2023年7月9日
説教題「イエス様の招きに応えませんか?」
聖書箇所 マタイ11:16~19、25~30
マタ
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」
マタ
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
おはようございます。
暑い日々が続きます。私は先週、若干熱中症になったみたいです。
月曜日に朝から浜寺公園に行っていつものようにラジオ体操、ストレッチ、太極拳をして。その足で、郵便局行ったり、銀行周りをしました。ずっと歩いて行くのですが・・なんか暑いなあとは思いました。
その後、今引っ越しの準備でごみをリサイクルセンターに車で捨てに行って・・・・・。12時過ぎていたから昼ご飯を食べようと、ラーメン横綱に・・・・しっかり動いたからご褒美にランチを
ところが全く食欲がでません。全然食べられなくて・・・ほんの少し食べただけで残してしまいました。私にしたらこんなもったいない体験は始めてです。
食事もできずに、眠たくなって…水いっぱい飲んで家に帰って寝ました。
途中で、おなかが空いて・・・おかゆを作って食べました。一人暮らしの人は大変ですね。
とにかく寝てて・・・夜に娘が帰ってきて、いろいろOS1やゼリーや栄養剤を買ってきてくれて・・何とか落ち着きました。暑さには強いと思っていましたが。過信はダメですね。しばらくゆっくりさせてもらいました。
今日はもう大丈夫だと思います。
人間、ちょっと体調が悪いと‥気持ちも落ち込みますね・・・・
頭も回らなくて、いろんな手続きが失敗するし、意味がわかなないことがあるし・・・私の頭はどうなっているんだろうかと思いました。祈祷会のZOOMもうまくいかなかったし。なんか疲れてしまいました。
皆さんはいかがでしたか?
この一週間守られましたか?
今日の聖書日課のみ言葉は
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
です。
このみ言葉は よくキリスト教会の看板に非常によくかかっています。
このみ言葉を見て、教会に来て、救われたという人はものすごく多いと思います。教会に来るきっかけになった・・・疲れていて・・・いろんな重荷があって・・・・どこがで休ませてください・その思いで教会に来た人も多いです。
イエス様からの招きの言葉として大いに用いられているみ言葉です。
今日はこのみ言葉から教えていただきます。
まずこのみ言葉が語られた背景です。イエス様が福音を語るとき。
その前にはバプテスマのヨハネという人が神の国は近づいた悔い改めて福音を信じなさいと語りました。
バプテスマのヨハネは旧約聖書の律法も守り、非常にまじめな人。どち
らかというと禁欲的。断食をしたり・・・清貧に甘んじたり・・・修行僧みたいでした。
それを見てヨハネの語る福音を聞く人もありましたが・・・・・
多くの人はまじめすぎるヨハネを見て あれはおかしい・・・悪霊につかれているという人も多かったのです。
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、
そして今度はイエス様が来て、取税人や罪人と呼ばれる人。社会の見捨てられているような人々と一緒にいたら。一緒に食べたり、飲んだりしていたら。これもまたおかしいとイエス様を非難するのです。
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。
まじめに生きても・・・罪人たちに寄り添っても・・・どちらにしても多くの人は聞かなかっかのです。
福音に耳を傾けなかったのです。
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
これはたぶん子供たちのおままごとみたいなもの。結婚式のお祝いをしても、真剣には踊らなかった・・・お葬式ごっこをしても、本当のことではないから泣かなかった。悲しまなかった。
どこかそのことを真剣に聞こうとはしなかった。
預言者が、神様に遣わされてきた人が語っても…素直に聞かないで、あらさがしばかりをしている。そんな時代だというのです。
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。
たとえば私たちが一生懸命、福音を伝えても・・・そこに話の中心があるのではなくその人のあらさがしをしている。そんなことです。
ただ現実には人はみな疲れたり、苦しんだり、重荷を負ったりしているのではないでしょうか?
その現状があっても素直に話を聞かない。そして話のあらさがしをしている。本質を聞いていない。
そんな時代でした。今とも似ています。これはいつの時代もあることです。普遍的です。
イエス様の話は、この世の知恵者、賢いと思っている者には届かない。これは神様の方法でもあるのです。不思議なことに・・・神様は弱さを持った人に届く。そんなことは多いのです。
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
幼子に福音は語られたのです。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:26 そうです、父よ(天の父なる神様)。これがみこころにかなったことでした。(神様の方法でした)
11:27 すべてのものが(すべての者とは全人類、あなたも私もあなたの周りの人も全部です)、わたしの父から(イエス様の父なる神様から)、わたしに渡されています(イエス様に渡されています)。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
(すべての人が救いの対象ですが・・・・今イエス様の元に来るもの。イエス様の言葉を聞くもの。そのものに神様は現れるのです。)
そして有名なみ言葉に入ります。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
ここまでの背景を考えると。福音は語られているけれど…それを聞き逃す人は多い。せっかくの福音にあらさがしをする人は多い。すべての人に福音はあるのだが…十字架は有効なのだが・・・多くの人はそれを真剣に聞こうとはしないこともある。
実際は、いろんな問題があったとしても、それを神様の所にイエス様の
元に持ってこようとはしない。自分の力で解決しようとしている。
でもイエス様の言葉が届く人がいる。それは「疲れた人…重荷を負っている人・・・」であります。
自分が疲れた人。重荷を負っていると思う人こそ・・・
イエス様の声を聞くのです。イエス様の元に来れるのです。
宗教というのは心の弱い人がすることだ。とか、何か問題があるひとのためにあるんだ。と言われることがあります。
キリスト教会もそうです。
キリスト教会に行っていると言えば…何か問題があった?重荷になっていることがあった???疲れてしまっていたんですか?
問題のない人は教会にはいかないよ。という人があります。
私もそんな風に思っていた口ですが。これはある意味真実です。
教会に来る。イエス様を信じる。信仰を持つ。これは疲れた人。重荷を負っている人だからであります。
元気な人にはイエス様の言葉は届かないのであります。
マタ
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
自分が病人であることを自覚するものが医者の所に来るし
自分を疲れたもの。重荷を負っていると思うものがイエス様の所に来るのです。
逆に言えば・・・何かの事情で疲れてしまったり…いろんな重荷を負ってしまったり・・・・悩みや苦しみがあるという事は。
あなたの人生にとって益である。よかったことであります。なぜならそのことを通してあなたはイエス様と真実にお会いできるからです。
ここで言いたいことは、イエス様の元に来る方々は、みんなが疲れていたり、重荷を持っているからではありません。
例えば、クリスチャンホームの子は、生まれたときからイエス様の元に来ています。何にも悩みもなくてクリスチャンになった人もいます。
それもまた御心です。
ただ多くの人が疲れを覚えたり、重荷に苦しんだり…しています。そし
てその中でイエス様にお会いできる恵みに預かるのです。
人は、大なり小なり・・・疲れを覚えたり・・・重荷に苦しむことはあると信じます。
徳川家康も「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」と言っています。なんにも重荷のない人なんかはないと言えます。それゆえ今日のみ言葉 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
この言葉は、すべての人への言葉であります。
ただこの言葉に素直に聞き従うことができるように。神様があなたに試練や重荷を与えておられることはあると思います。それはあなたが神を知り、イエス様の救いに預かるチャンスであるのです。
イエス様の所へ来なさい。私があなたを休ませてあげます。と私たちに声をかけてくださっているんです。
皆さん、イエス様に出会う体験は違いますが、私の事を振り返ってみて・・このみ言葉に照らし合わせてみれば・・・・私はイエス様に休ませてもらおうと教会に来たのではないわ!と思っていましたが
私が教会に来たきっかけは、長女の出産の前。家内が妊娠中に大きな発作があり・・・・胎児の脳に酸素が十分行っていない可能性がある、赤ちゃんに障害があるかもしれませんと言われていました。
だからと言って神頼みで教会に来たのではありません。
その時は自分の力で何とかするから!と強気なことを言っていましたが。医者は可能性があると、今考えれば危険性を言っただけですが。私の心にはそれは大きくなって・・・その可能性は高い。とまでなっていました。表面上は心配していない顔をしていましたが。不安はありました。心に重荷をもっていた状態でした。
そんな時、たまたま教会に来て、偉そうな先生に頭に手を置いて祈られたとき・・・なんとも言えない安心感 平安 嬉しさがあったのです。まさにイエス様が私の心を休ませてくれたのだと思います。
その時はよくわかりませんでしたが。今回み言葉を学びながら、そうだったんだ私にもイエス様は声をかけてくださったんだと確信しました。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
このみ言葉は、私だけでなく、ここにおられる皆様にもいろんなケースを通じて語られておられるのです。
イエス様は私たちを招いておられるのです。イエス様の元に行くとき休
ませてくれるのです。平安を与えてくれるのです。
なぜか?
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
なぜ休ませてくれるのか?それが可能なのか?
私は心優しく イエス様はやさしいお方です。疲れているとき、ののしられたり、怒られたりしたら…とてもじゃないけどよけい疲れてしまいます。当時の宗教指導者たちは、その人に罪を責めて、ああしなさい。こうしなさい。律法を守りなさい。指導するばかりです。
私はへりくだっているから
イエス様はへりくだっておられる方です。
ピリ
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
私たちのためにへりくだられた方なのです。
私のくびきを負って
私のくびきとは何でしょうか。くびきとは牛とかが二頭で作業する時。ばらばらに動かないように。二頭の首にかけるものです。
こうすると勝手には動けません。
イエス様と共に同じくびきにかけられるのです。
イエス様が一緒にいてくださるのです。
私から学びなさい
そしてイエス様からいろんなことを学んでいくのです。
私はそれまではひとりで頑張っていました。でも家内とは別にそれ以上の存在で私と共に歩いてくださる。同じくびきを負ってくださる。
そしてイエス様からいろいろと教えてくださることができるようになったのです。
これは本当にうれしい事でした。感謝なことです。イエス様が共にいてくださるのです。もう40数年になりますが…こんな感謝なことはありません。
疲れて、重荷を負っていましたが それを機会にイエス様にお会いできました。最高の友、師、教師、救い主にお会いできたのです。
そうすれば魂にやすらぎが来ます。
今までの生き方が変わります。イエス様が共にいてくださるからです。
人生のパートナーが与えられます。
行く道を教えてくれます
共に泣き、ともに喜んでくださいます。まさに深い意味で魂に安らぎを与えられるのです。
いろんな問題、重荷はあってもイエス様の元に行く時休ませていただけるのです。
イエス様のくびきを負うなんて…面倒くさい・・・窮屈・・・
縛られた感じがする
そうではないのです
私たちは何かのくびきを負って生きているのです。
何もくびきを負っていない、全くのフリー、自由という人はいないはずです。何かのくびき。それはお金かもしれません。権威 人間関係
それが私たちを苦しめているときもあります。
イエス様は言われます
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
あとはこのみ言葉に信頼していくかどうかです。
あなたに招きの言葉は語られています。そして素晴らしい恵みも用意されています。
私は、お勧めします。イエス様の元に、招きに応えてください。
そこには十字架により、あなたの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様からの恵みがあります。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたし
のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
これはあなたへの招きの言葉であります。
喜んでイエス様の元に行きましょう。
祈り