2023年6月25日

説教題「派遣される者へのことば」

聖書箇所 マタイ10:24~39

10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

おはようございます。

先週は金兄のメッセージでイエス様が人々をみて、羊飼いのいない羊のようであるのを憐れみ・・・・そこに少しでも届くように弟子たち(12使徒)を派遣したことを見ました。

今日の箇所は派遣する弟子たちへの言葉であります。

先週の説教とも重なりますが

イエス様は12使徒の派遣の前に注意点を話しています。

① 異邦人の所ではなくイスラエルに行きなさい。(10:5~6)

異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけ

ません。 10:6 イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

この当時は、救いはまずユダヤ人(割礼の民・選民)に向けられていました。

② 天の御国が近づいたとのべ伝えなさい。

10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

③ 必要以上のものを持たずに、神様に任せていきなさい。

10:9 胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

10:10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

④ 福音を伝える事は無理解、迫害もある。それはイエス様さえ体験している。その中でハトのように素直に、蛇のようにさとく歩みなさいと言われる。

10:16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

そんな注意がされている中で今日の聖書日課になります。すなわち今日

の箇所も遣わされる12使徒たちへの言葉です。それは現代の私たちへのイエス様からの言葉でもあります。

先週の説教の中で金兄が紹介してくださいましたが。12弟子のすべてがイエス様のために働き…多くは殉教しているという姿に心をゆすぶられました。

弟子というのはそこまでの覚悟がいるのか・・・・。とは思いましたが。弟子たちは喜びの中でイエス様の福音を伝えていった・・・死のうと思っていたのではなく結果としてそうなってしまった。という事だと考えます。悲壮感が先に出るのではなくイエス様から遣わされてその喜びの中での事。確かに厳しい現実もあったのです。

マタ

10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。

10:18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。

10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。

10:20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

こんなこともあります。どう話したらいいかは聖霊が教えてくださるのです。この機会は良き証しの場でもあるのです。

現代でも福音に生きることは難しいこともあります。

例話:安全祈願祭

聖書の時もそうですが、それまでの価値観と戦いになることは確かにあるのです。そこに問題、戦い、軋轢、何を第一にするかという事で肉親の間でさえすぐには理解できないこともあるのです。

マタ

10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

でも聖書はただただ戦って砕け散れとは言っていません。難しい時。逃れることもあってもいいと言われます。

マタ

10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

10:23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

そして今日の聖書日課です。

10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

これってどういう意味かな?と今まで思っていました。剣道などの事かなと考えると…確かに自分の先生を師ですが・・・それをいつか勝ることもあるわけです。師のようになれば十分って・・・自分の先生を追い抜くことはできません。追いつくだけで十分です。ってどういう事かなと不思議でしたが。

ここでは今からイエス様の代理としてイエス様に遣わされて出かけていく弟子たちへの言葉です。

だからここでの意味は、あなた方は気負わなくてもいいよ。頑張りすぎなくてもいいよ。師。ここではイエス様。イエス様に勝ることはないんだから・・・イエス様に少しでも近づけたらいいんです。イエス様を追い越すことなんかしなくていいですよ。という言葉です。ちょっと気が楽になりました。

私たちは主イエス様のしもべです。イエス様を模範にしていけばいい。

イエス様だって人々から非難されたりしているんです。だから私たちがイエス様のように非難されることは光栄なことだと思いなさい。

10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

ですからあなた方は迫害者を恐れて語らないでいるとしても、福音は隠しておくことはできません。

あなた方に与えられた福音を機会あるごとに語りなさい。

例話

私たちが本当に恐れなくてはならないのは迫害者なんかではない。

もし体を殺す人がいても・・・・それは私の体を殺す以上の事は出来ないのです。

もっと恐れなくてはいけない人を恐れなさい。

この言葉はすごい言葉です。

マタ

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

長崎26聖人の証し

長崎26聖人の証しもまさにここです。

日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。

厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として寺沢の申し出を断った。 とありました。

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

神を恐れなさい。たましいも体も支配されている方を恐れなさい。

わあ、神様ってそんなに恐ろしい方なんだ!!!と思わなくて大丈夫

神様はあなたを愛しておられます。あなたを心配してくださっています。

その方に目を向けなさい。

どれほどあなたを心配し、愛しておられるか

マタ

10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

1アサリオンとは当時の最小貨幣 当時の労働者の一日分の給料が1デナリ アサリオンは1/16デナリという事です。まあお安い値段です。

二羽の雀は1アサリオン まあ二束三文みたいな雀です。

そんな雀でも神様の御手の中にあるのです。あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また神様は私の髪の毛のかずさえも知っておられます。

これは初めて読んだときびっくりしました。当時はまだ髪の毛が多かったのでそんなこと、本当にわかるのかいな?と思いましたが。最近はわかるかも・・・と思います。冗談はさておいて神様は私たちの事は何でも知っている。お見通しです。という事です。

そして小さな雀さえ愛しておられる神様は、私たちの事をもっと大事にしてくださいます。だから恐れることはありません。

伝道に行って、迫害や非難があるかもしれません。でも神様はみんな知っておられます。そしてあなたの苦しみも、悩みも知っておられます。だから恐れないでいいですよ。と励まされるのです。

雀さえ大切にする神様。

神様はあなたの事をもっと大切に思っておられるんですよ。

大丈夫!!です。

10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

私たち自分がクリスチャンです。という事を大ぴらに言えないことってありますよね。自分がクリスチャンと証しすることが恥ずかしい。みんなと違うことが恥ずかしいという思いもあります。

私は、今は牧師ですから証しするのは当然ですし、恥ずかしくもありません。でも信徒の頃はいろんな葛藤がありました。いろいろと周りに気を遣ったり、忖度することも多いんです。

自分の立場で、ここでクリスチャンを宣言することはどうかな・・・・自分は何者でもないのに・・・下っ端なのに・・・

自分はできていないことがいっぱいあるのに・・・

私はイエス・キリストを信じています。イエス様は私の大好きな救い主です。という事が言いにくい立場や状況、そんなことがいっぱいあると思うんです。

でも最近その感覚を忘れてしまっているかもしれません。ですから皆さんが世にあっていろんな戦いをしていることに寄り添えてないかもしれませんと反省することもあります。

今日のみ言葉をもって、皆さんは世にあってしっかりクリスチャンですと証ししてください。と責めることに使ってしまうかもしれません。

でも聖書のみ言葉にこう書かれているという事は逆に、こういう人が多いという事でもあります。

言い出す機会を失ったり・・目立ちたくなかったり・・・恥ずかしかったり・・クリスチャンと言ったら何か白い目で見られないかと心配したり・・・そんな人が多いので、あえてイエス様はこんな注意をしているのでしょう。

人前で私の事を知らないという人。その代表は12使徒の代表みたいなペテロさんの身にも起こった事です。

人間にはそんな弱さもいっぱいあります。

例話

でもみ言葉に深く心を寄せて…このみ言葉から導かれてください。

恥ずかしくて言えなかった自分も…それはイエス様も知っておられます。でも勇気を振り絞って・・聖霊に導かれて・・・自分はクリスチャンですと証ししてみたら。不思議な平安と喜びがあります。

例え話 クラブでの聖歌を歌ったこと

私、昔、建設会社に勤めていました。そこは義理と純情と度胸と経験 みたいな男の世界でした。クリスチャンという人はいませんでした。愛とかいう言葉はほど遠い世界でした。景気のいいころでミナミのクラブにみんなで飲みに繰り出すこともありました。カラオケで歌います。私

は当時クリスチャンになったばかりで、お酒も辞めて、敬虔に生きようとしていました。ですから演歌なんかもやめて、歌は讃美歌だけ、読む本は聖書だけみたいなものでした。でも会社のみんなで行く宴会ではなかなかそんな証しはできません。恥ずかしいのもあるし。自分はまだ下っ端。偉そうにクリスチャンですと証しする勇気もありませんでした。でもその時、カラオケの順番って回ってくるんです。いやでした。クリスチャンになる前は宴会部長みたいに騒いでいたのですが・・・普通の歌も嫌だったんです。で、ある時、聖歌の十字架のかげにという歌詞を自分で印刷して、それを歌いました。当然伴奏があるわけでなく・・・アカペラで歌いました。クラブが一瞬、静寂・・どんびき・・・誰かがこれはなんだ・・グレゴリオ聖歌か・・・というひそひそ声 私は必至で歌いました。飲み屋の喧騒が静かになって・・・・誰かが「アーメン」と言ったりしてました。

私の上司の所長は。豊島、ようわかった。お前はクリスチャンなんやな。もうカラオケはあてんとくわ。と笑って言ってくれました。

思わぬ反響でした。それからは私がクリスチャン。変な奴だが結構信仰においては、一本筋が通っているとちょっと尊敬???認めてくれました。

イエス様が知っていてくださる。その喜びを体験するでしょう。失敗してもいいんです。失敗することから何かを得ていくんです。

今日の最後の言葉は弟子としての、まさに覚悟を語られます。

10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさ

わしい者ではありません。

10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

これからイエス様の使いとして町々に出かけていく、宣教の働きをする弟子たちに。それは今、生きている私たちにも語られていることです。

その時、一時的に家族とうまくいかないことも起こるかもしれません。

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

この言葉は難しい事だと思います。戦いや葛藤があると言えます。しかしイエス様を選ぶ。自分の思うままではなく、イエス様の願うままに生きる。それは自分を捨てるように見えるかもしれませんが・・・やがて本当のいのちを自分のものとするのです。

この証しは、私たちの生涯をかけた人生の中で・・・後から振り返って…ああそうだったなあと感謝することになるのです。途中ではよくわからないこともあります。でもイエス様を見上げて歩む道は喜びの道なのです。

小さな証ですが、私が献身した時。長男でしたが父、母を捨てました。障害を持った中で自分を育ててくれた父母を捨てたようになったことは本当につらかったです。イエス様を選んだことが苦しかった時もあります。

でもふと振り返れば・・・・私は最後は父母と一緒に過ごせました。父となんかは毎日毎日一緒に過ごさせていただきました。一時的に父母を捨てたようになったことも主が回復させてくださいました。

ここらはうまく説明できません。でも私の体験として、このみ言葉に深く深くアーメンと言えるのです。

10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

今日は弟子たちへの、イエス様の使徒として派遣される者たちへのイエス様からの言葉でした。それは現代の、今の私たちへの励ましのみ言葉でもあります。

あなたをこの世に遣わします。

でも一番覚えておいてください。

苦難や困難、非難もあるかもしれません。

イエス様もその体験をしました。

それでもあなた方を世に遣わします。

それはあなたを愛して導いてくださっているイエス様の恵みを、みんなに知ってほしいからです。何よりもあなたにイエス様からの恵みを知ってほしいからです。あなたはたくさんの雀より優れたものです。

あなたのためにイエス様は十字架の救いをなしてくださいました。

あなたに赦しといのちを与えてくださいました。

その喜びを、一方的な恵みでいただいた、このイエス様の恵みを、あなたもまたお伝えするために遣わされているのです。

祈り

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