2023年8月13日 説教
説教題「確かにあなたは神の子です」
聖書箇所 マタイ14:22~33
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
おはようございます。
まだまだ暑い日が続きます。そんな中礼拝にやってこられるお一人一人に大きな祝福と恵みがありますようにお祈りします。
この間、ある本で読んだのですが、日本人は仏教や神道、その他の宗教と言われる公称人口を足すと、日本人口の何倍にもなる。という事は、私は何を信じてい
るかという事があいまい。そんな信仰ではいざ困った時、どの神様にすがればいいかわからない。確信もない。
その点、クリスチャンはイエス様を見上げて毎週礼拝に集っている。もしなにか祈ることがあればイエス様に祈る。それは地道なようでも毎週日曜日に、淡々と礼拝に集い、恵みと祝福をいただいてから一週間を始める信仰に生きている。
これは大きな信仰に育っていくのです。
という事を言っていました。なるほど確かに・・・イエス様を日々の生活の中で見上げる、それは礼拝から始まり、礼拝の中で私たちはいのちと赦し、祝福をいただいているのだと心から信じるのです。
先週は異例の事でしたが、私たちの教会に与えられた一つの課題として、ナラノンの皆様の事を相談会で話し合いました。いろいろ検討することもあり、役員会で検討していきたいと考えていますので続けてお祈りください。
さて聖書に入ります。
先週は5000人の給食と言う題で説教をしました。
想像してみれば凄いことが起こりました。
ただ群衆はその本当のすごさには気が付いていないように思います。
自分たちは50人ずつぐらいのグループで草の上に座り、弟子たちが配ってきてくれたパンと魚をいただいたのです。それもみんなが満腹する事ができる食べ物をいただいたのです。
それは嬉しいことだったでしょう。
ただそのもとが5つのパンと二匹の魚とは知らなかったと思います。
それがわかっていたら、もう大パニックだったと思います。
収拾がつきません。
弟子たちだけがその奇跡を目の当たりにしたことと思います。
それでも群衆の喜びは大きなものです。慰めの言葉を聞き、病を癒され。
食べ物までくれるイエス様・・・・。
もう群衆はイエス様からさらに離れなくなるでしょう。
その群衆をイエス様は解散させられました。
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
弟子たちは、イエス様のなされたことに、5000人の給食の舞台裏を知っているがゆえに、興奮状態ではないでしょうか。なんという凄い方なんだ!!!。この方は。イエス様は・・・・。
その興奮の中、弟子たちこそイエス様と一緒にいたいのに、強いて船に乗り込まされ向こう岸へと行くのです。
イエス様の配慮でしょうか?弟子たちがここにいたら、群衆は弟子たちをも神様の使いとあがめるでしょう。
また弟子たちも気持ちがいいでしょう。自分たちもあがめられます。
そんな場所には長くおらせない。弟子たちの信仰はまだ幼いゆえに、いろんな誘惑から守るという配慮もあったでしょう。
そして喜んでいる群衆も解散させるのです。
一人になったイエス様は、祈られるのです。
ここに大切な事があると言えます。5000人の給食というような大きな素晴らしい事。いわば成功体験をした後。弟子たちも傲慢にならないよう・・・。またイエス様も祈りの時間を、一人祈る、静まりの時を持たれるのです。
私たちも何か素晴らしい事。みんなの称賛される事。興奮する事そんなことのあった時。静かに神様に祈るひと時を大切にしたいものです。
イエス様は、先週も言ったようにバプテスマのヨハネの事も偲びながら祈られていたと思います。
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
さて、イエス様に強いて舟に乗せられ、向こう岸に出発した弟子たちです。
彼らの気持ち、興奮状態を想像します。
なんであんなことが起こったのか。5つのパンと二匹の魚から人々が満腹するほど食べれて、さらに余るなんて・・・・。信じられない奇跡を彼らは体験したのです。そんな話をしていたでしょうか。
船に乗って向こう岸まで行くことは、漁師も中にいる弟子たちには簡単なことです。
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風
なので、波に悩まされていた。
しかし・・・・。しかし・・・。
今までの流れから言えば、ここはうまくいくはずなのに。
しかし…という事が起こるのです。
私たちの人生も、調子よく物事が進んでいる、絶好調・・・。これから先もいい感じ・・・。というような時に、しかし、という事は起こります。
しかし、弟子たちの舟は順調に進まなかったのです。
彼らが進んでいるガリラヤ湖はイスラエル国内最大の湖です。
琵琶湖に比べるとどうかな?と面積は琵琶湖の1/4くらいの湖です。
この時、彼らが目指していた向こう岸までは10kmほどでしょうか?
普通なら簡単に行ける行程です。
最初は順調に進んでいたのに陸から何キロメートルも離れた時・・・。
急に風が吹いてきたのです。
琵琶湖にも比叡おろしという風が吹きますが、ガリラヤ湖も突然の気象の変動で大風が吹き始めるということもありました。
漁師である、ペテロやヨハネたちもいますから慣れていると思いますが、今回の嵐は、今まで以上のものだったようです。彼らは波に悩まされていた。
私たちの事を考えても、最初は簡単に考えて始めたのに、もう引き返すこともできないような段階まで来て、急に困難が襲ってきて前にも進めなくなることがあります。
実はこんなことばかりのような気がします。
人の力で、頑張っている時、突然の自然の猛威にはまったく歯が立たない時があります。
まさに社会の荒波にもてあそばれるような事があります。
皆さんも台風などの自然災害の前にどうしようもない、小さな、弱さの中にいる自分を見ることがあるでしょう。
私は海の仕事をしていて、台風の中で、人間の小ささをいやというほど味わったことがあります。何回もあります。
日ごろは強そうに思っていても、台風などの荒波の中では、まさに何にもできないのです。ある時などは小さな測量船でお気に出ていて、天候が変わり、強風になり、横波を受けたら舟が転覆しそうなので、風上に舟をまっすぐに向けて・・・・ただただ天候の回復を待ったこともあります。
私は、当時はだれでも取れる小型船舶操縦士を持っていました。ちなみにこの免
許は今は1級小型船舶操縦士に格上げされて、外洋まで操縦できる免許になっています。私なんかはそんな技術もありません。
弟子たちは突然の嵐に難儀していたのです。
弟子たちも悩まされていた・・・。きっと自分たちの力の限界を感じていたでしょう。あるいは死の恐怖を感じていたでしょう。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
夜中の三時ごろとは、随分遅いですね・・・・。きっと夕方に弟子たちは船に乗ったはず。明るいうちか、そんなに遅くないうちに向こう岸に着く予定だったのが・・・・。夜中の三時でまだ湖の真ん中・・・・波にもてあそばれ、全く進んでいなかったのでしょう。これはしんどいですね。しんどさの極致でしょう。
事故で復旧作業などをしていたことがありますが、夜中の三時ごろは疲れもピークです。
私たちの頑張りも、限界が来るような時。
自分だけが苦しんでいると思うような時。イエス様は実は見ておられるんですね・・・・・。
この個所、私は大好きな箇所です。
もう、頑張って、頑張って、でも一歩も前に進めなくて、それどころかもうだめかと思う時・・・・。死を覚悟するような絶望的な時。
夜中の三時ごろです。
私には私を見つめてくれている、イエス様がおられるんですね。イエス様が来てくださるんです。
Ⅱコリ
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
実は私は弱いですが、イエス様がおられるんです。イエス様が来てくださるんです。
そしてこの時期は、夜中の三時
私たちが何か困った時があったら、すぐイエス様が来てくださる時もあるでしょう。でも神様のご計画はすぐではないと思います。
私たちが十分頑張って、苦しんで・・・。自分に絶望している時・・・
人間の力に頼るのではないと悟るような時。
イエス様は来てくださる。
救ってくださることが多い。
人がおぼれた時、すぐに助けに行くと、助けに行った人もその人につかまれて一緒に溺れてしまうと言います。
冷たいように見えるけれど、おぼれている人が、あがいて、あがいて、苦しんで、自分の頑張りを全部やって・・・・。水も飲んで・・・。疲れてぐったりしている時に、助けに行くのが救難のプロの話です。
最初から救命胴衣や浮袋を投げて助ける方法もあるでしょう。
でも何もない時はそれが一番だと言います。
弟子たちも波に頑張っていました。悩まされつつ、自分の力や経験もつかって荒波に抵抗しました。
でも夜中の三時ごろには、結構つかれていたように思うのです。
絶望していたように思うのです。
その時までイエス様は山の上で祈りながら、実は弟子たちを見ていたのです。
私たちも神様がいるなら早く助けて!!!何で来てくれないのと悪態をつくようなものですが、イエス様はほっておいているのではない。私たちをじっと見つめ。とりなしをし、待っておられるのです。
もういいかな…と思って イエス様は来られたのです。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
ただイエス様が行かれたのは、びっくりする方法でした。
湖の上を歩いて来られたのです。
これは弟子たちに驚きだったのは想像できます。
私でも、もうフラフラになって、「ああ、こんな時、5000人の人たちを満腹させられたイエス様がおられたらなあ・・・」「イエス様助けてください」と思っていたでしょう。
そこにイエス様が湖の上を歩いて来られた。嵐の中を歩いて来られた。
もう幻覚を見ていると考えたでしょう。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
弟子たちはイエス様を見て幽霊だと思った。恐ろしさのあまり叫び声をあげた。
私たちも弟子たちを笑えません。イエス様助けてください!!!と祈りをささげている時。
使徒の働きでは牢に捕らえられたペテロをどうぞ助けてくださいと教会中で祈りを捧げていた時。ペテロが助け出されて彼らの前に来た時。彼らはペテロを信ぜず、幽霊と思い、恐ろしがってまさに叫び声をあげたのです。
私たちも何かの祈りを真剣にしているのに、祈りが自分の思いをはるかに超えて聞かれた時。それは恐ろしくなってしまうようなものなのです。
例話:
弟子たちは「イエス様が来てくださった!!」と喜べなかったんですね。
その気持ちわかります。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
ここでまた、しかしと言う言葉が出ました。
そうですね、普通ならせっかく弟子たちの所に来たのに・・・・。弟子たちがイエス様ありがとうございます。というのが当然なのに・・・・
幽霊だ!!!と恐れて叫びだす。
人間ならば、なんちゅう不信仰者。失礼な奴!!!もう勝手にしろ!!!と言うかもしれません。
しかし、しかし、イエス様は違うんですね。
ヘブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
イエス様はいろんな試みを受けられた中で私たちの弱さに同情してくださる方なんです。
これは心から感謝すべき「しかし」です。
イエス様は弟子たちを見放すことなく。声をかけられたのです。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。
恐れることはない」と言われた。
このしかしは私たちへも同じです。私たちは悲しみの中で、苦しみの中でイエス様がせっかく来てくださったのに。それさえも信じられず、幽霊だ!!と叫ぶような者です。霊的な失礼ものです。無礼者です。
しかし、イエス様は今もおっしゃってくれるんです。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」
ここで切り替えが早いというか、感情的というか、お調子者と言うか、憎めないくらいのまっすぐなペテロがイエス様に言うんです。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
ペテロは、主よと呼びかけます。嬉しかったんですね。イエス様が来られた。そしてとてつもない申し出をします。
今イエス様は水の上を歩いてここまで来られました。
イエス様が命じてくださればなんでもできるとの信仰に立ったんですね。
ある意味興奮状態でしょう。
イエス様を見ていれば何も怖くなかったんでしょう。
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
信じられないことにペテロも水の上を歩いているんです。イエス様をしっかりと見つめて歩いているんです。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
ペテロはイエス様をしっかり見つめていく時、何の怖い者もありませんでした。
しかし、風を見た時怖くなって沈み始めました。
私たちの信仰生活の中でもただイエス様を見つめている時何も怖くないという時もあります。
しかし、いろんな常識や周りを見る時恐れを感じてしまう事があります。その時は沈みます。湖の上は歩けません。
ここはだからイエス様だけを見つめて歩け、そして湖の上も歩け!!それが信
仰者だということではないと思います。
風を見て、怖くなったペテロもイエス様は見放さず助けてくださったのです。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
ここにまたイエス様の愛を覚えます。
信仰の薄い者だな、なぜ疑うのか・・・・これは私達もまた一生涯言われ続ける言葉のように思います。
信仰をもって三年後に私の家内は脳腫瘍で大手術をしました。手術をした病院では、家内の前と、後の方は残念ながら亡くなられました。それほど難しい手術でした。
家内も心安らかではなかったでしょう。
私も不安に押しつぶされそうになったでしょう。
でもその時、私たちはクリスチャンになっていました。
イエス様を見つめていました。だからこのペテロのようなものでした。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
私は、今考えると不思議と思うかもしれませんが、イエス様が共にいてくださる。大丈夫。水の上でも歩ける。というような信仰で、何にも怖くなかったんです。手術の前後、イエス様を見つめ、なんにも怖くなかったんです。私が不安になって家族を困らせるという事がないようにイエス様がしてくださったんでしょうかね。
家内もまた、手術前の晩は、不安で普通は睡眠薬などを処方してくださるそうですが、それもなくてすやすや眠れたそうです。
水の上を歩くことができました。
でもそんな信仰はいつまでも続くわけでもないと思います。
ここはバランスですかね。
今では白内障のような簡単な手術にもビビるような者です。
でも、必要ならば、ここという時にはイエス様は私たちをペテロのように信仰によって水の上を歩くことさえさせて下さるのです。
風を見て、怖くなったペテロは沈みます。
まあこれが普通です。
でもイエス様はそのペテロを、手をつかんで助け上げられるのです。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
ペテロが助け上げられ、夜中の三時の事件は終わりました。
二人が舟に乗り移ると風がやんだ。
イエス様と共にいる時、イエス様が来てくださり、私の舟に乗り移られた時。
風はやんだのです。
私たちの問題も、何よりも私たちの最大の問題。私たちの罪によるさばきの問題。
私たちは神様に逆らって生き、その先は滅びであるという問題。死の問題。
この問題に人はあらゆる努力をして、何とか解決しようとしています。
人生のすべては、神の救いを受けるか、滅びに向かうかの葛藤であります。
波に悩まされているのであります。
今、多くの人は舟に乗り込み、向こう岸へと向かっています。岸からは離れました。でも途中で波に悩まされているのです。
頑張って、頑張っているのです。
そして夜中の三時にイエス様が来てくださり。
イエス様が舟に乗りこまれた
これはまさに救いの時です。
私の人生の主にイエス様をお迎えした時です。
その時風はやんだ。
救いの時があり、私たちはこの方こそ私の救い主キリストですと告白するのです。
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
祈り