2023年7月30日(日)

説教題「天の御国のたとえ5つ」

聖書箇所 マタイ13:31~33、44~52

マタ

13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、

13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

マタ

13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、

13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

13:51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。

13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

おはようございます。毎日暑いですね。昼間はとても外には出られない

ような気がします。外でお仕事している人のご苦労を覚えます。昔と暑さが違う気がします。

昨晩は、田川さん宅の屋上パーティーでした。ちぐさのもりの皆さんとのパーティーで楽しいひとときでした。なんせ90歳の男性がすべてを準備して私たちを接待してくださる。そのことに感動、感謝です。田川さん宅の屋上までは家の中の急な階段を40数段上がります。食材や飲み物お皿やテーブルセット・・・・私たちが少しは手伝いましたが基本は田川さんが一人でやられて・・・・屋上には提灯もセットして・・・・玄関には歓迎「ちぐさのもりのみなさん」との張り紙まであって・・・

グラスは冷やしてあって、おしぼりもカチンカチンに凍らせていて

手作りのどて焼き(肉も十分煮込んで柔らかい・・絶品で 枝豆も下処理をして、宴の途中で田川さんが下に行って、熱いあげたてのエビフライ 長いものフライ・・・もうおいしい。屋上はそよ風が吹いて提灯がゆらゆら揺れて。日ごろからちぐさのもりでの知り合いですから、気兼ねすることもなく、楽しくしゃべりながら食べて、飲んで・・・・いつもは聞けない話も出てきたり・・・

90歳の田川さんに接待していただいていることに恐縮しながら甘えて楽しませていただきました。締めには冷たいそうめん。だしもお手製、しょうがも新ショウガをたくさんすってくれていて至れり尽くせりでした。

私は、日ごろは飲まないのですが、二人予定者が減り、場を盛り上げるためにもしっかりビールを飲みましたが、日ごろ飲んでいないのですぐに酔ってしまい・・・・それでも楽しい皆さんとの会話でした。田川さんがちぐさのもりの皆さんとも知り合いになれて、今日はみんなでパーティーの準備も出来て、私は幸せです。人生で今が一番楽しい。とおっしゃられていまして・・・・ああ見習いたいなあ・・・誰かのために生きる、それを死ぬまで淡々と、いつも前を向いて、人生で今が一番幸せですと言えることは素晴らしいなあと感動しました。

まあ個人的には田川さんが最後はイエス様を信じてくれたら、最高の幸せかと考えて祈っています。

さて本日の聖書日課ですが、本日も天の御国のたとえ話です。

大きな流れで今日の所を俯瞰(俯瞰というのは高いところから全体を見下ろすというような意味です)しますと

まあ一つ一つの木を見るというよりも全体の森を見るという感じでもあ

ります。

マタイ13章に入って

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。

13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。

13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。

ここからたとえ話が始まります。

種まきのたとえ(四つの種)が語られ7/16(金兄の説教)

毒麦と麦のたとえ 7/23(豊島の説教)

続いて今日のたとえ話がいくつか短くまとめて語られ(今日の聖書日課です)

たとえ話が終わるとイエス様がまとめをします。

13:51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。

すなわち13:1~51までがたとえ話の部分です。

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。

13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。

13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。

13:51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。

こんな流れになります。

今日は四つの種、毒麦と麦のたとえが割と詳しく書いているとすれば、比較的短く書かれているたとえ話5つです。全部で7つのたとえ話がされました。

今日の箇所を見ていきましょう。

① からし種のたとえ

13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、

13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

小さな信仰でも大きな実を結びます。

からし種は種の中でも最も小さい。

このたとえはマタイ、マルコ、ルカで同じものがある。最も小さい、とるに足らない・・・吹けば飛ぶようなからし種 でもその種がまかれれば・・それが育って大きな木になります。どんな野菜よりも大きくなります。空の鳥がきて、その枝に巣を作るほどになります。

大木にもなるんです。

私たちに植えられた福音 それを信仰で受け取るとき・・・私たちが想像もできないようなことが起こるのです。

私なんか何もできないわ‥とあきらめる必要はないのです。

あなたと共におられるイエス様があなたを用いて豊かな実を実らせてくださるのです。

それが天の御国 クリスチャンの人生 生き方。の祝福なのです。

神様は信じる者に大きな、大きなことをしてくださるのです。

② パン種のたとえ

13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

少しの量でもパンを大きく膨らますことができる。パンだねというのは、私は使ったことがありませんが。イースト菌 酵母とかを入れるとパンが膨らむんです。

粉の中に少量でも粉が膨らんでいくのです。

パン種が大きな影響を与える

いい使い方。悪い使い方がある。

これもからし種のような信仰でもあれば豊かな実を結ぶというのと似

ているところはあると思います。

小さなことでもまさに大きなことがなるのです。

また

聖書ではパン種は、かなり悪い意味でも使われています。私たちの中に働く、純粋でない信仰です。イエス様はパリサイ人のパン種に気をつけなさいと言っていますし、

出エジプトの時には純粋に神様に従っていく信仰の現れとして、パン種を入れないパンを食べるように言われました。ユダヤの過ぎ越しの祭りにはパン種を入れないパンを食べています。

天の御国 私たちの信仰生活は、小さな祝福のパン種から膨らんでいきますが・・・ちょっと違ったパン種が膨らんでいくことの警戒

四つの種の中のいばらのような

マタ

13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

このようなパン種もあることも思い起こされます。

③ 畑に隠された宝のたとえ

13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

こんなことはあることだった。この当時、財産を土に埋めて(畑に埋めて隠しておく人はいた)その人が死んでしまい、誰もその財産の事がわからくなることもある。

それを、何かの事で見つけた人がいた場合。土に埋まった宝の所有権は土地の持ち主にあるので ・・・・・宝を手に入れるには畑を買う

優先順位 持ち物全部を売り払っても・・・一番大切

ここは宝というのは当然、福音の事です。彼はたまたま福音を見つけました。その時、この福音に持ち物すべてを売り払っても畑を買うか??

という疑問がわきます。現代において福音が、まさに宝になっているか??

宝と思う人にはまさに宝 何もかも売っても買いたい。そんな風に救われる人は少ないように思います。

これは私にとってなくてはならない 最高の宝だと思える人はまさに少ない。今の持ち物は置いといても…福音をちょっといただくだけでもいいんじゃないかと思う人もいます。

私はかなり極端なので、イエス様を信じたときから、持ち物すべてを売り払っても畑を買うというような信仰のスタートをしました。

考えれば私の父はその典型でした。初めて教会に行って、イエス様の福音を聞き、その日、信じて・・・すべての生活が一変しました。

ある意味似てると思います。

父は、マッサージをしていました。サービス業です。日曜日はお客さんがよく来る日です。

信じたその次から日曜日は礼拝に行くと決めたそうです。周りの人はそんなんじゃ食べていけんぞ!!イエス様が食べさせてくれるんかい。という人もいたそうです。ある意味持ち物すべてを売り払って福音という宝を買ったんだと思います。母もびっくりしたと思うし・・・家の経済も大変だったと思います・・・・。それでも福音を宝として生きてきて、ぶれずに50年以上の信仰生活を歩んできたのですから。

まさにたまたま見つけた宝を手に入れて・・喜んで生涯を送ったと信じます。

普通は躊躇する人もあるでしょう。

でも宝が宝とわかるかどうかです?

④ 良い真珠を見つけた商人のたとえ

13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

畑に隠された宝のたとえに似ている

それを一番大切にする。

ここでは良い真珠を捜している商人 実は探し求めていたんです。よい真珠を・・・

これはたまたま見つけたのではなく求めていた 生き方を福音を捜していた人です。

人はいかに生きるべきか?人生とは何か?学生時代に寮で夜中から朝まで激論していたこともあります。人はみな良い真珠を捜している商

人みたいなところがあります。

でも商売がまずまず儲かっているなら・・・もうこれでいいと思うのかもしれません。

毎日が通常の生活です。ところがこの商人は素晴らしい真珠を見つけました。専門家ですからよくわかります。それに気が付いていない人もあります。かなりの売値がついていますが、自分としたらそれ以上の価値です。しかしそれを買うにはかなりの冒険がいります。自分の持ち物を全部売り払うぐらいです。でもそれをしたら買えるのです。

この商人はこの真珠をかい求めます。

私たちが福音に出会う時。どうでしたでしょうか?良い真珠、自分の生き方に迷う時。真理を知りたいとき。探し求めている時

福音に出会うのです。イエス様の事を知って、私のために死んでくださったイエス様を知って、これから一緒に歩んでくださると約束し、励ましてくださるイエス様を知った時。み言葉に出会ったとき。ああこれこそ私が求めていた良い真珠だとわかった時。

その素晴らしさを知り・・・それを買う事。それが信仰でありましょう。

でも現実にはそんなにすぐには良さはわからないかも知れません。

まだ商人としての実力もなく、良い真珠を見分けられないこともあるでしょう。

これが素晴らしい、良い真珠だと確信できるのは

自分の力ではなく聖霊様の助けであると私は思います。

最初福音を信じたとき。完全な確信ではないでしょう。でも聖霊様が助けてくださって私たちは信仰によってイエス様を信じ まさに恵みで洗礼を受けました。この洗礼を受けることは、

13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

この事に通じます。

あとはイエス様が守ってくださるのです。

良き真珠を見つけたとき、これこそ自分にとって一番の値打ちのあるものだと信じる信仰

これが天の御国の生き方です。

⑤ 地引網のたとえ

13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地

引き網のようなものです。

13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、

13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

世の終わり 毒麦と麦のたとえに似ている。

これはちょっと恐ろしい表現ですが。世の終わりにはこのような選別の時があります。

私は子供のころ地引網を砂浜でしていて、子供ながら手伝って最後のより分けの時。おこぼれみたいにして魚をもらって帰るのが楽しみでしたが。

確かに地引網は根こそぎ魚を捕まえます。私たちもどんな人もみな神様の裁きの前に出されるのです。そして毒麦と麦をより分けたように悪いものと良いものは分けられるのです。

ここで悪いものとされないようにしたいものです。これは厳粛な警告です。

天の御国 私たちは、人生のある時福音に出会います。そしてその素晴らしさに感動し、喜び、その福音に生かされて生きます。信仰生活が始まります。

でも信仰生活ってそんなに華やかなことばかりではありません。いやどちらかと言えば小さな日常の積み重ねです。最も小さなからしたね

たくさんの小麦粉の中にある少しのパン種のようなものです。

小さなものですが、イエス様と共にあるとき。それはいのちと力があるのです。あんなに小さかったからし種が鳥が来て巣を作るほどの木に迄成長するのです。

13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、

13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

実は、明日、私の敬愛する上野芝キリスト教会の松本英子姉の告別式があります。95歳

私が前の教会を出て、太田多聞先生のアッシーみたいな感じで堺朝祷会に行くようになりました。その時におられたと思います。静かで穏やかで、それでいて凛とした信仰者でした。早くにご主人を亡くされてシングルマザーとして子供さんを育て、そして信仰に深く歩んでおられる方でした。私の事もすごく気にかけてくださりました。

私が三度目の神学校に行く時も、ずっと祈ってくれていて、暖かい心のこもった手作りの絵葉書をいただき、また手紙もいただき。サポートの献金もいただき。

卒業後もずっと祈ってくれていた方です。私にとって霊のお母さんはたくさんいますが、まさにそんな方でした。

ご高齢になってもまさに凛として堺朝祷会に来られていました。毎回お会いするのが楽しみでした。

私の思いは育麦教会の三枝さんみたいな方で、本当に素晴らしい信仰者でした。その方がコロナでお会いできなくなり、堺朝祷会再開後もお体が弱られて、お会いできず・・・いつかお会いしに行かなくてはと思っていましたが。突然召されたと聞き、もうびっくりして・・・残念で・・・

でも、寂しさはありますが・・・悲しいという思いはありません。ああ、まさに天の御国 イエス様の身元に行かれたんだなあ・・・長い間お疲れ様でした。ありがとうございました。また続けてお祈りください。という思いです。体調が悪くてもお一人暮らしをされていて、礼拝だけは出席されていて。最後の日曜日も礼拝に来られ。金曜日にご自宅で亡くなられたそうです。

松本さんのその信仰の歩みに多くの人が励まされ、助けられ。

祈られてきました。

小さなご婦人です。からし種のような方です。

詳しい事は明日告別式で聞くと思いますが、70年近くの信仰生活の中で、多くの人が松本さんの証しを通して救われたり、励まされました。

大きな、大きな木になられて、天に凱旋されたんだなあ・・・とこのみ言葉から示されました。

そんな信仰の歩みを私たちもさせていただきたいと願うものであります。

祈り

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