2023年8月6日 堺育麦キリスト教会礼拝説教です。
動画はこちらから https://youtu.be/PdQ3cp-ql_o
文字原稿は以下からです。
説教題「二匹の魚と5つのパン」
聖書箇所 マタイ14:13~21
14:13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
14:14 イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。
14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
14:18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
14:21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 おはようございます。
先週は。宝を見つけたらどうしますか?という題での説教でした。
私たちはイエス様の福音。素晴らしいニュース。を聞きます。
神様が私を愛し、私のような罪人の救いのために神様のひとり子イエス様を、この世に送られました。
 そしてイエス様が私の罪の身代わりに十字架で死んでくださいました。
本来ならば、私が受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださいました。
そしてイエス様はその死が確かに私たちの罪の赦しのためであったとの証しとして三日目に墓から復活。よみがえられました。
 それゆえに今、イエス・キリストを私の救い主と信じる者には、罪の赦しが与えられ、神の子とされ、永遠の命が与えられているのです。
という福音です。こんな素晴らしい福音です。宝です。これを見つけました。
 キリスト教の背景のない私には、この話は最初、全く信じられませんでした。
またキリストの十字架の死が私に関係があるともわかりませんでした。
聖書が語る福音は私にとって宝物ではありませんでした。
 でもある時、聖書のみことばが私の心に届きました。
神様の愛を知ることができました。
① 【ロマ
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
イエス・キリストは私の宝物になりました。
 先週の話では、畑の中で宝物を見つけた人は、大喜びで畑を買って自分のものとしました。
 私たちも、イエス・キリストの福音が大きな、大きな宝物となっていく時、その宝を大切に生きさせてくださいと祈る者であります。
さて、今日の聖書箇所にはいります。
14:13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
イエスはこの事を聞かれると・・・・・。とあります。何を聞かれたのでしょうか?
先週の説教(マタイ13:44~52)から今日までの事を少し簡単に見てみましょう。
イエス様の語られる言葉は知恵と不思議な力に満ちていました。
その地方一帯に大勢の人々が集まり、話を聞きに来、病の癒しを受けていました。
そしてイエス様はご自分の郷里(きょうり)に帰られます。
故郷に錦を飾ると言う言葉がありますが、
これが意外と郷里では尊敬されなかった。という事が書かれています。
詳しくは13:54~58です。
イエス様は郷里の人々の不信仰のゆえにそこでは多くの奇跡はなさらなかったとあります。
不思議な箇所ですが、あり得る、深い話であります。
野口英世も世界的学者になって日本に帰り、郷里に帰った時・・・・。あれは貧しい百姓の子。てんぼうと言われていた子。しかばあさんの子ではないか?大酒飲みの、いいかげんなやつ、と陰口をいうものが多かったと言います。
イエス様にしても、あれはあそこのマリヤさんのところの、はなたれ小僧ではないかと・・・。言う人もいたんですね。
イエス様の人気がユダヤの国中で素晴らしいものでしたが、郷里ではそうではなかったんですね。聖書はこんなことまで書いているんですね。
そのころユダヤの国主ヘロデは、イエス様の人気を恐れます。
それはつい先日、自分が処刑した。バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだと考えるからです。彼の心にやましい心があるからです。
バプテスマのヨハネはイエス様がこの世に来られる先駆け、露払い、準備をした素晴らしい人です。
神様から離れていた人々に神様の正義を説き、人々に罪を示し、
悔い改めのバプテスマを施していた人です。
 たくさんの人がバプテスマのヨハネを尊敬し、彼から悔い改めのバプテスマを受けました。
 イエス様もこのヨハネの事を、人間として生まれた人の中で最も偉大な人だと言っています。
 そのヨハネが、国主ヘロデが不倫をしていることをはっきりと糾弾したことにより、捕らえられ、
 その妻(不法な妻)ヘロデアの悪だくみにより、首をはねられてしまうという出来事が起こるのです。
 ちょっと読んでみましょう。
マタ
14:1 そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、
14:2 侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」
14:3 実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。
14:4 それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったからである。
14:5 ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。
14:6 たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
14:7 それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。
14:8 ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」
14:9 王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。
14:10 彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
14:11 そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
14:12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
こんな事があったのです。バプテスマのヨハネの死の報告を聞いて、イエス様のお気持ちはどうだったでしょうか?
悲しみの中に、あったと思います。バプテスマのヨハネはイエス様の道備えのために生涯をささげた偉大な人でした。
イエス様はヨハネとの思い出を偲びながら静かに祈りたいと考えたでしょう。
一人になりたかったでしょう。私はそう思います。
14:13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
ところが群衆はイエス様を一人にさせないんです。
追いかけて来るんです。
イエス様が船にのって去ったのに、歩いてあとを追うんです。
群衆はイエス様に会いたいんです。すがりたいんです。
イエス様の言葉を聞きたいんです。彼らの気持ちもわかります。
彼らはまるで羊飼いのいない羊のように苦しんで、羊飼いなるイエス様をしたい求めているんです。
14:14 イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。
舟から上がられたイエス様は・・・・・。一人になりたかったのに・・・・。殺されたバプテスマのヨハネの事を偲び、寂しいところで祈りたかったのに・・・・。
そんな文句をいうわけでなく・・・・
目の前にいる、多くの群衆を見て、彼らを深くあわれまれるのです・・・・。
イエス様を求める者にイエス様は答えられるのです。
この姿・・・・。ご自分を無にし、仕える者の姿です。
イエス様の姿です。
② ピリ
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
イエス様は彼ら(群衆)の病気を癒された・・・・。群衆は嬉しかったでしょうね・・・・。目に浮かびます。
ところがここで現実問題です。
今、群衆はイエス様を追ってやってきました。とにかくイエス様に会いたい、話が聞きたい、癒されたい・・・・。と日常の事を忘れる思いでやってきています。
ここは辺鄙なところです。
もうみんな帰さなくては、食べ物もありません。
ど田舎です。
弟子が言います。
14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
現実の問題として、群衆はお腹もすきます。食べなくては、人間は生きていけません。
でも彼らは、今は食べることよりも、霊的な飢え渇き。心の、魂の、飢え渇きを覚えていて、食べることを置いといてもイエス様の所に来たのです。
 私たちもそんなことがあるでしょう。
日頃の食べ物よりももっと大切な事がある時があります・・・・。
③ イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」マタイ4:4
 しかし、人は食べ物も必要になってきます。これもまた現実です。何にも食べなくては、人は生きていけないんですね・・・・・。
皆さんも経験があるでしょう。断食とか絶食!!人ってどんなに高尚なことを考えていてもお腹は空くのです。しかもそれには耐えられないんです。
例話 私は断食はないですが急性胃腸炎になって、何を食べても吐くし、絶食を言われて入院したことがあります。最初は食欲もなかったですが、少し落ち着いてくると‥もお腹が空いて・・・・食事の時間が来て、ベッドの隣の人がカーテン越しに食べている音が聞こえる・・・・もうおいしそうで・・・
人間の食欲というのはすごいなあと思いました。お腹は勝手に空くのです。
ただ、群衆は、もっとイエス様といたい。もっと話を聞きたい・・・・そんな感じです。
このままでは帰りません。
弟子たちはイエス様に進言、お願いするのです。
14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
イエス様の答えは弟子たちには驚くべきものでした。
14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
弟子たちに食べ物をあげなさい。と言われます。
そんな事を言ったって・・・・・。そんな食料はありません。
弟子たちはイエス様に反論します。
14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
イエス様、そんなこといったってここには何もありませんよ。無理ですよ!
パンが五つと魚が二匹・・・・。これでは何の役にも立ちませんよという言葉でしょう。
これはヨハネの福音書で見ると、ある少年が持っていたお弁当でした。みんなのために使ってくださいと差し出されたものです。
しかしこんなにたくさんの人の前で、何の役に立ちましょう!!!と言います。
しかし、ここでイエス様はそのパンと魚を祝福されるのです。
14:18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
14:21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
ここで5000人の給食と言う大きな奇跡が起こるのです。
この記事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに書かれています。それほど大事なことであります。
ここで教えられることはたくさんありますが
① イエス様の恵みは人間の思いをはるかに超える神の業である。
② たった5つのパンと二匹の魚でも、ちいさな捧げ物でもイエス様が祝福される時大きなもの。すべての人が満ち足りて、まだ有り余るものとなる。
先週習った、小さなからしだね こんなちっぽけなものがと思ってもイエス様の祝福の中で大きな大きな木になる。小さな信仰でもイエス様が用いてくださり5000人が満腹するという驚くべきことが起こったのです。
この話を初めて聞いたとき、私はこの話はまったく信じられませんでした。
女子供を除いてと言えば、全員では1万人以上はいる群衆です。
その人々が食べられるほどパンと魚が増えたのですから・・・・。
そんな馬鹿な!!と思いました。
 皆さんもそう思う方もおられたと思います。
私は、教会に初めて来たときから、聖書の奇跡が全く信じられませんでした。その中でもこの5000人の給食も大きな躓き(つまずき)でした。
しかし、しかし、ですよ
イエス様が神の子であるという事は、人間にはできない神の働きができて当然なのであります。
 ある時私は、信仰によってそれを信じる事ができました。
私の理性は受け入れられなくても、神様がされることに、私のような小さな者が異議を唱えることはできない。
 私の考えなんか井戸の中のカエルのようなもの。神様の大きさに比べれば取るに足らない者。神様の存在とその愛を信じてみようと示されたのです。
ヨブ記に
④ 38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
私は本当の知識もないのに神様に言い逆らっているようなものでした。
今、天地を造られた神様の存在を信じます。
そして神様のなされた業をそのまま信じますとお祈りしました。
説明にもなっていないかもしれませんが、私は聖書に書かれていることはそのまま受け入れるに値する事。確かなことである。と信じたのです。
これは、私は合理的な皆さんの納得の行く説明はできません。
まさに信仰による、自分の生涯で一番大きなことでした。
その時、聖書の言葉が素直に入ってきました。その中でイエス・キリストの救いを信じたのです。
これは人間の思いをはるかに超えた神様の業なのです。
 人が自分の理屈、思いもすべて委ねて、神様の前にひれ伏す。
自分が罪人であることを認め、絶望する。
しかし、こんな情けないものを、不敬虔な者のために、神様は私たちを愛し、イエス・キリストを送ってくださった。
そして救いの道を十字架で用意してくださっている。
今、その事を信じるだけで、人は救われる。また神の子とせられる。
この福音を心に信じ受け入れる。人が洗礼を受けるなどと言うのは、まさに人間の思いをはるかに超えた神の業です。
 5000人の給食と同じくらいの奇跡です。
そのイエス様の働き。ここでは5000人の人が満ち足りる事。ここには何もなかったのではなく、少年が小さな捧げものをしたことがあります。
この少年のパンと魚は大群衆の前では微々たるものでした。
小さなものでした。
でもその心と思いがイエス様の前に出される時、イエス様はそれを祝福してくださったのです。
私たちの働きも、大きな問題の前にとるに足らないような小さな働きである時もあります。しかし、小さな働きにもイエス様の祝福がある時大きな恵みとなるのです。
物事は大きな事が用意されているのではなく、小さな、小さなことから始まります。まるで無駄、何の役にも立たないと思うような事から始まるものです。
それをイエス様の前に差し出すとき、神の子イエス・キリストが祝福してくださるとき大きな、大きな恵みがあるのです。
5000人の給食
それは現代にもイエス様が祝福されるならば私たちは体験します。
イエス様は、何よりも私たちを深くあわれまれているのです。
自分の悲しみ、苦しみの中でも、こんな小さな私たちを愛してくださっているのです。
その愛の中で、私たちの思いをはるかに超えて、まさに神様の恵みと御業があるのです。
祈り
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