2023年10月29日 宗教改革記念日 礼拝説教 豊島守

説教題「恵みによって義と認められる」

聖書箇所 ローマ3:19~28

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

おはようございます。

今日は、宗教改革記念主日礼拝です。

少し宗教改革の事についてお話をします。宗教改革記念日とはマルティン・ルターと言う人が1517年10月31日 ドイツのヴィッテンベルグ城の門 教会の門とも言われますが、当時の掲示板のような所に95か条の提題(質問状)が張られた事から来ています。

この背景は、キリスト教は、イエス・キリストの十字架の死と復活が福音の中心です。救いは神様の恵みによって、私達の行いではなく、神様の憐れみ、恵みによって、それを信じる人に与えられます。

何かを守って、良き行いをして、完璧な人間に成って救われるのではありません。

これは、キリスト教成立の時から聖書の中から明らかな事です。

ただ、人間と言うものは歴史を見ればわかりますが、最初正しいと思って始めている事も時代の流れで、堕落してしまうと言う事が往々にして起こります。

キリスト教も初めは弟子たちを中心に神様に導かれ、当時のローマ帝国の迫害をも恐れず、その信仰を守ってきました。

信仰と言うものは、迫害の中ではとても純粋です。

ところが感謝な事にローマ皇帝もクリスチャンになり、キリスト教はやがて国教となります。

国教となると、生まれた人は全て教会で洗礼を受けてクリスチャンになります。大人になっても別に聖書を読まなくても、クリスチャンです。

そこに個人的な信仰がなくなっていきます。また教会の力が強くなって行きます。

例えば教会を破門されると言う事は、無宿者みたいなものですから、教会に逆らえる人もでません。

そうなると信仰と言うよりも、人間的なものが強くなっていく・・・・。

これは悲しいかな人間の罪の結果でもあるでしょう。

ローマ教皇は神様の代わりみたいな信仰に成り、聖書はラテン語の聖書だけが正しいとされ、一般の人には読めません。聖職者だけが聖書を持っています。

信仰は、教会の言うなりです。

15世紀に入ると、カトリック教会の堕落はさらに激しくなり、権力、金儲けみたいな教会になってしまいます。

ついには、救いのために、救いのための信仰ではなく、免罪符を買えば救われると言うような教えさえできてくるのです。そのためにローマカトリックの修道士であり、聖書学者でもあった、ルターは聖書の原点に返り、

本当の救いは、お金でも、良い行いでもなく、罪人である私達が、ただ十字架のイエス様を信じる信仰によって神様の恵みによって救われると言う事を、95か条の提題に書いたのです。

特に当時、大人気だった免罪符は、おかしいのではないですか?と言う意見を書き、張り出したわけです。

それは、当時のカトリック教会への抗議となり、大論争となり、当時の政治とも重なり合って、大きな宗教改革のうねりとなるのです。この抗議した人というのがプロテスタントと言う群れとなり。

今日のプロテスタント教会となっているのです。

カトリックの名誉のために言いますと、カトリックもその後、内部で、改革も行われ、聖書の原点に帰ろうと、その堕落した信仰を改めていますから、今は、私達プロテスタントの信仰と変わらないようになっています。特にカトリック教会の中のイエズス会、フランシスコ会などは福音を伝えるために命がけで宣教師を遣わし。

地の果てであるような日本にもその命を懸けて宣教に来てくれました。日本に来た最初の宣教師、フランシスコ・ザビエルはカトリック教会・イエズス会の方です。

ルターは、この時、(96か条の提題を貼りだしたとき)自分はカトリックの忠実な聖書学者であり、ただ純粋に聖書に帰ろうとした信仰でした。

そして彼は生涯カトリックの信徒と考えていましたが。カトリック教会からは破門され、宗教改革の流れの中に導かれるのです。

とにかく、ルターが新しい事を考えたのではなく、聖書に帰った運動が宗教改革だったのです。

「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」というのが、宗教改革の中心なのです。

逆にその当時のローマカトリックは、聖書よりも教皇のいう事が重要視され、教会の解釈が神の言葉であり、

恵みによって救われるのではなく、教皇の力によって

信仰のみは、信仰以外に良き行いが必要とされていたのです。

お金を出して、免罪符を買えば、救われるなんて、それはおかしいんじゃあないですか・・・という問題を大きな決意を持って書き出した日。

それを記念して宗教改革記念日とし、1517年10月31日の事です。

今日はその記念の主日であります。

さて、今日の聖書箇所です。

ローマ書のこれまでには、神様の存在が、自然の中にもはっきりと啓示されているのにそれを受け入れず、自分を神とし、数々の神を人間が作り、神が人間を造られたのに、人間が神を作り、人間の都合で神様を利用している偶像礼拝の姿を見ました。その結果人はローマ1:29~31

1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

のような生活をするようになりました。

それは、クリスチャンと言われる者にも決して例外ではない事を学びました。

しかし、神様はそのような私たちを待ってくださっています。

2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ローマ2:4

とあります、 神様は豊かな慈愛と忍耐と、寛容をもって、神様は待っていてくださっているのです。

神様はやさしい方ですから、私たちを待っていて下さると同時に神様は正義と公平である方であることも忘れてはいけません。

愛である神様は罪を犯す者を見過ごしにされる方ではないのです。

今日の箇所は3つのポイントがあります。

まず、一番目は

Ⅰ.神にはえこひいきはない。義なる神

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

公平になさる。その人の身分や立場に関係なく。これは驚くべき言葉です。

この世はどうでしょうか。えこひいきだらけではないでしょうか?

小学校の頃:先生の子どもと同級でした。女の子でしたが、両親が先生なので、いつも先生に可愛がられているような気がしました。私たちが叱られてもその子は別でした。腹が立ってその子をいじめては、先生に又、叱られて・・・しまいにはその女の子が来ると関わりにならないように逃げていました。ひいきされる子も、ひいきされない子も嫌な事だったと思い出します。

学芸会があると、なぜか金持ちの子がいい役につきます。(これはわたしのひがみかもしれませんが)

俺の方があいつより、勉強できるのに・・・・・なんであいつが主役でなんだよ・・・・きっとひいきだ!と思いました。(ちなみに私はせりふのない、地蔵さんの役でした。)

ひいきされなかった悔しさは今でも鮮やかに覚えていることがおかしいくらいです。

でも、私も他の人から見れば、ひいきされていた事もあると思います。

人間の世界では、正しい判断、報いをすることは出来ません。

正しい事をするものが虐げられ、悪い者、要領の良い者があがめられる。そんな事が日常茶飯事です。

水戸黄門のテレビがいつも人気があるのは、正しい判断が出来ていないこの世に正義があらわれるのを待っている人の心の現われです。

ローマ2:6~11を読む。

2:6 神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

2:7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

2:8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

2:9 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、

2:10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。

2:11 神にはえこひいきなどはないからです。

神は公平である。正しい事を正しいとされ、悪を悪と裁かれます。

人間は公平に裁けません。どちらかというと自分に甘く、人に厳しい。自己中心です。

神様は、公平に真実を見ます。えこひいきはありません。その人を、その人が生きたように報いをお与えになります。

これは、うれしいことですか。嬉しい反面ちょっと困ることの方が多いのは私だけでしょうか?

一番目は、神様はえこひいきはない。義なる神様でした。

そして、二番目のポイントは、すべての人は正しくない。ということです。

Ⅱ.すべての人は正しくない。

人が正しく生きるために神様は、ユダヤ人に律法をお与えになりました。

律法とは神様の私たちへの命令です。最も基本的なものは十戒です。そして細かい規則が書かれています。法律の基本的なもの、日本でいうならば憲法が十戒で、それを細かく補うために、労働基本法があり、規則、法令、通達があるように細かく規定されています。刑法・民法のようなものも聖書には詳しく書かれています。その要約はイエス様が言われたように、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。ということからなっています。

ですから、律法は人が生きる規範を表したものです。実に神様は丁寧に私たちに教えてくれています。

そして、それを守ることはすばらしいことです。

たとえば、人が人を殺した場合の事が、民数記35:16から書かれています。

35:16 人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。

35:17 もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。

35:18 あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。

35:19 血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。

35:20 もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、

35:21 あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。

35:22 もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、

35:23 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、

35:24 会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。

35:25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。

35:26 もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、

35:27 血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。

35:28 その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。

35:29 これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。

35:30 もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。

35:31 あなたがたは、死刑に当たる悪を行った殺人者のいのちのために贖い

金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。

35:32 のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。

35:33 あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。

35:34 あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。【主】であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである。」

ここでは罪の裁きと同時に過失者への憐れみの業まで規定されています。神様は行き届いた方です。

しかし、このすばらしい律法を与えられたユダヤ人はこの律法を守って幸せに豊かに暮らしたでしょうか?聖書は律法を与えられたユダヤ人も律法に違反したと書かれています。

ローマ2:17~24

2:17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、

2:18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、

2:19 20 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、

2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。

2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。

2:23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。

2:24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。

それでは律法がない異邦人は、破る律法がないから、大丈夫かというと神様から与えられた良心という律法に逆らっているのです。2:14~15

2:14 ──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──

聖書は私たちにすごいことを言っています。

義人はいない。一人もいない。

私は、聖書を読む前に性善説を思っていました。

この世の中に悪い人はいない。人はもともと良い人だが、なにかの都合で、原因があって悪い事をするんだ。と思っていました。教会に来るまで私はそう信じていました。

義人はいない。ひとりもいない。という言葉に衝撃を受けました。

わたしは、そう悪い人間ではないと思っていたからです。人はどうであれ、自分はそう悪くないと思う心があったからです。自分のしたことにはいつもいいわけがありました。たとえ人をいじめても「あいつが悪いから、しつけてやった」うそをついても「しかたがなかった。でもあの人のうそに比べればわたしのは小さい。」

いつか、私はすばらしい人間になる。なれる。と信じたかったが人生を重ねるほどその考えが危うくなっていました。

義人はいない。「たとえば、うそをついたことのない人がいますか」と言われてなるほどと思った。

人は、大人になって成長しても正しくはなっていかないとわかって来ました。

例:イエス様が姦淫の女を連れてこられてどうするかと迫られた時「あなたがたのうちで、罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい。」といわれた時、

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、一人一人出て行き、イエスがひとり残された」とあります。

人は罪なしには生きられない事がわかります。

律法はよいものですが、律法によっては神の前にだれも義とは認められません。ローマ3:20

3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

ここに大問題があります。

神様はえこひいきをなさらない。罪人を赦す事はできない。

しかも、人は罪なしに生きていけない。

創世記3章でアダムが罪を犯して後、人間は、神様に背を向けて生きてきたの

でそのままでは神様の裁きをうけるしか道はないのです。

わかっていても2:5

2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

にあるように、かたくなさと悔い改めのない心が占領しているのです。それを人間の力でどうしようもない現実があるのです。

その現実の前に今日の3つ目のポイントがあります。

この問題への神様の解決策→贖い主イエス・キリストです。

Ⅲ.神様の解決策→イエス・キリスト

この現実をしっかりと受け止める事が神様の解決策を受け取る第一歩です。

自分には希望があると思っているときは、イエス様の十字架が見えません。自分の力で頑張ってしまいます。しかし自分には正しい事ができないとわかるとき、神様の備えてくださったイエス様がわかるのです。

イエス様はどうしようもない私たちのために、わたしの受けるべき裁きを受けてくださいました。

現実はローマ3:23です。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

解決策は神の恵みです。

ローマ3:24

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

旧約では罪を赦していただくために羊、牛、鳩、とにかく命を神様に捧げた。血が1回1回流された。贖いには犠牲が必要でした。

なんの、努力もなしに、なんの功績もなしに、ただ神様の一方的な恵みによって義と認められるのです。

条件はただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰です。ローマ3:21~22

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

うそ、いじめ、むさぼり、ねたみ、きつい言葉・・・・・

罪を赦す事が出来ない神様。公平で義である神様。赦しには犠牲を要求される神様

イエス様が十字架にかかられた。→義とされた

信じた瞬間に私たちは神様から見て、罪のないものとみなされ、神様のまえに素直に出られる特権、神の子どもとしての特権を与えられるのです。

そのとき、かたくなさは素直な心に

神様に背を向けていた生き方は、180度向きを変えて、即ち悔い改めて神様を見つめて歩く生き方へと変えられるのです。

といってすぐにりっぱな人になるのではありません。

でも生き方がかわる時、神の前の立場が変わるとき、平安が与えられ、希望が与えられるのです。

たとえば、医学部に合格した人がすぐに病気を治せるわけではありません。学びと経験をつんでいく必要があります。イエス様を信じた人が、瞬間に今までと違った力を発揮できない事はあります。

たとえば、剣道のフォーム改造話

わるい癖がある。変えるように言われる。

① 今のままでも結構いける。 ②大きく成長しない。 ③くせを直さなければならない。

④悔い改めて180度変えるくらいの大改造 今までの自分を一度崩せ、そして立て直せ

⑤ちょうど、義とされた人の歩みのようです。すばらしい未来が約束されています。

⑥すぐ元に戻ろうとする。今までのやり方で勝とうとする。

⑦実際、新しいフォームは弱くなる。動けない。

⑧先生に言ったらとにかく、辛抱、練習、希望をもって

イエス様を信じて神様の子とされて歩み始める事は、希望があります。感謝があります。でも、私の50歳を過ぎての、30年来の癖を直すフォーム改造のように、困難、逆戻り、失敗、弱くなる事、一杯起こるのです。

しかし、あなたが実感できなくても神様の前にあなたの罪は赦され、あなたの立場は変わっているのです。贖い主キリストによって

そして、今までかたくなに神様に逆らった私たちの心が神様に向かう時、イエス様に

不思議な喜びに満たされて生きるのです。

祈り

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