2023年10月8日

説教題「神に捨てられたのか、捨てたのか?」

聖書箇所マタイ21:33~46

マタ

21:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

21:34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。

21:35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。

21:36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。

21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。

21:38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』

21:39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

21:40 この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」

21:41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』

21:43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

21:44 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞い

たとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。

21:46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。

おはようございます。

今日の聖書日課は先週からの続きです。イエス様と祭司長、パリサイ人たち。ユダヤの国の宗教的な指導者として宮を中心に君臨していた人たちとの会話です。

ここにイエス様は、あなた方は、もともと神様から選ばれた民。愛された民なのにいつの間にかそこから離れて

自分勝手に生きている。あなた方は神の国への招きを受けているのに、本当の意味で行こうとしない。

自分の罪を認め、悔い改めて生きる方向を変えて神様の元に行こうとしていない。

今一番大切なのは、神様の元に行くことですよ。私たちは生きている間失敗ばかりします。でもその都度悔い改めて神様の元に行き。神様と共に生きていく。悔い改めの恵みがあるのです。と語られ。そこから一番遠いのは、自分は正しいと思っている祭司長、パリサイ人たちあなた方ですよ。と語りました。

21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。

21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

この言葉は民の指導者たちへの言葉ではあるのに。祭司長たちはわがこととしてまだとらえていませんでした。

それゆえに続けてたとえ話をするのです。

21:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

ここで、家の主人とは主なる神様です。神様はブドウ園を作って、垣を巡らし、酒舟を掘り、やぐらを建て、十分な準備をしてそのぶどう園を預けていきます。

今日の話は、非常に重要な 大きな歴史の流れです。

人間と神様との関係です。聖書の大きな流れ。人間の救い。救済史についてです。雄大な神様のご計画があります。もう大きすぎて一回の説教では語ることが難しいです。ですから今日は大まかなところをお話しします。

これには旧約聖書を見なければなりません。創世記12章から始まります。

神様は、ある時、アブラム(のちのアブラハム)を選んで神様の祝福の基としました。これはなぜアブラムかはよくわかりません。とにかくアブラムという人を選ばれたのです。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

アブラムにその子孫に、アブラムから生まれる民族に。

地上のすべての民族の祝福の基とされたのです。

アブラムは、最初は小さな家族でした。そこからユダヤ民族が生まれるのです。

彼らは神様に特別に目をかけられた民族 選民(まさに神に選ばれた民です)です。

神様は彼らを守ります。導きます。

それはまさに立派なブドウ園を作った主人です。

垣を巡らし、酒舟を掘り、やぐらを建て、十分な準備をしてそのぶどう園を預けていきます。

旧約聖書を見れば アブラハム・イサク・ヤコブ・そしてヤコブから生まれた12部族 彼らは神様から特別の恵みを受けます。

モーセに率いられての出エジプトからは特別の民族になります。

律法を与えられ・・・・神に選ばれた民 選民として歩みます。

ユダヤ民族は神様から特別に愛された民族です。

でもそれはなぜか??

それは彼らを通して世界中のすべての人に祝福が及ぶためなのです。

ところが人というのは難しいものです。いい加減なものです。モーセの出エジプトから。ヨシュアにひきいられてイスラエル民族は約束の地カナンに入ります。

神様に愛されて喜んでいて・・・・それがいつまでも続かずに自分勝手に歩み始めます。ヨシュアが死んでからの士師記の中には人間の問題のパターンが12回も繰り返し記されています。12とは12部族です。

どんなパターンかと言えば。

士師記のパターン

神への賛美

喜びの生活

士師が死ぬ

信仰が失われていく 自分の好きなように生きていく

試練が起こる

神に祈る(泣き叫び祈り)

神は助け主(士師を送る)

戦いに勝利する(試練を克服する)これが12部族の士師が現れるのです。

これは私たち現代の人間にも大いにありそうなパターンです。

神様は、ご自分の選んだ民 アブラハムから始まるユダヤ民族に大いなる期待を込めて、全世界の祝福となるように託されたのです。

それが神様の造られたブドウ園の目的でした。

ところが人々はいつの間にか神様中心ではなく、自分中心になっていくのです。

ユダヤ民族は、神様がこの民族を通して世界が祝福されるように計画されたのに。

ユダヤ民族は、自分たちは神様に選ばれた民 選民であるとのおごりから、ほかの民族を異邦人とさげすみ。

自分たちだけの祝福を求めだすのです。

これは大きな間違いです。

神様は預言者を送って、神様に立ち返るように語るのです。

それが今日のたとえ話です。

21:34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。

21:35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。

21:36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。

21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。

21:38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』

21:39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

神様の元に立ち返り、すべての民の祝福のもといとなるようにとの願い。

神様の遣わしたしもべとは聖書の中に出てくる預言者の事です。イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・ダニエル。

小預言書ではホセア・・・・・・

もっと多くの預言者が神様のしもべとしてブドウ園にやってきました。その収穫したブドウを神様の望まれるように使いなさい。それはすべての人に分け与えなさいという事でしょう。

ところが人々は神様のしもべ、預言者たちをひどい目にあわすのです。

21:34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。

21:35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。

21:36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。

これが聖書の流れです。

ついにここに至って神様は私の息子(イエス様)を送るのです。

この結果は新約聖書の中で私たちはよく知っています。

イエス様は、ユダヤの指導者たちによって殺されるのです。

十字架につけられて殺されるのです。

しかし、これも神様の深いご計画の中にあるのです。

21:40 この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」

ぶどう園の主人 神様は農夫たちに問います。神様のしもべを迫害し、その息子さえ殺して。ブドウ園を自分たちのものにしようとした農夫たちをどうしたものか?と問うのです。

21:41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

ここは大きな深い意味があります。すなわち農夫どもは殺してしまう。そして別の農夫たちにブドウ園を渡す。

今祈祷会で使徒の働きを学んでいますが

キリストの救い。福音を話していく中で。ユダヤ人たちが邪魔をする。迫害をするんです。わずかのユダヤ人はキリストを信じますが多くのユダヤ人が反対をするのです。

ですから伝道者パウロは、

使

13:44 次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。

13:45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。

13:46 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。

13:47 なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

13:48 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。

もともと神様に選ばれてブドウ園を預けられていた農夫たちは捨てられて、救いは別の農夫たち異邦人に向かって行くのです。

最初はユダヤ人の会堂で語っていた福音は異邦人の方に向かって行くのです。これが聖書の大きな流れです。

ついてきてくれています?

21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』

21:43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

家を建てる者たちの見捨てた石

これがイエス様なのです。

そしてその石が大切な石となるのです。福音の基礎となる。礎の石となるのです。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』

ユダヤ人たちはこの石を捨てたのです。イエス様を迫害するのです。それゆえ救いは別の農夫たち。異邦人に向かって行くのです。

21:43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

21:44 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

ここの解釈は難しい。

この石の上に落ちる者は。イエスキリストの上に落ちる。それはキリストを人生の基礎として立つのではなく。キリストにつまづくもの。否定するもの。そんな預言です。キリストを信じないものはこなごなに砕かれ。キリストからの裁きは粉みじんに飛ばしてします。

ここまでのたとえ話を聞いて。ユダヤの祭司長、律法学者、パリサイ人たちはこのたとえが何を指しているかを理解します。

この農夫は自分たちの事だと理解します。自分たちの先祖のしてきたこと。また今自分たちがしていること。そして今目の前にいるのは神様が送られたしもべ。最終的な息子とまではわかっていたかどうか・・・・

21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。

21:46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。

この話をしたイエス様を捕らえようとするのです。しかし、群衆はイエス様を預言者(神から遣わされたしもべ)だと考えていた。だからイエス様を群衆の前で捕らえることを恐れたのです。

しかし、のちにユダヤの指導者たちは、悔い改めるどころかイエス様を捕らえて、ついには十字架につけて殺してしまうのです。

まさに

21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。

21:38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』

21:39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

この事が成就するのです。

とすれば約束の民。神に選ばれた民 イスラエルはどうなるのでしょうか?神様に捨てられたのでしょうか?

今日の説教題です。

神がイスラエル民族を役立たずと捨てられたのでしょうか?

そうではありません。神様はイスラエルの民が神様に立ち返るようにしもべたちを、預言者を、送り働かれたのです。でもそれを受け入れなかったのはイスラエルの民です。

そしてこれを現代に適用するならば私たちに神様は働いてくださり。恵みと祝福を約束していてくださいます。でも私たちは士師記のパターンに入ることが多いのです。

神への賛美

喜びの生活

士師が死ぬ

信仰が失われていく 自分の好きなように生きていく

試練が起こる

神に祈る(泣き叫び祈り)

神は助け主(士師を送る)

戦いに勝利する(試練を克服する)

私たちはいつの間にか神様を忘れ、自分勝手に生きていく。そんなことをしてしまいます。これは聖書もはっきり書いている、すべての人間の弱さです。

ユダヤの祭司長、パリサイ人たちの姿は、ただ非難するだけでなく。私たちの姿でもあるのです。

しかし神様は私たちが悔い改めるように根気強く、神のしもべを送り、今でいうならば聖書のみ言葉を通し。私たちを祝福の中に導かれるのです。

そしてそれはあなたが祝福の中にいる事だけでなく。本来の神様の願い。あなたを通して神様の祝福がすべての人に届いて行くように願っておられるのです。

この祝福のもといとなることに失敗し、ついに神のひとり子 イエス・キリストさえも殺してしまったイスラエルはどうなるのでしょうか?

神様に捨てられるのでしょうか?

これもまた語ればとても時間のないような大きな問題です。難しいですが少しだけ話しますと。キリストを殺し、悔い改めもせず、福音に敵対し、迫害したイスラエル民族。彼らを神様は捨てられたのか?

そうではない捨てたのは人間 イスラエルの方です。でも神様は何回も回復のチャンスを与えました。でもイスラエルは神様からの語り掛けを捨てたのです。

私たちの日々の中でもよく似たことがあるかもしれません。自分から神様からの声に、聴き従わず・・・自分の道を進んでします。

ローマ9章から11章に使徒パウロはこう言っています。

パウロは自分もイスラエル人でその同胞が神に捨てられたように見えることについて悲しんでいっています。

9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。

9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

イスラエル人はどうなるのだろうか?

この結論は、今は捨てられたように見えても決して神様はイスラエルを捨てない。最後の彼らは祝福のものとなる。との約束の成就が預言されています。

神様は一度約束したことは変えないのです。守られるのです。

ロマ

11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。

ですから神様に召し出されたもの 洗礼を受けた者もそうです。あなたがどうであれ神様があなたを愛し、あなたに永遠のいのちを与えた神様の約束は変わらないのです。

神様はあなたを捨てないのです。もし捨てられたかのように思う事があるならば・・・・それはあなたが神を捨てたのです。

いつでも帰っていくことができるのです。それが福音なのです。

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