2023年7月2日

説教題「あなたがたを受け入れるもの」

聖書箇所 マタイ10:40~42

10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

おはようございます。本日からゴスペルソングが変わりました。最初は慣れないと思いますが・・・「いのちの木」も随分体にしみこむほどになれました。今回の賛美もお一人一人に主の恵みが溢れる賛美となりますようにお祈りします。

礼拝の賛美も少しずつ増やしています。その中で今年はスクリーンに歌詞を映し出してもらっています。谷内山さんがパワーポイントで作ってくださり。瑠美ちゃんも操作をしてくださっていること感謝です。

その中で、谷内山さんは歌詞の意味ができるだけわかるように漢字で書いてくれ、また読めるようにフリガナを打ってくれています。

讃美歌は特に古い言葉が多いので。平仮名だけだとどういう意味か分からないときがあります。しかし、漢字で書いてくれていると、意味が分かりやすくって・・・・・今までぼーっと歌っていた讃美歌が、ああそういう意味だったのか・・・・。とハッとすること。感動することがあります。本当にありがたいです。皆さんもそんな体験はないですか。

今まで以上に讃美歌を歌う時に歌詞の意味に心を込めて賛美することができて感謝です。

賛美というものはひとりひとりの信仰を育ててくれます。また賛美によって力を与えてくれたり・・平安を与えてくれたり・・・心からの感謝をします。

長女が小さいころ、はしかの予防注射の副作用のような感じで重体にな

ったことがあります。私は夜勤で仕事中でしたが、事務所に帰ってきたらちょうど電話がかかり、長女が救急車で運ばれたとのこと。びっくりしていつも行っている産婦人科に車で行ったら・・・・うちでは手に負えないので救急車で大きな病院に移りましたとのこと。

まだ大阪になれていなかったし、大きな救急病院に行ったなんて聞いたら・・もう心が震えそうでした。泉大津で仕事をしていましたが。堺の清恵会病院という名を聞いて・・・ナビもないころ。とにかく必死で病院を捜しました。携帯電話もないころです。しかもあわててしまって財布も忘れていました。娘になんかあったらどうしよう。と不安になるものです。あわてて車を事故りそうです。

そんな時、なぜか聖歌が口から出てきました。「歌いつつ歩まん」という曲です。主にすがる我に悩みなし♪♪

聖歌の498番 教会で教えてもらっていたんです。

あれは本当に私の心を静めてくださいました。

落ち着くことができました。

讃美歌、聖歌ってそんなすごい力があるものです。

暗唱聖句と同じくらいの力です。

皆さんもいっぱい讃美歌を覚えて口ずさんで。主を賛美してください。

宗教改革の頃。1517年 中世のヨーロッパのキリスト教会では聖書は教会にしかありませんでした。しかもラテン語の聖書です。一般民衆は理解ができません。一般民衆は聖書の言葉を覚えていなかったのです。

当時のキリスト教会(今のカトリック教会)は国教になっていました。

生まれたらだれでもキリスト教徒になっているのです。

聖書の言葉を知らなくても、イエス様の十字架の救いを知らなくても、みんなキリスト教徒。

ですから、信仰は育っていませんでした。民衆は本当の救いはなにかも理解していなかったのです。

教会で主の祈りや使徒信条もしっかり教えられていない教職者がいっぱいいました。みな自国語では読めないラテン語の聖書で祈り・・・・教職者だけがわかっているという状態でした。

なんか今の日本の仏教にも似たところがあります。

日本では生まれたときから本人の信仰に関係なく仏教徒になっています。

内は真言宗、門徒です・・・・とか家の宗教があり、個人的には何にも教えを知らずに大きくなっていきます。

お寺に行ってもお経は難しい言葉で意味が分かりません。ラテン語の聖

書みたいです。勉強した人にだけわかります。中世にはラテン語はインテリ層だけに通用する言葉でした。民衆は誰もわかりません。しかも当時は聖書がみとめられた聖書はラテン語訳のものでした。

そしてそれを教えることもないのですから・・・・・一般民衆の信仰は弱いものでした。

教会は権威主義に陥り、大聖堂を建て、民衆の上に君臨していました。弱さのある人に寄り添うイエス様の姿とは程遠いものでした。

そんな時、聖書に戻ろうとした動き。まず自分たちの言葉で聖書を読もうとする働きが始まりました。それは当時のローマ教会からの迫害もありました。

その流れの中でルターは、神様の愛を再発見し 宗教改革が始まったのです。

すべての教えは聖書の中にある。完全にある。聖書こそが唯一の聖典。

聖書のみ

救いはイエスキリストの十字架の恵みによる。行いによるのではない。恵みによって救われる。

恵みのみ

それを導くのは、信じる信仰による

信仰のみ

その他の教会が与える、免罪符や、教会を通して与えようとする儀式は、一番大事なものではない。

聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ

これによって人は救われるのです。

神様の愛は、キリストの十字架にあらわされているのです。

ローマ教会の権威ではないのです。すべての人が愛されているのです。

と宗教改革が始まりました。

これには、戦いも多かった。何よりも一般民衆に信仰がなかった。何を信じていればいいのかがわからなかった。

ルターはその時讃美歌をたくさん作ったと言われます。

民衆はルターの作った讃美歌を賛美することによって信仰が守られていったのです。

今日賛美する讃美歌267番もその代表曲です。これは当時、ドイツで歌われていた民謡に歌詞をつけたものです。

例えばソーラン節にルターが替え歌のように歌詞をつけて人々の信仰を

育てたのです。

歌というのはその歌詞が大きなものです。歌詞に力があります。曲も確かに大事ですが・・・何より歌詞

神はわがやぐら わが強き盾 ♪

歌詞を読む

そしてこの賛美は大きな力となって

宗教改革のテーマソングのようになりました。

賛美によって人々は、神様の愛、イエス様の恵みを知り、信仰によって歩むことを学んだのです。

ですから賛美は、まさに暗唱聖句のような力を持っているのです。

先週は派遣された者への言葉という事でイエス様からの言葉でした。キリストの弟子として派遣されていくっていう事は厳しいこともあるんだなあ・・・。と思います。本当に大切な方を恐れなさい。

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

長崎26聖人の話をしました。たとえこの世のいのちが失われても・・・それはつかの間のいのち 永遠のいのちを支配される神様の方がどんなに大切か・・・と教えられました。

それにしても、その信仰の道は厳しいなあと・・・恐れるものです。

私なんかがイエス様について行けるのかと・・・・思ってしまいます。

でも大丈夫。そんなあなたの事をイエス様は知っていて・・・それでもあなたをこの世に遣わします。

あなたはたくさんの雀よりも優れたものです。あなたの事をずっと見守っていますよ。と言われるのです。

そんな励ましの中で私たちの世に遣わされていきます。

10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

生涯のテーマのような重大なみ言葉。私の十字架って何なんだろう??

それを負ってイエス様について行くってどんなことなんだろう?

自分のいのちを自分のものとしたものは・・・・とはどんなことなんだろう??

私のために自分のいのちを失うとはどんなことなんだろう?

ものすごく重いみ言葉です。

人それぞれに与えられている人生が違うので簡単に解説できないくらいの言葉です。

でも聖霊様がお一人一人にその答えを教えてくださると信じるのです。

自分の十字架とは何でしょう?

一般的な答えになるかもしれませんが・・・・

例えば、病気であるとか、障害であるとか・・貧乏な家に生まれたことであるとか・・・家庭環境が複雑であるとか・・・・

なにかマイナスのように見える事だけでなく。すごい裕福な家庭に生まれたとか・・・・家柄がすごいとか・・・金持ちすぎるとか・・・・運動神経がよすぎるとか・・・・

自分ではどうすることも出来ない。神様が備えられたこと。そんなことがあります。それもあなたの十字架と言えるでしょう。

神様があなたに与えられた困難、試練それもあなたの十字架です。それを負ってイエス様について行くのです。

それを捨てて身軽になってついて行くのではない。あなたに与えられた十字架を背負ってイエス様について行くのです。それがイエス様にふさわしいものだと言われます。

自分のいのちを自分のものとしたものとは・・・・自分だけが良ければいいという自己中心な考えでしょう。

それはいつかあなたのいのちを失うことになります。

私のために、イエス様のために・・・イエス様が愛した人のためにあなたのいのちを差し出す生き方。それはイエス様があなたを生かしてくれる道なのです。

自分の十字架を負ってイエス様について行く。

イエス様だって十字架にかかる前

ルカ

22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

と祈りました。まさに本心からの祈りです。

十字架の道はつらい道です。できたら避けたいです。でもこれが神様のみこころなら、私の思い、願い、すなわち自分のいのちを自分のものとすることではなく。

あなたの御心をなしてくださいと祈られました。

私たちの人生の中でも・・・きっと、自分のいのちを自分のものにする生き方か

イエス様のために自分の願いを捨て去る、ゆだねる生き方を決断する時があるでしょう。

そんな時、あなたのすべてをご存じであなたを愛して導いてくださるイエス様について行こうではないですか。

自分の十字架・・・・何なんでしょう???きっとあなたの十字架はあなたがわからせてくださるでしょう。

それはあなたしか負えない。あなたに特別な祝福の十字架なのです。

この大きなテーマを教えてくださりイエス様は弟子たちを町々に派遣します。私たちを今、現代の世界に派遣されます。

その最後の最後の言葉が今日の聖書日課です。

マタイ10:40~42 3節の短い言葉です。

11:1では

マタ

11:1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。

派遣する者たちへの注意が終わったのです。

3節 今日は短い聖書日課です。

長いと長いで説教は大変ですが。短いのもまた違った意味で大変です。ここからどんなお話をしようかと悩みました。(いつも悩んでいます・・・・。でもここにある神様の熱い思いをくみ取りたいのです)

10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決し

て報いに漏れることはありません。」

町々、村々に出かけて行って福音を伝えるとき。どこでも迫害や困難ばかりがあるのではないのです。あなたを受け入れてくれる人たちもいるのです。

その人たちの事です。

私はここを読みながら・・・・ちぐさのもりの人たちの事がまず頭に浮かびました。

最初にお会いしたころは、私はただのおっちゃんでちぐさのもりと関わっていました。こういう地域コミュニティーの働きは、無宗教というか宗教の関りを嫌います。

キリスト教だけでなく、学会やその他の宗教もお断りという感じでした。

でも長くお付き合いさせていただく中で、私がキリスト教の牧師だという事もわかるようになり・・・・私を皆さんが受け入れてくれるようになりました。全員がそうではないですが。

最近では牧師カフェも行って、聖書の言葉もしっかりとお話ししています。福音をストレートに語っています。

それでも皆さんが受け入れてくださっています。

イエス様を信じます。と信仰告白をする方はまだいないですが・・・まさに私を受け入れてくれています。

豊島さん。から最近では私を牧師としって「豊島先生」といってくださる方もあります。

そしてまさにキリストのゆえに私に良くしてくださいます。

そんな方がたくさん現れました。

わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

ここでは私の弟子だというので・・・イエス様の弟子だというので・・クリスチャンだというので…牧師だというので・・・・

この小さい者たちのひとりに。

ここでは私の事だと勝手に解釈。私に水いっぱいでも飲ませるなら。水

どころかたくさんの親切をしてくださっている人たちがいます。

その人は決して報いの漏れることはありません。

きっと神様の祝福があるのです。と言われます。

最近、ちぐさのもりの人たちはきっと神様の祝福があると思うのです。

報いというのはこんなことだと思うのです。

マタ

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに

告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

あなた方を受け入れるもの とは右にいた人たち。救われる人たちです。御国を継ぐ人たちです。

きっとそうなると信じるのですが。今、キリストの十字架の救いが完成した今、はっきりと救いに導かれるのは、

イエスキリスト十字架を自分の救いのために受け入れることで。その時恵みによって、人は罪ゆるされ、いのちを与えられのです。ここにいる皆さんにその恵みが与えられているのです。

でも今、日本ではその救いが、福音が知らない人たちがたくさんいます。その方々に福音を正しく伝えていきたいと願うのです。

それがわからなくてもあなた方を受け入れてくれている方々がいます。

確かにその方が報いに漏れることはないと書かれていますが

はっきりと福音を信じるとき。その救いは明確になる。

そのことをお伝えするのは私たちの使命なのです。

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