2023年6月11日

説教題「罪人を招くために来られた主」

聖書箇所マタイ9:9~13 18~26

9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

おはようございます。

「取税人マタイの召命」の箇所です。

ここに出てくるマタイとはマタイ福音書を書いた12使徒のひとりです。

9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

そこを去ってという事から・・・

今日の聖書日課の先を読んでみます。

イエス様は福音宣教の旅に出ています。ガリラヤ地方を回っています。本拠地はガリラヤ湖の北側にあるカペナウムという町です。8章の後半ではそこから船に乗って向こう岸 ゲラサ人の地方に行き、墓場の中に住んでいた人を癒します。その男についていた悪霊を追い出し、近くで飼っていた豚に乗り移らせ・・・たくさんの豚がおぼれ死ぬという出来事があります。豚を買っているという事からこの地方は純粋なユダヤの国ではありません。神様から選ばれていると考えられていた選民とは違う

町です。

その劇的な変化の中で町の人々はイエス様を恐れ、ここから出ていってくださいと言います。

マタ

8:34 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。

イエス様はその地方を離れ、もう一度カペナウムに帰ってきます。

マタ

9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。

今日の出来事は自分の町 本拠地としているカペナウムの町での出来事です。

イエス様が帰ってこられ人々はイエス様の周りに群がります。その中で床のまま運ばれてきた中風の人が癒されます。別の福音書ではあまりの人の多さに四人の友人は屋上から屋根を破ってこの人をつり下ろしたとあります。そんな風にして彼は癒されました。

マタ

9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。

9:3 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。

9:4 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

9:7 すると、彼は起きて家に帰った。

9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。

イエス様のすばらしさに人々は感動しています。

そんな中で・・・そこを去って・・・イエス様は町の中にある収税所の

前を通るのです。

ここでマタイさんがイエス様に召し出されて弟子になるのですが・・・・マタイという人は12弟子のひとりで立派な偉い人であったかと考えそうですが。マタイの福音書はユダヤ人あてに書かれた福音書で、旧約聖書にも詳しく、相当賢い人が書かれたという思いを私はもっていました。

マタイは、自分は取税人だったという事を隠すことなくこの福音書で明らかにしているのです。

少しこの当時の取税人という人はどういう人かを説明します。

当時ユダヤの国は独立国ではなくローマ帝国の中にありました。一応ユダヤの国という形はとり、ガリラヤ地方は国主ヘロデアンティパスという人がいましたが、この国主はローマ帝国の許可を得ての者でした。まあ下請けの王様みたいなものです。ローマ帝国には税金を納めなくてはなりませんでした。

ローマ帝国は広大な土地ですから、自分たちで税金を集めることはしません。税金集めは、占領したその国に任せるんです。この地域ではユダヤの国に任せるんです。ユダヤの国はその税金をユダヤ人の中にいる者に請け負わせるんです。下請けの下請け、孫請けみたいなものです。

占領国ローマに収める税金なんか誰も納めたくありません。

ユダヤ人がユダヤの人から税金を取って占領国ローマへ納める。

誰もしたくないけれど・・・お金のために取税人になる人もいてるんです。

人から嫌われても、人の嫌がる仕事する人もこの世界にはいます。

私がやります。と取税人をする人がいるのです。

それは国民を裏切るような行為なので、売国奴、裏切り者という風に人々からは思われていました。 しかし、人からなんと言われようよ背に腹は代えられない。しかも取税人は役得もありました。例えば今年はこの地方で1億円の税金を集めてほしいとローマから要請があり。1億円で入札するみたいにして税金集めの権利をもらいます。

実際に取税人はローマ帝国の税金集めの権限を利用してあくどく税金を取り立てます。例えば4億円の税金を集めて、ローマに1億円払えば、それでOKなのです。彼らのあくどい税金集めの事は黙認されています。取税人はそこで3億円は自分たちのものになる。そんなからくりがありました。ですから多くの取税人は程度の差はあるでしょうが不正な税金取り立てもしていてお金は裕福でした。

まあお金はある。しかし、仕事は人々から軽蔑されている。

別のところで出てくるザアカイという人は取税人のかしらでありましたからそのもうけも莫大だったでしょう。

しかし、今日出てくるマタイさんは収税所で座っている。収税所というのは通行税を取るようなところ。人々から憎まれながらローマの手先となって通行税を取る。まあ現場の取税人。悪く言えば下っ端の取税人だったかもしれません。

9:10では取税人や罪人たちという表現がありますが。人々から悪い人間と思われている代表みたいな人なのです。

罪人たちとはこれまたひどい言い方ですが・・・社会から外れてしまい。律法を守ることはできず、また律法を守らず。神様の前に明らかな罪の生活をしている人たちです。その人たちと取税人が一緒にされている。そんな状況でした。

そんな仕事をしているマタイ。

彼の心はどんなだったんでしょう。

お金はあるかもしれないけれど空しかったかもしれない。

また取税人と言われても、いっぱい稼いでいたらそれでもプライドは保てたかもしれないけれど彼は取税人の中の下っ端。仕事でも不満もあったかも・・・。

彼はある意味人生の負け組だったかもしれません。

私、こんな彼の状況を想像してしまうんです。

彼もなりたくてなったんではないでしょう。人生にはいろんなことが起こります…どこかで歯車が狂ったのかもしれません。

生まれたときから、さあ私は取税人になろうとは思っていなかったと想像します。

そんな悶々とした思いで収税所に座っているときにイエス様が通られるのです。

カペナウムで今、人気絶頂のイエス様です。

マタイは見に行きたかったけれど仕事がありました。そんな彼の前を通られるイエス様

自分には関係もない方だと思っていたであろうマタイさん。

9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。

すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

マタイさんにイエス様から声がかかったのです。自分なんかなんの希望もないと思っていたかもしれないマタイさんにイエス様が声をかけてくださった。取税人とさげすまれている私に声をかけてくださった。

マタイさんは立ち上がってイエス様に従ったのです。

この状況・・・想像します。彼は嬉しかったんではないでしょうか?自分の集めるお金はローマに収められる・・・自分たちを占領している、自分たちの国を同法を苦しめているローマのために働いている自分。そんな彼のむなしさの中にイエス様は声をかけてくださったのです。

マタイはマタイ福音書6章で

6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

とイエス様の言葉を紹介していますが・・・取税人の彼は、このみ言葉とは正反対の生き方でした。神の国とその義どころか、自分の損得だけで生きていたのです。

そんな彼に今、自分にイエス様が新しい生き方を示してくださったのです。

この招きにマタイさんは従ったのです。イエス様はマタイさんの日々の悩みを知っておられました。そしてマタイさんに声をかけたのです。

これって私たちも同じように思います。

私たちも人に誇れるようなものではないでしょう。

マタイさんはイエス様に声をかけられたのが嬉しくて、イエス様を自宅に呼んで、大盤振る舞いをしました。たくさんの取税人仲間や罪人と呼ばれている…ある意味世間の鼻つまみ者のような人たちがいっぱい集まってきました。そしてイエス様とお会いして喜んでいるのです。

9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

ところがこれを見てパリサイ人たちが文句を言うのです。パリサイ人とは神様の教えをしっかり守って生きている人。律法を守って生きている人。まじめな人たちです。社会的な評判も地位もある人たちです。

何より自分こそは神様に愛されていると自負している人たちです。

その人たちが自分たちこそイエス様は声をかけてくれるはずなのに・・・・社会的に軽蔑されているような取税人、罪人にイエス様はな

ぜやさしいのか?私たちこそイエス様に声をかけていただけるものではないのか・・・・。イエス様あなたは何を考えておられるのですか?と怒るのです。

9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」

なぜイエス様は正しく生きている私たちを招かず。どう見ても正しくない 取税人や罪人たちを招き、一緒に食事をするのですか???と文句を言うのです。

自分たちこそ神様に招かれるものなのに・・・それにふさわしいものなのに・・・なぜイエス様はあんな人たちを招くのですか??と文句を言うのです。抗議をするのです。怒るのです。

自分たちはこんなに一生懸命神様を愛し、戒めを守り・・・正しく生きてきたのに。あんないい加減な、取税人、罪人 社会の負け組みたいな人を招くのですか??

というのです。

この言葉を聞いてイエス様は言われます。

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

これは何を言われているのでしょうか?

病気の自覚のある人は、治りたいと願い医者に行きます。でも自分は元気だ!病気ではないと思っている人は病院に行きません。

本当は病気であっても・・・本人が自覚していないとなかなか医者の所に行きません。

ここで医者が救い主だと考えます。自分の罪がわかり、自分の弱さがわかり、自分には本当に助けてくれる人が(救い主)が必要だ!!!と思うものは素直に救い主の所に行きます。イエス様の所に行きます。

しかし、自分は正しい。完全に正しくないかもしれないけれどあの人よりはまし。私は神の国に行けるんではないかな。私のようにまじめに生

きてきて、社会的にも成功して。いわば人生の勝ち組みたいになっている人。ここではパリサイ人の事をイエス様は言っています。

その人は病気ではないと思っている人が医者にかからないように。自分のための救い主を真剣に求めない。医者を必要としない。救い主を必要としないのです。それは自分の罪がわかっていないからです。

取税人のマタイさん。その他取税人仲間、罪人たちと言われている人はどうでしょう。

中には開き直っている人もいるかもしれませんが、まじめに人生を考える人ならば・・・悩んでいたでしょう。悲しんでいたでしょう。自分の今までの事を悲しんでいたでしょう。取税人として生きていくことのむなしさを覚えていたかもしれません。でもその立場からなかなか抜け出せないんです。

私は、このあたりは少し体験しましたからよくわかります。

今の状況から抜け出そうとしてもできないんです。難しいんです。

そして自分にはもう救いなんかはないんだとあきらめているかもしれません。しかし、イエス様はそんなマタイさんにところに来てくださったのです。私についてきなさいと言われたのです。

なんという恵みでしょうか。

でもそれに対して文句を言うのがパリサイ人。世間とか常識だと、この世の勝ち組みたいな人から救われる。取税人とか罪人と言われる人なんかに救いがあるはずがないという思いです。

しかし、イエス様はそうではないと言われるのです。

ここでパリサイ人が救われなくて、取税人や罪人が救われると言っているのではありません。パリサイ人も救われるでしょう。取税人や罪人の中に救われない人もあるでしょう。

大切なのは、自分が神様の前に罪人であるとの思いです。

取税人は自分の罪の前に、泣き、神様の憐れみを乞いました。

パリサイ人は自分には罪はない。自分は正しい。救い主さえいらない。自分は自分で救われるという傲慢な思いでした。

聖書にこんなたとえ話があります。

ルカ

18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

自分の病気を知り、その救いのために医者が(救い主)必要です。と取税人は祈ったのです。

これたぶん、必死の祈りです。ほかに助けはないのです。

パリサイ人たちには見下げられて・・・世間の風は冷たく彼はただただ胸をたたいて憐れみを乞うのです。

そんな人をイエス様は愛されているのです。なんと感謝なことでしょう。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

とはっきりと宣言されるのです。なんとありがたい事でしょう。

マタイさんだけではなく、あなたのために、私のためにイエス様は来てくださったのです。

取税人という仕事。そんな人も救われるのです。人々から罪人と言われている人。そんな人にもイエス様は来てくださるのです。

いや、もう自分でどうしようもない、ただただ主の憐れみにすがるしかないような者にイエス様は来てくださるのです。

逆に、どんなに立派なように見えても、自分は正しいと思うもの。そこには救い主は来てくれないのです。私は正しい人を招くために来たのではないと言われます。

これは、すべての人は罪を犯している。すべての人は罪人であると聖書ははっきりと言っているのに・・・それを認めず自分は正しいと思っている人にはイエス様もどうしようもないのです。

イエス様は自分の罪を認める者に救いを与えてくださるのです。

人は自分の罪を認めるよりも、自分の正しさを主張してしまうことが多いです。自分の失敗、弱さを認めてしまうことは恥ずかしい事のように

思ったりします。

神様の前に自分の弱さをさらけ出すよりも、神様、私はこんなにいいことをしました。とアッピールすること。誇ることの方をしてしまうことが多いです。

私は神様のためにこんなにたくさんの犠牲を払いました。いけにえをささげました。献金しました。奉仕しました。従いました。と自分を立派に見せようとすることが多いのではないでしょうか。

自分の失敗。弱さを認め 神様の前にでることを恥ずべきものと考えていないでしょうか。

そうではないのです。

51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

あなたの神様へのささげもの、いけにえ 自分の正しさを現そうとするもの ここでは全焼のいけにえ(これは何にも残さずにただただ神様に捧げるいけにえです)すごい信仰のように見えますが それは望みません。神様をそれを喜ばれません。なぜならそこには傲慢があるからです。

神様の喜ばれるのは 砕かれた例、砕かれた悔いた心です。私はあなたにふさわしくないものです。私の弱さを認めます。

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

取税人マタイは素直にイエス様に従いました。これは今の自分に与えられた最高の招きと決断したのでしょう。

18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

こんな祈りをささげる者を、神様は「ああ情けない!」とはさげすまな

いのです。

あなたのために私は来ましたよ。と声をかけられるのです。

どんな人でも救いはあるのです。

さあ、あなたも今日 このイエス様に従って行きましょう。

今週もイエス様から一方的な恵みをいただいて

積むの赦しと永遠のいのちをいただいて出かけていきましょう。

あなたの所にイエス様は来てくださったのです。

祈り

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