2023年11月5日 全聖徒主日礼拝説教

説教題「八つの幸い」

聖書箇所 マタイ5:1~12

5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

おはようございます。

今年の日本シリーズはいい試合が続きますね。阪神ファンでありますが、オリックスも大好き 親戚同士の戦いみたいです。

今日は年に一度の全聖徒主日礼拝です。先ほど召天者のための祈りを捧げる中で30人の兄弟姉妹がおられました。

私が関係するようになってから25人の方々がいらっしゃいます。

まだまだ未熟者の牧師でありますけれどたくさんの方々を司式をさせていただき、天の御国にお送りする働きの一端を担わせていただいています。

毎年の全聖徒主日礼拝が来るとき、皆さんの写真を印刷したり、お名前を書いたり、額を整理し、また飾らせていただくとき・・・・・お一人一人の事が昨日の事のように思い出されてきます。お一人一人の人生を思います。

牧師という事もありますので、お一人一人のこの世での人生の最後に立ち会い、また関わらせていただき。葬儀のメッセージをします。ですから、皆さんの事がよ

り深く思い出します。

そしていつも思う事は、神様は素晴らしい事をされている。お一人一人をまことに愛していてくださったという感動です。

そして全聖徒主日礼拝の時に考えさせられるのは、永遠と有限です。

聖書の教えるところははっきりしています。私たちはこの世界が生まれたときから神様によってご計画があり、その時が来て、この地上の世界に生まれました。

ですから誰一人、神様の許しなしに、またご計画なしに生まれたのではないのです。

そして一人一人が何年、何十年かをこの地上で生きます。

そしてそれはいつか終わりの時が来ます。

この地上での私たちの人生はまさに有限。限りがあるのです。そして召されます。

しかし、私のたましいは永遠に生きます。

神様に救われたものは天の御国で、天国とも言いますが、そこで永遠に生きるのです。

そんなことを考えると、人間が誕生してから今まで・・・またこれから永遠の中を私という魂、霊は、生きる。とすれば長い時間の中で、私の私たちの一生というものはほんの短い一瞬みたいです。たとえ100年生きてもまさに一瞬です。

永遠の中で、ほんの一瞬に見える私たちのこの地上での生。

でもそれは私たちにとっては大きなものです。

大切なものです。

一瞬だからどうでもいいわ。というものではないのです。

今生かされているときを、精いっぱい、生きる。

そこには喜怒哀楽があり、とりわけ厳しい時もあるかもしれません。

でもなんか私は神様の御手の中でほんの短い一瞬を生かされているのだと思うと・・・

あくせく、これがすべてだと思い煩う事もなく。神様の御手の中で生かされているんだから・・・できることをしていこうと思うのです。

私たちの人生は有限です。しかし、永遠の世界を見ることができ、またその希望があるからこそ、この有限の時を、精いっぱい生きていこうとできるのではないでしょうか?

永遠を覚える時。この自分が生きている今の時を平安で大切に生きていけるのではないでしょうか?

全聖徒主日礼拝の写真の中におられる皆様。

この皆様も、今、永遠の世界、天の御国でおられます。

毎年、この時期皆様の事を偲びます。そしてその皆様は今もその魂、霊は生きていて天の御国で憩われているのです。

それはいつまでもなのです。

死んで終わり、輪廻転生の教義とは聖書は違うのです。

そのことを深く????ぼんやりと??? なんか不思議な思いでいるのです。

私たちも有限です。いつの日かこの写真の仲間入りです。

でもその背景にある。神様の愛の中に生かされるのです。

ヨハ

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は、私たちの救いのために 大事な大事なひとり子 ご自分の息子 イエス・キリスト様を私たちの罪の罰の身代わりにお与えになりました。イエス・キリストは十字架で死なれたのです。

そのことを信じるもの

イエス・キリストは私の救い主。私の罪ために死んでくださった方。そのことを信じるものに、一人として滅びることなく 永遠のいのちを与えてくださるのです。

さて今日の聖書日課に入ります。

今日の箇所は「山上の垂訓」と呼ばれる個所です。とりわけ今日の箇所は八つの幸いと言われる個所です。聖書の中でも非常に有名な箇所ではないでしょうか。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

最初に覚えておいてほしいのは山上の垂訓を全部守ったら人は救われるというのではありません。山上の垂訓はマタイ福音書5章から7章までで人が生きるに大切なこと・・いかに生きるべきか。そんな大事なことが書かれています。例えば

① マタ

5:38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。

5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

救いはこれらの事を守って救われるのではなく。イエス・キリストをご自分の救い主として信じる信仰によって、神様の恵みによって救われるのです。

行いではなく、恵みによって救われるのです。

② エペ

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

とあります。

そのことを踏まえたうえで今日の八つの幸いを読んでみますと。

私は今回、はっと気が付いたのですが。

今まではこの八つの幸いのように生きていきたいと願っていました。

私は心の貧しいもの・・・それは自分を誇ることなく、神の前にへりくだった生き方です。

私は悲しむ者だろうか?

私は柔和なものだろうか?

義に飢え乾くものだろうか?

憐れみ深いものだろうか?

心のきよいものだろうか?

平和を作るものだろうか?

神様のために迫害されても信仰によって生きていくものだろうか?

クリスチャンになってからこの八つの幸いのようになりたい。生きていきたいと願っていましたが・・・・やっぱり難しい・・・と思うのです。

で、全聖徒主日礼拝の写真の中にいる皆様はどうだろうか???と考えますに

八つがすべて当てはまっている人はいないんです。

そりゃそうでしょう。

でも誰かに当てはまっているというか、ああこの方はこのみ言葉のような方だったなあと思い出すのです。

で、私がはっと気づいたのは

八つの幸いすべてに当てはまらなくてもいいんだ

どれか一つでもいいんだ

みんな人は違うんだから・・・そんな完璧でなくてもいいんだ

そして八つがそろった人ばかりを神様は望んではいないんだ

その人の人格を愛してくれているんだ

みんなおんなじでなくていいんだ

という事です。

みんな違っている。たったここにおられる堺育麦キリスト教会の聖徒の皆様を見るだけでもみんな違うんです。個性があるんです。

でも皆さん天の御国におられるんです。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

皆さんが神様に愛されて 天の御国におられるんです。

皆さんのとりわけ関係の深い方々を思い出してください。

みな違います。

私の母は・・・柔和な人でした。忍耐の人でした。

妻は、いろんな苦しみも体験したと思います。謙遜で、やさしい人でした。病の中で悲しむ人であったかもしれません。でも心のきよい人でした。その人たちは神を見るからとあります。

教会員のお一人一人の事を思い出すと、皆さん同じ方はひとりもいない。

みな個性がありました。

そのお一人一人が神様に愛されているんです。

私の父なんかは・・・義に飢え乾く人であったかもしれません。

そして人は簡単にああこんな人だったと決めつけられる者でもありません。変化もしていきます。成長もしていきます。

そしてそれはこの八つの幸いの中のどれかに向かっていると教えられました。

金子みすゞさんという方の詩でこのような詩があります。

『私と小鳥と鈴と』

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

人はみな、みんな違うのです。それは最近つくづくそう思います。

年を取ってきて・・・・牧師として皆さんとかかわりあう中で、そう思います。

皆さんもそう思われると思います。

ああこの人はこのタイプの人だと‥簡単には決められない

人はみな、神様が造られた、全く一つしかないいのち。かけがえのない人格なのです。

そしてそのお一人一人も大切なお方。神様に愛されたお方。そして神様から幸いなるものよと呼んでいただけるお方なのです。

私と小鳥と鈴は、みな違います。でもみんな違ってみんないいのです。

ここにある写真のお一人一人に神様が幸いなるものよと、お声をかけてくださっています。

そしてこの会堂にいる皆様へも幸いなるものよとお声をかけてくださっています。

同じように、八つの幸いすべてが当てはまるような人間でなかっても大丈夫なの

です。神様はあなたをあなたのままで愛されているのです。

その大前提は、自分は自分の力では救われないものである。自分はどうしようもない罪人である。私は私をそのままではどうしようもないのである。まさに私の心は貧しいものである。

その意味で神様の前に悲しむ者であります。

でも、こんな私のために、いのちを捨ててくださったお方

イエス・キリストの十字架によって私の罪の問題は解決しました。

今は、イエス・キリストを信じる信仰によって、全くの恵みによって救われ神の子とされ、永遠のいのちが約束されているのです。

なんと幸いなことでしょう。

そしてそれはみんな同じになることではありません。

あなたはあなたのままで神様は愛してくださっているのです。

みんなちがってみんないいのです。

そしてあなたならではの神様の幸いな約束を語ってくださっているのです。

今日の八つの幸い。

全部に当てはまらないことで悩んでいた私は

神様は大丈夫。あなたはあなたのままで愛しているよ。あなたに与えた永遠のいのちを喜んで、精いっぱい生きてくださいと語り掛けてくださっているのです。

今日は全聖徒主日礼拝。先に天に召された兄弟姉妹と偲んで礼拝を持っています。

彼ら、彼女はなんと幸いな人生を歩まれたことでしょう。

それは有限であるこの地上での命だけでなく。その後に続く永遠のいのちの中に大きな喜びがあるのです。そしてこの喜びの連鎖が…つながっていくように祈るのです。

祈り

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