2023年9月3日 説教

説教題「下がれサタン!!」

聖書箇所 マタイ16:21~28

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについたいて来と思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

おはようございます。先週はコロナの事もあり、礼拝をオンラインにさせていただきました。大変な中、何とか守られました。

今週は皆様と顔と顔を合わせて礼拝ができる。この対面礼拝ができる喜びを感じています。

先週は私の信仰告白という題で、イエス様の事をあなたはなんというか?という大事な、大事な基本的な問いかけに対して教えられました。

さて私はイエス様の事をなんと思っているのか???どう答えればいいのか???と皆さんも考えられたと思います。

ペテロさんは聖霊に導かれてイエス様の事をただの素晴らしい人間だとは考えず。ものすごい素晴らしい人間だとも考えず。人間の枠を超えてイエス様は神の子であると答えたのです。

しかもイエス様あなたは100%人間であり、100%神である。そして私たちの救い主、待ち望んできたキリストであると告白したのです。

こんな告白が、誰ができるでしょう。

まだイエス様は十字架にもかかっておられないし。葬られてもいない。三日目に墓からよみがえるという復活も起こっていない。その段階で、この信仰告白ができたのはまさに聖霊様の導きです。ペテロさん個人の考えではないです。

そしてイエス様はこの信仰告白を大いに褒められました。

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

素晴らしい信仰告白をしたペテロさん。

ペテロさんは素晴らしい信仰の人だ。と思った端から次の事件が起こります。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

これは初めて弟子たちにイエス様が十字架の受難の預言、告知、宣言をした時です。

「イエス様、あなたは生ける神の子キリストです。」とペテロも弟子たちも聖霊に導かれて素晴らしい信仰告白をしました。これは素晴らしい告白ですが・・・・

イエス様がエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから殺されるという事を言われるのです。よく話を聞けば・・・この時、イエス様は殺されて終わりではなく、三日目によみがえるという事を話されていますが・・・・・そこのところは弟子たちの頭にも入りません。殺されるという事のインパクトが大きく入ってきました。

私たちの先生が、イエス様が殺される!それが頭に響きました。弟子たちの心はどうだったでしょうか?

先生が殺される!!

そんなバカなことが会ってなるもんですか。そう思ったのはものすごくわかります。

16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

ペテロさんは、素晴らしい信仰告白をしましたが・・・ここではよくわからないままにイエス様をいさめ始めた。とあります。

私はエルサレムで殺される、と預言されたイエス様を

先生そんなことが起こるはずがありません。とイエス様を引き寄せて、イエス様をいさめた。いさめるというのは、目上の人に対して、その人の悪い事、欠点などについて、忠告し、改めさせる。とあります。イエス様の語ることを止めようとしたのです。

これは普通の人だと誰でも思う事ではないでしょうか。

ペテロさんは勇気があったからイエス様に言えたのでしょう。

その時、イエス様が言われたことは

16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

この言葉よく見ると、下がれペテロ!ではないんですね。下がれサタン!。と言っています。すなわちペテロさんを否定したのではなく、ペテロさんの中に働いたサタンを否定した。

私たちはいつも神様の事を思っていればいいんですが・・・

いつの間にか人の事が優先することが多いものです。

ペテロさんのように、イエス様を「あなたは生ける神の子キリストです」と素晴らしい信仰告白をしてクリスチャンになって…洗礼受けて信仰生活を歩みだして・・・・

ただただひたすらにイエス様を見つめ、喜びにあふれ、感謝しながら、水の上を歩くというような信仰生活はないと言えます。

イエス様だけを見つめて歩むのは、・・・まさに神の事だけを思っての歩みでしょう。

でもペテロさんが水の上を歩いていても風を見て怖くなって沈み始めた。

これは人の事を思った結果です。人間的理解なら水の上は歩けない・・・私たちの日々でも人間の考えで悩んだり、恐れたりすることがあります。これはあって当然だと私は考えます。

今日のイエス様の受難の予告。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

この予告を神様のご計画だから、そのまま受け入れる・・・とできない心。

私たちには人の事を考える心があるのです。芽生えてくるのです。

私は人の考えも大切と思います。人間的にできる精いっぱいの工夫、努力、対策も大切だと信じます。

しかし、最終的にはまことの神にゆだねる、お任せする。神様の愛の中で生かされる。そんな信仰が大切です。

人間の思いだけに支配されてしまう。神の事を無視する、忘れてしまう。まさにあなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。という状態。

それは、イエス様の邪魔をするものである。その考えはあなたがサタンに支配されているのだとイエス様は言われるのです。

16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロさんはこの時、すべてを悟り、納得してイエス様の言葉を受け入れたか??そうではないと思います。しかし、わからないままにイエス様に従ったのです。信仰ってそんな部分もあります。私たち人間の知恵だけではわからないこともあるのです。その時、人の思いだけで生きていくならそれは信仰ではない。

イエス様からの語り掛け、み言葉からの語り掛けに・・・

すべてがわかったわけではないかもしれないけれど、私を十字架にかかってまで愛してくださったイエス様の愛と恵みに信頼して。自分の人生を、歩みを。イエス様の導きの中に生かしていただく。そこに信仰があるのです。

Ⅱコリ

5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

ペテロさんに下がれサタンと叱った後・・・叱ったというよりはペテロさんを叱ったのではなくペテロさんの中にあったサタンに支配された心に語られた。これはペテロさんを憐れんで愛して語られた言葉であります。

16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

これは献身への招きの言葉でありましょう。

直接的な献身、牧師、伝道者を目指す献身のような狭い意味の献身ではなく・・・私たちへの招きの言葉であります。

イエス様を信じ、洗礼を受け、クリスチャンとして人生を歩む信仰を、聖霊様によって与えられた私たち、すべての信徒への言葉です。

イエス様について行こうとするものは、イエス様についてきたいと思うものは 自分を捨て:とは、人の考えが支配する心ではなくという事であります。私たちは自分の思い、考えがあります。それを神様は否定しているのではありません。あなたらしい、あなたならではの、あなたらしさも愛してくれています。

それでもそれが神の事を思わないで人の事を思っているとき・・・・

イエス様はその道を修正してくれます。

時に、それは厳しい、叱責かもしれません。痛い思いを私たちがするか

もしれません。

でもイエス様は愛ゆえに私たちを導いてくださるのです。私たちが間違った道へ進まないように私たちに訓練を与えられるときもあるのです。

下がれサタン!!とペテロに語られたように、私たちにもイエス様からの叱責、懲らしめがあるとき、それは厳しいように思えるときであっても、そこに私たちはイエス様の愛を信じて従っていきたいものであります。そこに信仰があるのです。

ヘブル

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

自分を捨てることは厳しいように思えるでしょう。そしてイエス様に従う事は十字架を負うほどに苦しく見えるときもあるでしょう。

でも、ここにやがて平安の実、義の実を結ばしてくださるのです。

16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについたいて来と思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを

失う者は、それを見いだすのです。

下がれサタン!!のみ言葉を読む時、私は皆様に何回か証ししていると思いますが、私の献身した時の事を思い出します。

証し

私は信仰をもって三年目に、教会の新会堂建設委員長の重責がありました。会社は建設会社で転勤の多い会社でした。三年の工期の大工事が終わりそうな時でした。そんな時、家内の脳腫瘍が発見されました。小さな子供が二人。手術はうまくいっても後遺症とか考えると大阪での生活、転勤もあるし・・・仕事を続けることも難しい。私は神様に仕えたい思いは少しはありましたが。それは難しい事でした。

家内の手術前に四国の田舎に帰って地元の会社に就職できる話がありました。私はどうしたらいいのか、悩み、祈り、夜も寝れないくらいでした。

そんな時、田舎で面接があり、四国行きの船に乗りました。寝不足もあり、聖書を枕に舟の中でうとうとしていました。

私に突然響いてきたのは「下がれサタン、あなたは神の事を考えないで人の事を考えている」というみ言葉でした。聖書のどこに書いてあるかはわかりませんでした。私の信仰の浅いころです。でもその意味は、私はわかったつもりです。

私は人間的な考え方で、今、教会を離れようとしている。田舎に帰っても信仰をもって教会生活を続けることはできるかもしれません。その方が現実的かもしれません。これから手術をして後遺症も残り、子供も小さい中で私が大阪に残り、教会に仕えることの方が難しいこともわかります。まして私が神様に仕えるものとなる献身の道を歩むことなんて、考えも及ばない困難なことです。

でも今聞いたみ言葉は、神様は私に献身の導きを与えられました。神の事を思え、人の事より、神の思いに従えとの導きだと受け取りました。

詳しく語るとまだまだ示されたみ言葉はありますが、今日はこの下がれサタンが私に響いたのです。

そのまま四国の家に帰り、私は田舎には帰らず、神様に仕える献身の道を歩むと、父母に言いました。

私の救われたことには喜んでくれていた父は、私の献身には大反対でした。

私はめったに父には反抗しませんが・・・この時は父に逆らっても献身することを証ししました。それが私へのみ言葉と導きでした。

16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

今回の箇所は私にとって大きなみ言葉でした。

このみ言葉によって主に仕える道を歩み始めたからです。

そしてここからは何回も説教をしました。

で、今回とりわけ教えられたのは、「下がれサタン!」という言葉でした。

イエス様はペテロさんを否定しているのではない。ペテロさんを良き方向に導くために、ペテロさんが今、サタンに心を支配されている状態を見て、ペテロさんを修正された。という事です。

このみ言葉を与えられたから私は、ずっと人の事を思わないで神の事だけを思って生きてきたか???もう40年にわたって生きてきたか?と問われたとき。

確かにそうではない自分を見つめます。

イエス様を見つめて水の上でも歩く信仰で生きてきたか?

そんなことはない。いろんな現実を見て、人間の思いが優先して風を見て怖くなって沈み始めたペテロさんのようなこともいっぱいありました。

そしてこれは悪い事ではないと教えられました。

信仰が足りないのは私たちみんななのです。

沈みかけたペテロさんは主よ助けてください。と叫びます。イエス様はそのペテロさんを信仰の薄い人だな、なぜ疑うのかと言いつつ、ペテロさんを助けてくれます。

聖書って面白いと思います。イエス様は、ご自分はエルサレムで殺され三日目によみがえると。受難の証しをした時。ペテロさんは人間の思いで「そんなことがあなたにあってはなりません」とイエス様をいさめます。叫びます。

ペテロさんの叫びは人間の叫びです。

私たちもイエス様に人間の思いで叫びます。

今回特に教えられたのは・・・そんな風に叫んでいいという事です。

私たちに神の事を考える信仰なんか・・・人にはできない。そんな信仰はない。

わからないとき、今回教えられたのは、思い切り人間の言葉で叫んでい

い。苦しい時、つらい時・・・人間の言葉で叫んでいい。

いつも、いつも神様の事を思い、遠慮しなくていい。私たちにはふつうわからないのだから。

叫んでいい!

イエス様が修正してくださいます。私たちが人間の思いが・・というよりサタンの思いが心を支配しているとき・・・・イエス様が修正してくださるのです。

しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

と教えてくださるときがあるのです。私もありました。皆さんにもきっとあるのです。

その時は素直に聞きたいものです。

自分にすべてがわからないけれど・・・聞きたいものです。

そこに信仰があります。でもその時あなたの叫びはいっぱいしてもいいのです。

信仰はわからないとき・・・イエス様に聞くことです。

そしてイエス様に向かって私たちが人の思いがいっぱいになって神の事を思わないで人の事を思っていることは、私たちの生涯にわたっていっぱいあるのです。それほど私たちは信仰深いものではないのです。

その時、叫んでください。

そこにイエス様からの私たちへの修正や導きがあります。それは聖書の言葉から、説教から、信仰の友から、祈りの中から、聖霊様が働いてあなたに語り掛けてくださるのです。

これは聞く耳を持つとき、神様はあなたを見放さず、ずっと助け導いてくださる約束があるのです。

でもそれは耳の痛い時もあるかもしれません。

あなたが叫び、イエス様があなたを守り、信仰の薄いものだな…なぜ疑うのか…と言いながらもあなたを助け導いてくださるのです。

この事を私は教えられました。

下がれサタン!!とみ言葉を聞いて。イエス様に従って行こうと導かれて40年以上たちますが・・・・イエス様は信仰薄い私を折に触れてみ言葉で励まし。導いてくださっているのです。

下がれサタン!!とはあなたの中にある神様を忘れてしまうような心。

サタンに支配された心…それを正してくださるイエス様からの愛の言葉なのです。

こんなことが何度も何度も繰り返されながら、私たちの信仰は高められていく。聖化していく。最初の頃よりもイエス様への信頼が強くなっていく。そんな日々が進んでいくのです。

悩んだ時、不安な時、自分の思いと違う時。人間の叫びをすることはいいんです。その時イエス様からの修正、導きがあります。それを聞きながら私たちは今週も歩ませていただきましょう。

イエス様はそんな信仰の薄い私たちをも愛し、私たちのために十字架にかかり私たちの罪のために死んでくださり・・・・私たちがイエス様の十字架によって罪なき者としてくださり。この世の旅路を、人生を導いてくださるのです。イエス様はあなたを心から愛してくださっているのです。時に「下がれサタン!!」とあなたに語り掛けてくださる愛の方なのです。

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