2023.9.17 聖書箇所 マタイ18:21~35 説教題 あなたが放つ矢はどこに? 分解 21~22 7度を70回 23~26 しもべの行動 27 王の赦し 28~30 しもべの行動2 31~35 王の行動2 序論 18章の1節に冒頭にその時とあります。マタイの福音書はそのときという言葉 がよく出てきます。そしてどんなときかということを知るために前のところを調 べます。だから17章の最後のほうにどんな出来事があったのかを調べていきま す。17章の最初でペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を高い山にイエス様とともに登 っていきモーセとエリヤとの会話をイエス様がこの弟子3人に魅せられるという 究極の弟子教育をなさいました。そして、弟子たちはてんかんで苦しんでいる息子 を持つ人に息子を直してくださいとたのまれます。しかし、弟子たちは直すことが できませんでした。そこでイエス様は弟子たちができなかったことを実行なさい ます。そして息子を直されます。そして17:22「彼らが(弟子たち)がガリラ ヤに集まっていたときに、イエスは彼らに言われた。「人の子は、今人々の手に渡 されます。そして、彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らは 非常に悲しんだ。と自分が十字架におかかりになるということをおっしゃられま す。24節からは納入金の話でいちばん最初に釣れた魚の口の中にステタル硬貨 が一枚入っているという奇跡を弟子たちにお見せします。そんなことがあってか ら18章に入っていきます。18 章の 1 節で弟子たちがややこしい質問をイエス様 にします。どんな質問かといいますと「天の御国ではだれが一番偉いのでしょうか」 という質問です。答えは 4 節にあります。「だから子供のように自分を低くするも のが天の御国では一番偉いのです」弟子たちはみんな天の御国に入ることができ ると思っていました。そして自分が天の御国では一番偉いということをイエス様 に言ってもらいたい質問でした。なかなか自分を自分自身で低くする人はいませ ん。しかし、小さい子供はというと母親や父親に対してすべての面において信頼し ます。だから子供が父親や母親に対して信頼しているように純粋に神様に信頼す ることです。そしてイエス様はこの弟子たちの質問に対してどのような意味が隠 されているのかを知っているように次々と厳しいお言葉をおっしゃられます。つ まずきのお言葉です。片手片足で命に入る方が両手両足そろっていて永遠の火に 投げ入れられるよりはあなたにとって良いことです。また、一方の目があなたをつ まずかせるならそれをえぐりだして捨てなさい。片目で命に入る方が、両目そろっ ていてもえるゲヘナに投げ入れられるよりはあなたにとって良いことです。とお っしゃいました。14節「このように、この小さいものたちの一人が滅びることは、 天にいます父のみこころではありません。」とイエス様はおっしゃいました。そし てこの小さいものとは誰のことかといいますと年齢的に幼い子供たちだけではな く信仰の弱いものまた、助けを必要としている人たちのことです。そして先週の先 生のメッセージに入っていきます。赦すための工程を15節から20節まででイ エス様は語っておられます。そして信仰の兄弟としてともに生きていくことを祈 りを通して教えておられます。それから今日の聖書箇所に入っていきます。 7度を70回 それでは21節から見ていきましょう。21節「そのとき、ペテロはみもとに来て いった。「主よ。兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょ うか。七度まででしょうか。」22節「イエスは言われた。七度までなどとわたし は言いません。七度を七十倍するまでといいます。」ちまたではいろいろな裁判が とり行われています。民事の場合は訴える側と訴えられる側が裁判の中心になり 議論されます。訴える側があまりにも許せないと思い許せないところの訴えられ るほうを法律を味方にして言い方を変えると裁判というケンカの場をもって無理 やり謝罪をさせるということです。しかし、人というのは自分が悪いという自覚が なければ謝りません。人が人を赦すのはいかにむつかしいかということは後々の 人間関係を見ていくとわかりますがなかなか簡単なことではないようです。また、 自分たちが許されようとするのもまたなかなかむつかしいようです。そのむつか しい赦すということを今日はイエス様のたとえを通して考えていきたいと思いま す。イエス様が弟子たちに対して人をつまずかせるような罪を犯したことについ て語られたときにペテロは進み出て何回まで赦せばいいのですか「7 回までですか」 といいました。当時のユダヤ人の間でも3回まで赦さなければいけないという教 えがありました。日本のことわざでも「仏の顔も3度までという」格言があります。 そしてペテロはその教えを知っていて「7回まで」ということをイエス様に質問し ました。言い換えれば7回目までは無条件で許されそこまで我慢したのだから8 回目には許さなくていいという答えをペテロは期待したと思われます。しかし、イ エス様は22節で「イエスは言われた。「7度までなどと私は言いません。7度を 70倍するまでといいます。」とおっしゃられ赦すことに限度がないことをおっし ゃられます。このことは490回まで赦して491回目は赦したらだめです、とい う意味ではなく永久に許しなさいという意味合いです。そして、赦すということは そのことを忘れるということに間接的になってしまいます。だから、その回数は自 然に忘れられるのです。 しもべの行動 イエス様のたとえの話での登場人物の話をすると、ここでは王様、しもべがいます。 イエス様のたとえの話に出てくる王というのはほとんど場合イエス様や神様のこ とをさしています。そしてそのしもべというのが罪を犯してしまう私たちという ことになります。王はお金を貸している人のうちの一人を連れてきて「今までの借 金を返しなさいと言われます」すると一万タラントという額の借金のある人が王 の前に連れてこられます。一万タラントという額はどのくらいの額かといいます と大体人が一日働いてもらう給料が一万円とします。それが当時のイスラエルお 金に直すと一デナリです。一タラントというのは6000デナリのことで一タラ ントを稼ぐのに6000日働かなければいけません。しかし、このしもべは一万タ ラント借りていたのです。6000万日働かなければいけない計算です。一万×一 万で一億円になります。一万タラントというのは6000億円に相当します。わた しの貯金通帳の中に一億円というお金が入っていれば心の中は平安でいっぱいで す。それは冗談ですが。しかし、その人はそんな6000億円という膨大な金額を 借りていました。一億円という金額は一年間で500万円稼ぐ人が20年かかる 金額です。そんな途方もない金額を貸してくださるのは王様以外にはなく借りる 方も借りる方で天文学的な金額で予想もできないくらいです。それほどの額は返 済不可能といわなければいけません。そこで王様はどういったかといいますと2 4節25節「清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のとこ ろに連れてこられた。25節「しかし彼が返済することができなかったのでその主 人は彼に、自分の妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。」王様は当然 のようにこのしもべはお金を返すことができないとわかっていました。そこでど ういったかといいますと自分の妻子と持ち物を全部売り払ってお金を作りなさい。 といいました。持ち物は別として自分の妻子を売ってしまうことはお金よりもも っと大切なものです。そんな厳しいことを王様はこのしもべに突きつけます。する としもべは26節「そこで、このしもべは主人の前にひれ伏して「どうかご猶予を ください。そうすれば全部お払いいたします。」といった。そこで王様はこのしも べがこの借金を返せるかどうかはすぐに判断できます。27節「しもべの主人はか わいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」とあります。この返済不 可能なお金は返済期間が単に延ばされたのではなく全額免除ということになりま す。このしもべは借りているのが王様だからいつ殺されても不思議ではないのは わかっていました。だから、命を助けられたことと同様に借金も免除されたことに 胸をなでおろしたことでしょう。 しもべの行動2 借金を免除された人がほっとして次なる行動をします。それは28節「ところが」 という言葉から始まります。ところがというのは今までの良い展開が悪くなると いうことです。ではどういう行動を起こしたかといいますと「ところが、そのしも べは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのあるものに出会っ た。彼はその人を捕まえ、首を絞めて、「借金を返せ。」といった。1 デナリ一 万円とすると 100 万円です。6000億円と100万円です。100万円という と仕事をしていればすぐにとは言いませんがある程度時間に余裕ができれば返せ る金額です。100万円借りている人が6000億円借りている人の悪口を言っ ていたのかはわかりません。しかし、返しきれない借金を免除されてほっとしてい るはずなのに舌の根の乾かぬ内にこんなことを言ってしまう人は私たちかもしれ ません。ましてや同じしもべ仲間です。そして100万円を借りている人はどうし たかといいますと29節「彼の仲間はひれ伏してもう少し待ってくれ。そうしたら 返すから。」といって頼んだ。とあります。お金がないのに今すぐ返せることがで きない人が言う言葉はもう少し待ってくれ。です。王様は6000億円の借金のあ る人に待たずに借金を赦してあげました。しかし、この借金を赦してもらった人は 30節「しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。」 とあります。この人は待たずに牢屋に100万円を貸している人を牢屋にいれて 働かせたとあります。わたしの勝手なイメージですけど6000億円の借金を背 負っている人はフェラーリに乗り100万円を借金している方は軽自動車にのっ ているようなイメージがあります。しかし、やっぱり周りのしもべ仲間はみている もので31節「彼の仲間は事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部 始終を主人に話した。」32節「そこで主人は、彼を呼びつけて言った「悪い奴だ。 お前があんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。」33節「わたしが お前をあわれんでやったようにお前も仲間をあわれんでやるべきではないか。3 4節「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄死に引き渡した。」 このたとえの話のあとにイエス様は35節であなた方もそれぞれ、心から兄弟を 赦さないなら、天の私の父も、あなたがたに、このようになさるのです。」とおっ しゃられました。このことが私たちが人を赦す場合の根本的な原理です。わたした ちにとっては人を赦すということはむつかしいことのように思われます。実際み なさまの心の中には憎たらしい人、嫌いな人は一人はおられると思います。いない という人も心の中に気に入っているランキングがあると思われます。いわばドラ フト会議のように心の中で順番が決まっているのが常です。わたしたちはそのこ と人に対する好き嫌いはあるから赦す許せないということが発生されます。日本 語で書くと赦すという言葉は左が赤編の赦すは罪や過ちを赦すということでつか われます。もう一方の免許という言葉の中にある許すはなになにすることを認め るとか許可するということになります。赤編の赦すは赦されると自由になれる意 味合いがあります。しかし免許という言葉の中の許すは許されると囲いの中に入 れられるみたいです。同じ許すでも意味合いが真逆になるような気がします。ここ でいう王様はこの6000億円の途方もない借金の人を赦してあげました。この 時の赦すは自由になる方の赦すです。わたしの仕事は土木工事のかんりをするし ごとをしていました。職業は豊島先生と同じ仕事でした。会社が役所から仕事をも らってする公共事業でした。まだ若くて経験不足である私が現場の管理人として 現場をまかされることになります。その現場の中でも40人ぐらいいたのですご く忙しかったのを覚えています。そして、トラブルも多くありました。若い私はト ラブルの結果だけを見てその人を注意したりしていました。しかし、そんなさばき 司をしているような人間でないことや、そのあとの結果を見ればあまりよくなっ ていないことに気づきました。そこで自分自身は何が悪いのかどうしたらいいの かを考えました。そして自分の目線を変えてみようと考えます。人を見ないように しようと考えます。どういうことかといいますとまずトラブルの原因を考えよう と。どういう過程でこうなったのかということです。すると、原因を正確に把握で きると自然と解決方法が見えてきて誰が悪いかということも見えてきました。そ して18:15から実践をします。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、 言って二人だけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たの です。」とあります。この聖書箇所に感銘をうけて実践をしていきます。しかし、 やはり自分の中で最終結論はだれが悪いかということになってしまいます。要す るに人のせいにしたい自分が存在していることに気づきます。それから、何年たっ たかはわかりませんが自然とトラブルの渦中にあるわたしの行動がどう変化した かといいますと家庭でも仕事場でも問題点がおこると真っ先に自分が悪いのでは ないかと考えるようになりました。まずは自分の行動をチェックすることから始 めました。年をとればとるほど自分の行動をチェックする項目も時間も増えたよ うな気がします。そして、その問題自体の原因を究明していきます。このことはク リスチャンとして生きてきたからこその自分の生き方のような気がします。私自 身の心の中に神様が聖霊様を与えてくださって知りえたことです。イエス様を知 らなかった自分が問題にあたってしまうと真っ先に誰が悪いのかと反射的に考え てしまいます。そして鬼の首をとったかのようにその人を責め立てます。それは自 分自身さばきや裁くというベクトルを人に向けて放つ矢のようなものです。しか し、聖霊様はそのベクトルを一番最初に自分に向けて放ちなさいとおっしゃられ ます。そのことによって問題点を一呼吸おいて別の角度から見ることができます。 その時間が感情的になっている自分を冷静にさせてくださいます。この18:5の 罪を犯した兄弟やこのたとえで出てくる6000憶円の男も王様のしもべです。 兄弟やしもべというのはイエス様がクリスチャン限定で言っているかもしれませ ん。聖霊様がその目を与えてくださいます。先週の先生のメッセージにもダビデと ナタンの話がありました。ナタンが初めの例話を話したときダビデは殺してしま えといわんばかりでした。しかし、ナタンがあなたのことです。というと素直に聞 き入れました。それは聖霊様の力だということは間違いのないことです。ダビデは 最初人に向かって矢を放ちました。しかし、ダビデはナタンの言葉を聞いてそのベ クトルの矢は自分に向けました。そして悔い改めという結果を生みます。クリスチ ャンには聖霊様という味方が付いています。自分を否定してくださる方です。自我 を否定してくださる方です。このことによりことの本質や解決策を神様の介入に より導いてくださいます。私たちにとって人を赦すということはむつかしいもの です。赦せないという気持ちがいつも真っ先に働きます。ことに、悪いことをした 人が、悔い改めたといいながら何回でも同じ過ちをする人に対して3回が7回に なり7回が490回になるような限度を大きくしていくというのは少し違うよう な気がします。赦すということを神様が中心になって理解するということです。わ たしたちは、現実として誰一人として罪のないものはいません。しかも、途方もな いぐらい神様に負債をおっています。それは一万タラント言い換えれば6000 億円という負債をおったしもべのようです。罪の深さに金額はつけられないこと です。その負いきれない借金を私たちは神様におっています。その借金を神様が許 してくださったのです。赦されるという素晴らしさは自由を生みます。重くのしか かった罪がなくなるのです。正確にいうと何でも知っている神様がわたしの罪を 忘れてくださるのです。そこからの解放は何にもかえがたいものがあります。自分 が悪いと知った時に私たちは罪を赦されたことがわかったときに悔い改めという ことができます。悔い改めに通じる道筋はまず自分が罪人で悪いことをしたこと を自覚することです。そこでそんな心の汚れている自分に気が付きます。そしてそ んな汚れた自分でも生かされていることがうれしくなります。そしてこんな汚れ た自分でも神様が救ってくださったこと言い換えれば神様がわたしを愛してくだ さったことを喜びます。その時に人を赦すことが可能になります。そして無駄な権 利を主張しなくなります。それが神様にゆだねるという言葉に変換されます。赦し というものは権利を主張しない人、言い換えれば自分が自分がという人に表され ることではなく神様にゆだねた人に与えられる恵みであるような気がします。自 分に向けられた矢が汚れた自分を発見するのです。しかしながら、赦す権利を持っ ているのは神様以外にないような気がします。最後に前の教会で子供たちが礼拝 でよく大きな声で暗唱聖句を言っていたところを読んで終わりにしたいと思いま す。エペソ人への手紙4:32節「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神が キリストにおいてあなたが他たを赦してくださったように、互いに赦しあいなさ い。」

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