出てくる「ユダヤ人」という言葉にはよい意味が含まれていないことが圧倒的に多いような気がして仕方ありま

せん。何度も言いますがこのような先入観や固定観念をもって聖書を読むことはあまり喜ばしいことではありません。しかし、主イエスキリストを信じたというよい意味での言葉と悪い意味でのユダヤ人という言葉が同じこの31節にあるということがどうしても不思議に思って仕方がありません。そして34節には「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」という表現をしています。何やら不穏な空気が流れるような気がします。そんなむつかしいときはどう読むかといいますと前後関係を見ていくことにしています。8章1節は姦淫の場でとらえられた女のことが記されています。姦淫の場でとらえられた女の人が石打の刑になりそうになっていたところにイエス様が現れて石を投げようとしている人たちに「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に石を投げなさい」とおっしゃられました。そのことを聞いて年長者たちから始めて一人一人がその場から出て行きイエス様だけがとりのこされたとあります。野次馬根性はよくないことですがそのことを通して人を陥れることは罪深い行為だということをイエス様がおっしゃっていていつでも私たちがこのような弱い者いじめのような罪を犯してしまうことを言っています。いわば弱い私たちの鏡というべきところであります。12節の冒頭では「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなくいのちの光を持つのです。」ということをおっしゃってパリサイ人に相対します。イエス様はこの世が闇であることをはっきりと認めておられます。この闇というのは、神様について、イエス様について無知であるという闇のことで、わかりやすく言えば神様やイエス様を見ようとしない人のことを言っています。イエス様はこの暗闇の世の中に対して光を与えるというお方です。このいのちの光は人間が生きていくうえで必要な光です。そしてこの光は墓の中の隅から隅まで照らす光です。24節「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、自分の罪の中で死ぬのです。」このところから教えられるのは信じるチャンスというものが人によっては何度かはあるかもしれません。しかし、そういったチャンスが現れても信じなければ罪の中に死ぬといっているような気がします。少し前の7章の33節から34節でパリサイ人が遣わした人にイエス様がおっしゃった言葉は「そこでイエスは言われた。またしばらくの間、わたしはあなた方といっしょにいて、それから、わたしをつかわした方の元に行きます。あ

なた方はわたしを探すが見つからないでしょう。また、わたしがいるところにあなた方は来ることができません。イエス様ははっきりとパリサイ人が遣わした人たちにパリサイ人にそういうようにとおっしゃられています。そして次の章の24節です。わたし自身昔こう考えたときがありました。それはどういうことかといいますと洗礼を授かって何年かたったころ神様の考えがおぼろげながらわかりだしたころクリスチャンでいることに窮屈なことだということにきずいたときもうすでに信じている私が考えたことはイエス様を私の救い主として私の罪のために十字架におかかりになり私たちは罪赦されたことを信じるのは死ぬ前でよかったのではないかと考えました。いうなれば信じたからそういうことが思いついたかもしれません。しかし、信じていない人がイエス様の前に行くと24節でイエス様に「あなた方は自分の罪の中で死ぬのです。」直接イエス様は目の前でその人たちに死刑宣告をなさるのです。懲役20年でもなく無期懲役でもない死刑宣告です。わたし自身はどういった経緯で教会に来たかといいますと昔元家内に嘘をついていました。どう言った嘘かといいますとここでは話すのはやめときます。簡単にいうと弱みを握られたことです。それで自分も教会に行くからあなたも行って懺悔をしなさいと言われました。立場のない私は泣く泣く行きたくもない教会というところに子供も連れて江坂から泉大津にある教会に行きました。当時の私の年齢は27歳でした。宗教というとオウム真理教がいろいろな事件を起こし宗教てこわいんやという先入観を抱いていました。しかし、わたしは教会に行くと大見得きっていったことで行ってしまった教会は怖いという雰囲気はなくむしろウエルカムという雰囲気でした。それから一か月に3回ぐらいのペースで泉大津に行きました。実家が堺ということもあって教会の帰りに実家に足を運ぶという日曜日の過ごし方になりました。そして、やれ洗礼の勉強ややれ献金だという風に半ば強引な牧師により一年後にわけもわからずに洗礼を受けることになりました。その時勉強した洗礼の教材に書いてあることは何一つ覚えていません。今から考えると信じることができたのはこの時だったのでしょう。表現が違います。信じるようにしてくださったのは神様でした。このころに豊島先生や悦子さん真理ちゃん輝ちゃんみっちゃんと知り合いました。その洗礼の時にイエス様を信じませんといっていたらクリスチャンになっていなかったかもしれません。話はそれましたが、イエス様は「あなた方は自分の罪の

中で死ぬのです」とい死刑宣告をされてからの31節に入っていきたいと思います。

信じたユダヤ人

この箇所で全体で取り立たされている奴隷と自由という言葉がどのような言葉かというと国語辞典で調べてみると、「自由」まず①他からの束縛や支配などを受けない状態、例えば言論の自由とかどんなことでも言っていいよとか。なぜか責任が伴っていない言い方をしているけど人間は常に責任を負っています。②思いのままであるありさま、思い通りであるさま。自由奔放とか抑えることができない子供のような感じ。の表現です。次に「奴隷」を調べてみると①昔、人間としての自由や権利が認められずに他人の私有財産として労働に服し売買された人間。一つ目は人が物品のような扱いをされたような表現をしている。②あるものに心奪われ、それに縛られている人。二つ目は人が何かに支配されたよい意味ではなく心の中の状態のことを言っています。こう考えるとわたしがみている国語辞典が悪いのか「自由」や「奴隷」といった言葉はよい意味では使われていない気がしてなりません。しかし、私たちが住んでいる日本という国はほかの国に比べて自由な国です。軍隊が支配している国では言いたいことを言えるという国はありません。しかし、日本は言論の自由や宗教の自由が認められています。上司や権力の座についている人の悪口を言ってもその組織にいられなくなったとしても命まではとられることはありません。貧乏人の子供に生まれたとしても本人が頭と体を使って行動していくと人より良い生活ができます。そして本人の努力次第で教育でも文化でもかなりのものを身に着けることができます。そういう点では日本という国は本当に自由なよい国です。しかし、この国語辞典がいっているようにあまり良い意味が含まれていないのはなぜかといいますと今言ったように人から見てわかるような外的には自由でも内面的にはどうかといいますと自由の悪い意味合いを考えなければいけません。私たちは環境や人のうわさといったことに心を奪われてはいないでしょうか。また、世間体やメンツや名誉の奴隷になってはいないでしょうか。さっきも言ったように奴隷という言葉はよくないことに心を奪われている支配されているという心の状態のことを言っています。今日学ぶところはこの「自由」や「奴隷」といったことが主題となっています。私たちが生きていく上において避けては通れないところです。8:31節「そこでイエスはその信じたユダヤ人

たちに言われた。「もし、あなた方がわたしの言葉にとどまるなら、あなた方は本当に私の弟子です。」イエス様はご自分を信じたユダヤ人に語られました。この人たちはどうやらイエス様を口先だけで信じると告白したようです。それでも私たちはそのユダヤ人たちは自分の口ではっきりとイエス様を主と告白したのですからその時は確かなクリスチャンでした。しかし、その人がそのあとの信仰生活を続けていくことができるかどうかは誰にもわかりません。そのことは31節の後半の言葉に隠されています。「もしあなたがたが、わたしの言葉にとどまるなら、あなた方はほんとうに私の弟子です。」ということばです。もしという言葉から始まっています。もしという言葉はまだわからないことや事実とは違うことを、仮にそうであったならと仮定して使う場合に用いる言葉です。逆の言い方をするとこういう風にとらえることもできます。「もしあなた方がわたしの言葉にとどまらないならあなた方は本当に私の弟子ではありません」といっているようです。だからイエス様の弟子として継続して生きていくには御言葉をもってとどまり続けなければいけません。ではとどまり続けるということはどういうことかといいますとイエス様のことを知りイエス様のことを学びイエス様に似たものになろうと努力することではなく「わたしの言葉にとどまるなら」です。それは御言葉以外のものに心を惹かれてしまったり御言葉だけでは満足できずにほかのものに言葉を求めてさまようのではなく御言葉とほかの言葉ははっきりと区別することです。いうなれば御言葉は木の幹でほかの書物や人の言ったことは木の枝ということになります。御言葉にとどまるということは特別なことはできなくても聖書に触れることができ聖書を読むことができます。どんな学者が優秀な本を書いたとしてもイエス様が語ったことや聖書に書かれていることは自分の中で木の幹のように真ん中で一本まっすぐに立っているのがこの世で生きていく主軸となります。私たちは聖書に書かれていることを実践しようと考えます。しかし、行きつくところ実践できなく愚痴ってしまったり人のせいにしてしまったりして自分の無力さを思い知らされることになります。そして、神様助けてくださいと祈るようになります。そこで悔い改めをして御言葉で励まされる生活を続けていきます。イエス様がおっしゃられた「私の言葉にとどまるなら」とは御言葉にふれるだけでよいことです。どんな人でもできることです。32節さらにイエス様は続けられます。「そして、あなた方は真理を知り、真理はあな

たがたを自由にします。」とあります。イエス様は御言葉にとどまっていると真理を知ることができるとおっしゃいました。真理とは何か?あなた方を自由にするとは何かということです。真理という言葉を国語辞典で調べてみます。今回はよく国語辞典を使います。小学校の時は国語辞典を引き、中学校、高校になると英語の辞書を引き大学生になると辞書を引かなくなります。それだけ日本語の意味が分かっていない証拠です。①正しい道理②いかなる場合にも通用する妥当な知識や認識。御言葉にとどまり続けるならいとも簡単に心理にたどり着けるとイエス様はおっしゃりました。いろいろな哲学者や宗教家、小説家たちが言葉を文字として本として記しました。しかし、イエス様がおっしゃられる真理、いかなる場合にも通用する妥当な知識や認識には到達できません。これを聞いていたユダヤ人の指導者たちは(ユダヤ教の指導者たちのことです)何を馬鹿なことをと思ったかもしれません。そして、イエス様は「真理はあなた方を自由にします。」とおっしゃいました。昔から多くの人々は政治的自由、経済的自由を求めてきました。それは武力によって与えられる勝ち負けや理想のために多少の犠牲はやむを得ないという概念からでてきて結果として人が人を支配して悲惨な戦争と流血を繰り返してきました。哲学者たちは知識が人を自由にすると考えて、病気からの解放は医学の進歩にあると考えました。科学は人を自由にすると考える人がいました。これらのことは人間が真理というものを探究し続けたことでした。そして日本という国はこんな表現をしていいのか悪いのかわかりませんが世界でもトップクラスの自由を手に入れました。しかしこのことは先ほども言ったように外見だけの話で自分がどれだけ人よりまさっているかを主張したい人だらけです。しかし、そういう人から見てわかる外見的な格差のあることではなくイエス様は世間体やメンツ、欲望、お金、死の恐怖の奴隷から解放してあげますよという内面的な自由を提供してくださる方です。罪の奴隷から解放されると必然的に自由が与えられます。そんなイエス様がおっしゃることは「御言葉にとどまりなさい」と言ことです。

アブラハム

最後にアブラハムのことについてすこし触れたいと思います。私自身アブラハムという人について個人的に勉強したいなあと思っていました。8:37~40まで読んでみます「わたしはあなたがたが、アブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなた方

はわたしを殺そうとしています。わたしの言葉があなた方のうちに入っていないからです。わたしは、父のもとで見たことを話しています。ところが、あなた方は、あなた方の父から示されたことを行うのです。彼らはこたえていった。私たちの父はアブラハムです。イエスは彼らに言われた。「あなた方がアブラハムの子供ならアブラハムのわざを行いなさい。ところが今あなた方は、神から聞いた心理をあなた方に話しているこの私を殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。アブラハムのことは創世記の11章から記されています。兄弟はナホルとハランで奥さんはサラです。アブラハムという人はカルデヤ人でウルというところの出身です。このころイスラエルという国がなくアブラハム自体は外国人です。そして息子のイサクもいうなれば外国人というよりカナン人という表現が妥当です。そして息子のヤコブがイスラエルという名前をもらってからイスラエル民族ということになります。アブラハム一家はカナンの地を目指して生まれ故郷カルデヤ人のウルを出発します。そして、75歳の時カランというところに滞在中に神の召しを受けます。創世記12:1~3「その後、主はアブラムに仰せられた。あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすればわたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」そして、妻のサラと甥のロトを連れてカナンに向かった。カナンとは今のイスラエルです。飢饉が激しかったので一時的にエジプトに逃げ込みます。そしてそこで妻のサラを妹だといってくれと頼みます。しかし、そのことはわかってしまい再びネゲブに帰えることになる。その後に13章でロトの家畜の牧者とアブラハムの家畜の牧者が争いを起こします。なぜなら二つの家族たちの人数が多すぎて場所がなかったことが原因でした。そしてロトはソドムのほうに移住することになりアブラハムはロトの進んでいった方と反対側に進んでいきます。そして86歳の時に女奴隷ハガルにイシュマエルが生まれる。そして99歳になるとサラとの間にイサクが生まれると預言されます。その後神様からソドムとゴモラを滅ぼすと預言されます。そしてそこにはロトがいます。18:17節~33節でアブラハムは正しい人のためのとりなしの祈りをします。しかし、アブラハムのとりなしは聞き入れられずにソ

ドムとゴモラは滅ぼされます。そしてロトの奥さんは振り返って塩の柱になります。そして、アブラハムにイサクが誕生して最大の事件が起こります。創世記の22章の出来事です。ひとり息子のイサクを神様はささげよとアブラハムに命令します。しかしアブラハムは120歳ぐらいと考えられます。イサクは20歳ぐらいと考えられます。アブラハムの力ではイサクを神様にささげることは普通に考えてむつかしいことです。だからこの事件はイサクが自ら死を覚悟して祭壇に上ったと考えられます。そしてアブラハムは175歳の生涯を閉じます。神様から祝福された人生だけどやはり人の子で妻を妹とうそをついていたこともありました。話を戻しますとユダヤ人たちは自分たちが、アブラハムの血筋を引いた子孫だから自分たちが正当なアブラハムの子孫だといいました。しかし、イエス様を殺そうとしていること自体がアブラハムのわざではないとおっしゃっています。イエス様に逆らうものはアブラハムの子孫ではないということをイエス様はおっしゃっています。イエス様はアブラハムの子孫というのは父なる神様の御前に出て「天のお父様」とひたしく申し上げることができる内面的な自由と特権を意味します。この内面的な自由が与えられるとき私たちは死というものを恐れずにこの世でのいのちを失っても次に行くべきところをイエス様が用意してくださっているということを何物にも代えがたい特権を感謝し喜びにあふれた人生を送ることができます

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