2023年10月1日

説教題「悔い改める恵み」

聖書箇所 マタイ21:23~32

21:23 それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。

21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。

21:26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」

21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。

21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。

21:29 兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。

21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。

21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。

21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

おはようございます。

今日の聖書の箇所の背景は、イエス様がいよいよエルサレムに入城された後の事です。

21章の初めからイエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城します。民衆はイエス様をほめたたえて迎えます。

21:7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。

21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

エルサレムに入られたイエス様は、宮の中にいる両替人たちを蹴散らします。あなた方は祈りの家を商売にしている!!と宮きよめをされます。

マタ

で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

そして病の人を癒します。

21:14 また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。

この様子を見ていて心穏やかでないのは、今まで神殿を牛耳り、民の信仰を指導していると考えていた、ユダヤの指導者たちです。

マタ

21:15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。

良い悪いは別にして、今までしていたこと。昨日までしていたこと、それが覆されそうになること。社会が変化していこうとすること・・・そんなことには、人はついて行けなかったり・・果ては時代を変えようとする人には反対するようです。

私のスマホに最近よく入ってくる動画は、広島県安芸高田市の石丸市長と議会とのやり取りの事です。

この安芸高田市の話はこれまでは知らなかったのですが

石丸市長という人は安芸高田市の出身ですが、特に地元に愛着があるというわけでもなく、京都大学を出て、三菱UFJ銀行に入り、2014年には分析予測の専門家(アナリスト)として初代ニューヨーク駐在員として赴任した、まさに若手のホープのような人でした。

彼がふと出身の安芸高田市の事を思い、近況を見るに・・・ちょうど河合事件 これは2019年7月21日に行われた参議院選挙で広島選挙区に立候補した河合案里(あんり)氏を当選させようと夫の河合克行(かつゆき)衆議院議員と共謀して大規模な買収工作をした事件です。広島県の多くの議員が買収事件に関わっていました。

安芸高田市の当時の市長も60万円を受け取っていたとして辞任。

その後釜選挙に副市長だった人が市長選挙に出馬

市長が悪くてやめたのに、その部下だった同類の副市長が後を継ぐっていう事がおかしいのに・・・・古い町である安芸高田市には対立候補も出ず。無投票で市長選が行われそうというニュースを聞き、

このままではこの町は滅んでしまう。何とか地元安芸高田市のためになりたいという思いから・・・彼は超エリートの職を捨て、無所属でなんの後ろ盾もない、準備も出来ていない市長選に出るのです。

そして37歳の若さで市長に当選しました。

そこからの働きは、もういばらの道。

古い体質の残る町は、議員も地元の顔役。議論などはまともにせずに因習、伝統・・・のようなものでまさに今までのものを守る。変革を求めない・・・そんな体質です。

私はこの事に、ユダヤの国に突然現れた、時代の救世主イエス様。しかし、その働きをことごとく邪魔しようとするユダヤの指導者たちの姿に似ているなあと思った次第です。

石丸市長は市民には人気があるけど、議会では、ことごとく上げ足を取られ・・・数の力で反対されていくのです。

安芸高田市というのは広島県の北部にある人口25000人のよくある地方都市です。どちらかと言えば衰退している町です。

その町を何とかしたいと石丸市長は頑張るのです。

市議会の動画が淡々と編集なしで流されたり。若い石丸市長の記者会見の様子がYouTubeで配信されています。

政治的なことを説教で話すのは少し問題があるかと思います。

政治的な信条は置いておいても

単純に見ていて、若い石丸市長は非常に理路整然と正しい、非の打ちどころのない話をしておられます。もう感心するほどです。なんと賢いんだろうと毎回驚きです。

議会の難癖に意地悪に全く動ぜず、論破されていきます。

もう痛快な気持ちさえします。

でも議会の人たちは何とかして市長の上げ足を取ろうと、また落とし込めようとあの手この手・・・

この話は

私の周りの人に聞いてもあまり知らないという方が多いのですが・・・

私にとっては今、非常に興味深い動画です。YouTubeの動画投稿が100万回再生を超えています。一般に100万回超えはYouTubeで0.1%だそうです。私の説教動画なんかは50回を超えることはありません。父の動画が2500回というのはあります。でもそれは短い動画です。

田舎の市役所の市議会のやりとり 1時間以上のなんの編集もない生動画が100万回再生を超えるなんてことはまことに稀有なことだと石丸市長は言っていました。

ひょっとすると、この石丸市長というのは、この時代のヒーローになる人かもしれないと感じています。

さて聖書に戻りますと、まさに旧態依然 何も変化を求めない…今のままを続けていこうとするユダヤの宗教指導者たち、祭司長。ユダヤの長老たちは突然現れたイエス様に戸惑います。

21:23 それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。

イエス様のしていることに上げ足を取ろうとしている。何か不都合なこ

とを言わせてイエス様を陥れようとしているのです。

このあたりが安芸高田市の議会の様子と重なりました。また議会と親密な関係になって・・・議会有利のように世論を操作している、この地域のマスメディア中国新聞との戦いもあります。

イエス様がどう答えても責められるような質問をしているのです。

イエス様は時が来ていない今、彼らとの決定的な衝突は避けます。

応える代わりに逆質問です。

どんなことを聞いたかと言えば

21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。

21:26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」

バプテスマのヨハネは多くの人が尊敬していました。そしてこのヨハネは王様の残虐な・理不尽な仕打ちによって殺されました。王様が不倫をしているという事を責めたために首をはねられたのです。そのヨハネはどこから来たのか?と問うのです。ユダヤの指導者たちにとって痛い質問でした。

もし神様から遣わされた方と言えば・・・・なぜ王様に捕らえられたとき助けなかったのか? と言われるだろうし

もしただの普通の人だと答えれば、群衆はヨハネを尊敬していた。預言者だと認めていた故に群衆が怒るだろう。

どちらに応えてもうまく答えられない。

自分たちのイエス様への揚げ足取りの質問に、逆質問で返されては彼らは困ってしまいます。

21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。

軽く言い負かされてしまいます。

しかしですよ。人って言い負かされたとき。納得する人は偉いけれど・・・・ふつうはそうではない。負けたことを根に持って・・・また逆襲のチャンスを狙う。素直には従わない。

大体、長年、厳しい選挙せずに大体定員通りで、無風の選挙の中で町の顔役が議員になっている。ちゃんと仕事もせずに、居眠りしたり、まともな議論もしていなかった議員たちが突然の市長の登場に…言い負かされても素直には聞かないんです。ずっと意地悪をしてきました。

ユダヤの指導者たちも祭司長なんかは家柄ですから世襲が多い、長老と言われる人たちも何にもしなくても、人々の上に立っていた。そんな彼らが突然出てきたイエス様に素直には聞かない。これが人間ですかね・・・・。

そこでイエス様は別のたとえを話されます。

21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。

21:29 兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。

21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。

21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」

イエス様の話は分かりやすいですね。これは先日ダビデの罪を責めた預言者ナタンの話にも似ています。ある人という仮定で話します。預言者ナタンはダビデ王に

Ⅱサム

「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。

12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、

12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。

12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理

するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

ダビデはそんな奴は殺してしまえと叫びます。正しい判断です。

イエス様は今、祭司長、長老たち指導者たちにたとえ話を話します。

指導者たちは聞きます。そしてどちらが悪いかを冷静に判断します。

兄弟がいて、ブドウ園で働いてくれとお父さんが頼みます。お兄さんは大体、いい子が多い。放蕩息子の例話でもお兄さんはお父さんの言いつけを守って働いています。

ここでも「はい行きます。」といい返事。でも行かなかった。

これと似た体験を私は先日しました。剣道のお友達が「こんど狭山でフルートの演奏会に出るんです。遠いけど来てくれますか?」と言われて、ちょっと遠いけど・・・・「はい行きます」といい返事をしました。

でも当日なんとなく、用事もあったりして行きませんでした。申し訳ないことをしたと先日、お詫びをしました。

この兄も、全く行かない気持ちではなかったと思いますが・・・結局行かなかったのです。

さて、弟 割合、聖書のたとえは、弟は、始めは悪い 放蕩息子のたとえもまさにそうです。

この弟は、お父さんがブドウ園に行って働いてくれと言った時。即行で断っています。行きたくありません!! こんな人いますね。

あなたはお兄さん型、弟型どっちでしょう。

ここは霊的に考えれば、ブドウ園で働くとは神様を信じ、神の子として生活することです。信仰をもって歩むことです。

お兄さんは行くと言って行かなかった。弟は後から悪かったと思って出かけて行った。初めは自分勝手に生きようと思ったが・・・のちに悔い改めて神様の元に行ったのです。

そんな意味がありますが…ここではブドウ園での働きについてです。

21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」

この問い、質問に

今までイエス様を目の敵にし、揚げ足を取ろうと質問攻めにし、何とかイエス様を陥れようとしていた。祭司長、長老たちは

イエス様の出された質問。このたとえには冷静な答えを出すのです。

21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」

この答えは誰が聞いてもわかる質問です。

ダビデが罪を犯したときに、ナタンが言ったたとえ話もよくわかるものでした。ダビデはそんな奴は殺してしまえとまで言いました。

祭司長たちも、行くと言って行かなかった兄ではなく 行かないといったけど後から考えを変えてブドウ園に行った弟が父の願ったとおりにしたと言いました。

イエス様は続けます。こんなたとえ話をした意味が分かりますか??この兄の方があなた方ですよ!と言いたかったのです。

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。

あなた方が日ごろは馬鹿にしている、罪人と言っている人たち 取税人や遊女たちの方が神のブドウ園に行っているのです。救いを得ているのです。と言われます。

取税人や遊女と言われる人は。神様からの招きに最初は行きません!!自分のやりたいように生きていきます。と答えました。

私たちも同じかもしれません。

神様から福音を示されても 嫌です。いいです。イエス様なんて信じません。自分のやりたいように生きていきますと言ったのではないでしょうか。

しかし、彼らは自分の弱さ、自分の罪を認め・・・・私たちを本当に愛してくださっている神様の愛を信じ。

自分の行ったことを悪かったと認め。最初は行きませんと言ったのに神様のぶどう園に行った。救われた 神の国に入ったのです。

今一番の問題はあなた方です。口では神を信じると言い。ぶどう園にも行きますといいながら、いかなかったあなた方にあるのです。

21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、

彼を信じなかったのです。

あなた方は旧約聖書にも精通している。十戒も知っている。律法も知っている。だけどその心は神様が中心ではなく、自分勝手な道を歩んでいる。

見えるところは宮に勤めて、敬虔そうにしているけれど、その心の中はどうなんですか?

バプテスマのヨハネが来て、神様をないがしろにして、荒野のようになったイスラエル。その人たちにまことの神に立ち返りなさい。叫んだバプテスマのヨハネ。義の道を持ってきたのに。本当に大切な正しい事を言ってきたのに。

あなた方は彼を信じなかった。

自分の立場に胡坐をかいた。

しかし、取税人や遊女は・・・・悲しみの中で、自分の罪を認め、そんな自分さえ愛してくれている神様の元に帰ってきたのです。

これは今の時代もそうです。私たちの多くは、神様の愛を知らずに、自分勝手に生きてきました。でも自分の罪に気が付きました。この大きな罪。神様の前にまさに一万タラントの借金があるようなものです。とても自分の力で返せるようなものではありません。

しかし神様はそれを恵みによって赦されました。ただ赦されたのではなく、ご自分のひとり子 イエスキリストの命と引き換えに赦されたのです。それがキリストの十字架です。

この救いはもう用意されました。この神様の愛を信じて取税人や遊女も救われたのです。

それは今も起こっています。

しかし祭司長、長老たちは…それを見ても 悔い改めもせず

信じなかったのです。

21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

今日の聖書日課はここまでです。イエス様はすべての人に語り掛けています。

あなたは兄ですか?弟ですか?

神様の招き。ブドウ園に働きに行ってくれとの願いに

「はい。行きます」といって行かなかった兄ですか?

「嫌です。行きません」と断ったが、後から悪かったと思いブドウ園に行った弟ですか?

この弟になってほしいのです。

イエス様の福音に。どう答えますか?

悔い改めとはあなたの生きる方向を全く変えることです。180度変えることです。

自分中心で、神様を認めず。神様に背を向けて歩む歩みから

180度向きを変えて神様の方に向き。神様を中心にして生きる生き方です。

それは決してあなたをあなたでなくして、神様の奴隷にするようなことではありません。本当のあなたらしく生きていけるように神様が導いてくださる生き方です。

それを選びますか?弟が最初は行きませんと答えたのは自分のやりたいように生きたかったからです。でも人は神様抜きには生きていけないのです。神様と共に生きていくのです。そのことがわかり彼は向きを変えました。悔い改めました。

そこに大きな、大きな恵みがあったのです。

祭司長たちはもともと神様を知っていたのに・・・・いつの間にか自分勝手な道に入っていました。それを指摘されても悔い改めません。イエス様を殺そうとまでしていくのです。

私は、弟のように悔い改めてイエス様を信じました。ありがとうございます。

でも人は悔い改めたつもりが、いつの間にか、もう一度回って360度回ってもとに帰るというようなことさえあるのです。

今日も私たちの信仰を正しく導いてください。

祈り

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