2023.7.16

聖書箇所 マタイ13:1~8 18~23

聖書題 弟子たちが種をまいても失望しないように

分解 1~4 道ばたに落ちた種

5~6 薄い岩地

7 いばら

8 よい地

18~23 答え合わせ

序論 今回の説教は種まきのたとえのお話です。この種まきのたとえの話の前にイエス様の周りでどのようなことが起こっていたかということをマタイの12章から見ていきたいと思います。12章の最初はイエス様の弟子たちがおなかが減ったので麦畑で穂を摘んで食べ始めた。とあります。この日が安息日であったことをパリサイ人や律法学者たちが指摘します。パリサイ人や律法学者といった人たちは安息日ということで人々を動きの取れないような縛りを与えていました。そしてイエス様に対しても人々と同じように縛ろうとしていました。この安息日問題がのちのイエス様が十字架におかかりになる導火線になります。しかし、イエス様は12:11~13「イエスは彼らに言われた。「あなたのうち、誰かが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら安息日によいことをすることは、ただしいのです。それからイエスはその人に、「手を伸ばしなさい。といわれた。彼が手を伸ばすと手は直って、もう一方の手と同じようになった」パリサイ人律法学者は安息日には働くことをしてはいけないという律法の縛りを最重要課題として解釈をして自分たちの立場を確立していきます。だから安息日に困っている人を目の当たりにしてもそれを助けるという選択肢がありません。安息日を守るということだけです。それどころか助けている人に対して裁きの対象として見てしまう困った立場に身を置くことになります。この聖書の箇所のようにイエス様は安息日の律法よりも人の手を直すということを優先したことによってパリサイ人律法学者と全く違う立場に立ったイエス様を見てこの人たちはイエス様を悪だという考えになってしまいます。そして、人々にこのように手を伸ばす奇蹟ということを通してイエス様は有名になっていたことに対してパリサイ人律法学者は「しるしを見せてくれ」といいます。しかしイエス様は12:39~41節「しかし、イエスは答えて言われた。「悪い姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが同様に、人の子も三日三晩地の中にいるからです。ニネべの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネべの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりまさったものがいるのです。そして

群衆がこのようなイエス様とパリサイ人律法学者のやりとりを見ていてイエス様についたらいいのかパリサイ人のほうについたらいいのかどうしたらよいか決めかねていました。だから、群衆ははっきりとしたこっちついたらいいとかあっちについたらいいとか態度をとらないのが得策だと考えます。聞こえのよい言葉でいうなら中立ということです。それに対して「わたしとともにいないものはわたしに反対し、わたしとともに集めないものは散らすのである」とイエス様はおっしゃられました。群衆はイエス様を一度は信じたのですがふわふわした立場で違う方に行ってしまうとかえって悪い状態になるとおっしゃられました。それが12:43~45節です。「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが見つかりません。そこで出てきた「自分の家に帰ろう」といって、帰ってみると、家はあいていて掃除してきちんとかたずいていました。そこで出かけて行って自分より悪い霊を七つ連れてきて、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなるとその人ののちの状態は、はじめよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」イエス様は群衆に警告をお与えになります。そして、イエス様は血のつながった血縁関係にあるお母さんや兄弟たちと弟子たちを比較します。12:49~50「それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行うものはだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」イエス様は家族関係というものを否定されたのではなく父なる神のみこころを行うことによって結ばれたいわば霊的な関係イエス様を中心とした関係が最も強固で確実で現実的な家族関係でイエス様を礎とした兄弟姉妹の関係にあることが大切だとおっしゃられました。そして「父なる神のみこころを行うことはこのイエス様を救い主として信じることです」。それから13章に入っていきたいと思います。

道ばたに落ちた種

マタイはこの13章で天国についての7つのたとえが記されています。種まきのたとえ、毒麦のたとえ、からしだねのたとえ、パンだねのたとえ、畑に隠された宝のようなもののたとえ、よい真珠を捜している商人のようなたとえ、最後は海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引網のようなたとえです。イエス様はしばしばたとえでお話になりました。たとえを使って語られる理由は①わかりやすく説明するため②大切なことがいつまでも印象深く思い出されるため③無神論者に対して摩擦を避けるため④霊的な事柄に対して盲目であった人にたいして一つのさばきとしてわざわざ隠すためです。今回は③以外のことが当てはまります。イエス様はこれから先に福音宣教に出るであろう弟子たちが必ずと言っていいほどに経験される失望感に終わる結果を説明されるために、日常どこにでもある種まきを例にとって語られました。弟子たちが人の心にまくべき種は神様の御言葉です。イエス様や弟子たちがする仕事の大部分は今日でも同様に御言葉の種をまくということです。そして御言葉の

種をまくという仕事をしていても全然身にならないことがたくさんあります。どうしてかということを日々思い悩むことがあることを経験した時に思い出して人の心の中や行動がどういったものかを考えて種をまいていくように原因を追究していきまた前を向いて前進していこうとするようにイエス様が導いてくださるたとえ話です。そして福音の宣教によって得られる結果はしばしば農夫がその種をまいて納める収穫に例えられます。農夫は種をまきます。13:3~4「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種をまく人が種まきに出かけた。まいているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。」昔イスラエルではどのような種のまき方をするかは想像ですけど一つ一つを土の中に入れずにバサーと投げるように巻いて雨が降ったり風が吹いたりすると土がかぶり芽を出すのではないかという想像です。農夫の手で空中散布をするようなことだから風に乗りあぜ道に飛んでいくというのが道ばたに落ちるということになります。あぜ道は日本でもそうですが人が歩いていき締め固まった状態で大変固いのでやわらかい土地に根を下ろすことができずに道ばたに転がってしまいます。鳥が来て食べられ人が踏みつけて種自体がつぶれてしまいます。結局その種は無駄になってしまいます。このかたい道といわれるものは人の心に例えると神様の御言葉によって謙遜な心に砕かれていない心、つまり、悔い改めによって福音を受け入れる準備ができていない心のことを言います。道ばたに残っている種は鳥つまり悪魔のさまざまな手段によって取り去られてしまうのです。そして時には旅人によってふみつけられるのです。

薄い岩地

13:5~6を読みますと「また別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日がのぼると、焼けて根がないために枯れてしまった。」とあります。また農夫がまいた種のうちのあるものはごくごく薄い土の岩地に落ちてしまいました。そこにはやわらかい土が少しだけあります。だから、その種は芽を出すことができます。しかし、なんといっても自分を支えるだけの根っこは固い岩がさえぎっていて根っこがしっかり張ることはできませんでした。そのために太陽が昇って薄い土の層から水分を奪ってしまうとたちまちその植物は枯れてしまいます。軽薄な人や感情的な人の心は、この岩地に例えることができるのです。そのような人たちは感情的にあおられ感激するとすぐに動かされて熱狂的になりますが心の中に深く御言葉の根が張ることを拒むのですべてが思い通りにいっているときだけ教会にとどまっていますが、やがて試練や困難人間関係にひびが入るとあえなく教会生活をやめてしまいます。ちなみにライフラインという言葉があります。水道電気、ガスのことです。お金がなくてこの3種類の支払いできないときにいちばん最後に止まるのは水道だといわれています。電気がなくても不自由ですが夜になると暗い中何とか生活できます。ガスがなければ冬は困りますが寒さを絶えれば何とか生活できます。しかし、水道を止められると生活することが困難になります。近くの

公衆のトイレに行って水をくむことしかできません。昼間なら人に見られてよからぬうわさが広がりかねません。植物にしても同じで水分を供給してくれる土が少なければ生きていくことができません。薄い岩地に落ちるということはその命は長くは続かないということになります。

いばら

13:7をお読みしますと「また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、塞いでしまった。」とあります。また農夫がまいた種のあるものは、いばらの生い茂ったところに落ちてしまいました。イエス様のお話を聞いていた人たちは、いばらが生えている土地に穀物を作ろうとすることがどんなにむつかしいことかを知っていました。雑草がまずは抜き取られないと役に立つ植物は育ちません。だから雑草を抜き取ってから役に立つ植物を植えます。ところが、いばらというのは普通の雑草どころではありません。実にしぶといし実に目障りで、実に難く何よりもとげがあり握ってしまうと痛いものです。私たちの仕事でも水路とか構造物を構築するのに草を刈ったりすることがあります。しかしその軽く差の中にほとんどの場合にいばらが潜んでいます。機械で伐採するときはいいのですがなたやかまで木や草を切るときは一番の強敵はいばらになります。だから伐採した日に風呂に入るといばらのとげで刺さった後がいっぱいあります。それだけ障害物になるのがいばらです。ましてや日本のいばらのとげの大きさは大きくても5mmぐらいですけどイエス様が十字架に御係になった時のいばらの冠などはとげだけで5cmぐらいあるようないばらのとげです。そんなとげを持ったいばらを当時は草刈り機もなく今みたいに切れの良い刃物があったと思えない時代にそのいばらを焼き払おうとしてもほとんど火が付きませんでした。だから農夫たちは手の付けようがありませんでした。だから、その中に落ちた種はいばらのために健全に成長することができないのです。私たちの心の中にある罪は信仰の芽が健全に成長しないようにふさいでしまういばらのようなものなのです。「世の思い煩い」「富の誘惑」とは、名誉、地位、成功、金銭、などの欲望や快楽のことでそうしたものによってせっかく出した信仰の芽を福音の芽を成長を止めてしまうのです。それだけ「世の思い煩い」とは自分と人を比較して今でいうポジティブとかネガティブとか勝手に考えて自分で一喜一憂していることです。自分も罪人です。そして、周りも罪人です。自分の罪は神様によって許されているので人の罪を赦せるようにイエス様に祈っていけたらと常々おもっています。

よい地

しかし、今まで紹介した道ばた、薄い岩地、いばらこの3か所に農夫のまいた種がすべて落ちるのではありません。農夫はその3か所をめがけて種をまいているのではなくよく耕かされた土地に種をまこうとしています。そしてその通りに耕かされた土地に落ちます。その種は芽を出します。そして、成長します。13:8「別の種はよい地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ん

だ」とあります。神の御言葉の種がまかれる時にも同じで、よく準備された心にまかれた種だけがその人を生まれかえらせて信仰の実を結ぶことができるのです。

13:1~2「その日イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると大勢の群衆がみもとに集まったので、イエスは船に移って腰を下ろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。」とあります。そして、大勢の前でこのたとえを話されました。そして13:9「耳のあるものは聞きなさい」この言葉は弟子たちだけを集めているようにおっしゃっています。そして弟子たちはイエス様の元にやって来て13:10~11「すると弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ彼らにたとえでお話になったのですか」イエスは答えて言われた。「あなた方には天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」ここでイエス様は弟子たちと群衆をはっきり区別したことをおっしゃっています。13:13イエス様が「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らはみてはいるが見ず、また悟ることもしないからです」彼らとは群衆のことです。14節「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。あなた方は確かに聞きはするが、決して悟らない。確かにみてはいるが決してわからないこの民の心は鈍くなりその耳は遠く、目はつぶっているからである。それは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることがないためである。12章でもイザヤの預言が出てきます。ここでイザヤについてお話ししたいと思います。このイザヤという旧約時代の預言者が書いたイザヤ書は聖書中にほかに類例を見ないほどの内容と表現力に満ちています。そして新約聖書の中に引用されている場合が旧約聖書の中で一番多い書がイザヤ書です。イザヤ書の構造は前半の1章から39章までと40章から66章までで旧約聖書39巻と新約聖書27巻と全く同じです。イザヤの父はアモツです。伝承によればアモツはユダの王(南イスラエル)アマツヤの兄弟であります。そしてアマツヤが生きているうちにウジヤに王権がバトンタッチされたのでウジヤ王とはいとこ関係になります。だから、直接王たちに助言や忠告を与えることができたといわれています。

開けなくていいです。イザヤ書の6:1を見ると「ウジヤ王が死んだ年に、わたしは高くあげられた王座に座しておられる主を見た。これが預言者イザヤの召命です。召命というのはこの時代はイエス様がまだ誕生していなかったために神様が直接その人に対して啓示とか幻を通して任命することです。そしてそれからヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王、さらにはマナセの王の時までの50年間預言者として活動していました。イザヤが預言者として活躍した時代は第二列王記15~21章を読んでもらえたら詳しく記してあります。

そして、そのメッセージはキリストの生涯が預言されています。キリストの誕生から十字架におかかりになるまでの間正確に預言されています。

13:16に戻りまして「しかし、あなた方の目は見ているから幸いです。また、あなた方の耳は聞いているから幸いです。まことにあなた方に告げます。多くの預言者

や義人たちが、あなた方の見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなた方の聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。イザヤも救い主が来られるのは神様からの啓示により確信していました。いろいろな預言者も救い主がいつ現れるのか心待ちにしていました。しかし、待望した救い主は偉大な預言者たちの前には姿を現すことはありませんでした。しかし、この13:16,17節で書かれている「あなたがた」とは弟子たちのことです。実際に救い主が現れてもイエス様がおっしゃった13節の「彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるがきかず、また悟ることもしないからです」やイザヤが言った「この民の心は鈍くなりその耳は遠く目はつぶっているからである。」と表現したのはみても聞いても信じない群衆のことを言っています。このような群衆の中に弟子たちはこれから福音という種をまかなければいけません。そんな人たちの中に入っていってその福音の種を受け入れて救われる人を目の当たりにしていけるのかそうでない人のいることがわかって自分を卑下するということをいやというほど知ることになります。また自分の力ではどうすることもできない人の心もあります。ある意味はそうです。しかし、どんな荒れ地でも有毒な化学物質が入っていなければ開墾して土壌を改善すれば、火山灰しかないのにサツマイモのようなおいしい食べ物が作れるようによい地にすればいいのです。道ばたや岩地やいばらの地でもよい地に変えることを実行していかなければいけません。しかしながら、人間の心の土地は非常に開墾しずらいものがあります。人間が開墾しようとしても、なお砕くことのできない大きな大きな罪という岩がそびえたっています。これを砕いて粉々にしてよい地にするには御言葉が聖霊さまを通して働くしかありません。私たちが御言葉という種をまきつづけるしかありません。そのような壁にぶつかったときに弟子たちはこの御言葉を思い出します。人の心は道ばたなのか、岩地なのか、いばらでふさがれている心の持ち主なのか、はたまた全く逆でよい地なのか、その判断で自分の行動が決まってきます。そしてその時はイエス様を思い出すときです。イエス様ならどういう行動をしたのだろうかどういう言動をしたのだろうかということを考えます。弟子たちがこの御言葉によって宣教活動に行き詰ったときに慰められた御言葉ような気がします。最後にこのたとえの答えを13:18~23節で語られています。このような答えのあるたとえの話はすぐ後の毒麦のたとえでもイエス様自身が答え合わせをされています。この答え合わせはこれからいろいろなところに出かけていく弟子にとってはかけがえのない財産になるのです。

先週の恵み

今回のたとえの話は種まきのたとえの話です。このたとえの話の最後にはイエス様が答えを語ってくださいました。もちろんのこと種をまく人は弟子たちであります。その時の種の飛んでいく行き先を人の心のありかとしてのイエス様のたとえの話で

す。道ばたとは道ばたに出た種は悪いものが来て、その人の心にまかれたものを奪っていきます。岩地にまかれるとは御言葉を聞くと喜んですぐ受け入れるが根が育たないために困難や迫害があるとすぐにつまずく人たちです。そしていばらの中にまかれるとはこの世のこころづかいと富の惑わしが御言葉をふせぐので実を結ばない人たちのことです。しかしよい地にまかれるとは御言葉を聞いて悟る人のことを言います。弟子たちが宣教につかれたときにイエス様のことを思い出して前を向いてまた前進しようと考えた御言葉のような気がします。

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