2023.5.28

説教箇所 ヨハネ7:37~39

説教題 いける水の川

分解 37 渇いている

38 いける水

39 御霊はまだ

序論 ヨハネの福音書を読んでいますとイエス様のおっしゃることを理解することがむつかしいと思われることが多々出てきます。正直にこの聖書が書かれてある時のBCからADにかわる時代に生きているとイエス様がおっしゃったことをたとえ話はみんなにわかるようにとか弟子たちにわかるようにとかその時代に生活しているところから話されたことが多いので話された対象の人にはすぐに理解されるように話されました。しかし渇いているとかいける水とかあなたたちは今は来れませんとかむつかしいことばがたくさん出てきます。今日は自分も含めて理解をするように勉強していきたいと思っています。私は建設業界に席を置いています。いろいろな工事があります。トンネル、橋、道路、数えるときりがありません。その中で経験のないことを口で説明されてもわからないことがあります。想像もできません。厳密にいうとわからないとか理解できないとかいうのは本当に想像ができないし理解できないものともう一つは想像ができるのに実際行動ができないというのは違う気がします。例えば100メートルの断崖絶壁に階段をつけるとしましょう。何の目的でどういう工法でどんな部材がいるかというのは経験者が率先して前に進めていかなければいけません。最初にこの聖書箇所を読んだときに理解も想像もできない自分がいました。しかし、神様は階段の一番下に大きな基礎を作って一段一段階段を積み上げて足場もそれに伴い一段一段積み上げて作りなさいと私におっしゃっている気がしました。それでは聖書に入っていきたいと思います。聖書日課の箇所をまず読みます。そしてその箇所の前後を読みます。特に前です。ヨハネの福音書は一つ一つの章が長いけど今回の聖書箇所はヨハネの7:37~39だから7章の一番前の7:1を見ると冒頭に「そののち」という言葉があります。そののちとはどういうことのあとかというところに心を奪われます。そして否が応でもまた前を見てしまいます。そこで6章を見ますと最初に5つのパンと2匹の魚の話が出てきます。イエス様はピリポに対して試して「どこからパンを買ってきてこの人々に食べさせようか」と質問します。試してということはイエス様は愛の人だからピリポに対してどういう答えが返ってくるか楽しみに弟子教育をされたと思われます。そしてみんなにパンと魚を食べてもらってからイエス様は弟子たちが乗っている船に湖の上を歩いていかれてその船に乗ります。次の日群衆がイエス様をカぺナウムまで追いかけてきます。その群衆に対してパンを食べて満腹したからだとおっしゃいます。そしてみんなに6:27「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働き

なさいそれこそ、人の子があなた方に与えるものです。その人の子を父すなわち神が認証されたからです。ここでいう人の子というのはイエス様のことです。イエス様は5つのパンと2匹の魚の奇蹟を通して人々のおなかを満たしました。しかし、おなかを満たすものではなく永遠のいのちをそのパンを通して与えるためでした。そしてその人の子というのは神様が認証されたというむつかしい言葉だけれど簡単に言うと神様がイエス様を通してなされたことでした。6:33「というのは神のパンは、天から下って来て、世に命を与えるものだからです。」35節「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、けっして渇くことがありません。」ここでイエス様自体がいのちのパンだとおっしゃっています。そして、そのあとイエス様は私の肉や血いう表現をしています。それをユダヤ人たちはどう解釈したのかというとイエス様のからだの肉を食べイエス様に流れている血を飲むという比喩的な表現をそのままに受け取っていました。そして多くの弟子たちはイエス様から離れていきました。しかしイエス様が選んだ12使徒たちは離れていきませんでした。しかしその時の一人は裏切り者がいるということをおっしゃられます。もちろん名前は公表しません。そんなことがあって7章に入っていきます。ヨハネがいうユダヤ人というのは本当に良い意味では使われていません。1節「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたのでユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。ユダヤというのはエルサレムのことです。2節に仮庵の祭りという言葉が出てきます。仮庵の祭りとは収穫祭とも呼ばれている。ユダヤ人の3大祭りのひとつで第7の月の15日から22日までの7日間のちに8日間になります。刈り入れが終わったその年の終わりにもたれすべての男は主の前に出るように定められていた。それはみんなが喜びの時だった。7日間毎日定められたいけにえが神殿でささげられた。そして8日目にはそうげんな集会がもたれ一頭の牡牛、一頭の牡羊、そして7頭の子羊がほふられる。これが祭りのクライマックスであります。この日が(8日目)が37節でいう「大いなる日」が8日目のことです。この祭りの時に水注ぎの儀式というのがあります。(シロアムの池から運び上げられた水が神殿の祭壇に注がれること)この水注ぎの儀式は豊かな収穫になくてはならない雨(日本でいう雨ごい)を神からの賜物として人々が理解していたことを意味している。7:7「世はあなた方を憎むことはできません。しかし、わたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことを証しするからです。」この世はイエス様の兄弟を憎むことはしません。しかし、イエス様を憎んでいる。なぜならイエス様はユダヤ人指導者がしていることを悪いと平気で指摘するからです。ここを見ると昔の預言者を思い出します。ダビデの前にいきあなたのしていることは悪いことだといったナタンやアハブに対立したエリヤといった預言者と同じような行動をしているイエス様です。それが22節からのことです。22節モーセはこのために割礼を与えました。

ただしそれはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。それであなた方は安息日にも割礼をほどこしています。もし人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、なんで私に腹を立てるのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。と安息日に人を助けるのにこのことはよいこととは違うことという風に決めるのはおかしいとユダヤ人たちをまともに批判しています。8節に「私の時」この言葉は十字架を意味しています。いつもイエス様の周りは賛否両論が存在します。ここも例にもれずに「良い人だ」という人と「群衆を惑わしている」という人たち2種類が存在しています。しかしユダヤ人がイエス様を殺したいほどにくんでいることはエルサレムの住人は知っていました。だから、イエス様について公然と語るものは一人もいなかった。とあります。そして、祭りの中ごろになってイエス様はエルサレムに登っていき宮の庭の目立つところで教えておられました。あんだけエルサレムに行くのを嫌がっていたのに祭りの半ばでみんなの前に堂々と出てこられて宮の庭で教えられました。このことを見たエルサレムの住民は度肝を抜かれてこう言いました。「この人は、彼ら(ユダヤ人)殺そうとしている人ですよ。見てみなさい、この人は公然と語っているのに彼らは(ユダヤ人)イエス様に何も言わない。ユダヤ人の議員たちはこの人がキリストだと本当に知ってしまったのだろうか」と思うようになりました。そして次に本当にこの人がキリストということがおこってきたけどその思いを打ち消してこう言います。「けれども私たちはこの人がどこから来たのかを知っている。しかし、キリストが来られるとき、それがどこから来たのかを知っている者は誰もいないのだ。」イエス様がどこから来たのかを知っている人たちはイエス様がガリラヤでお生まれになったと思われています。しかし聖書で予言されている救い主はダビデの町ベツレヘムでお生まれになると記されています。イエス様はベツレヘムでお生まれになりました。そんな群衆のあーでもないこーでもないという声を聴いていたイエス様は7:28~29「イエスは、宮で教えておられる時、大声をあげて言われた。「あなたがたは私を知っており、またわたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分できたかも知っています。しかし、わたしは自分できたのではありません。わたしをつかわした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしをつかわしたからです。」大声をあげて言われるということは本当に真実でみんなに聞こえるように大切な訴えたいことだったことです。そして、イエス様はご自分が天の父なる神様から出たもの、つまり神の御子であり、父なる神から遣わされて天からこの世に来たのだということを、はっきり主張しておられます。ですから人々はイエス様をとらえようとしたのです。それほどまでにイエス様の言葉は意表を突くものでした。そしてそのあとで「イエスの時はまだ来ていなかったからである。」とあります。十字架におかかりになる前にユダ

ヤ人に殺されるのは神様が止めたように思えます。しかしイエス様を信じる人は増えて行ったとあります。しかし、迫害の中にあるイエス様の教えと御業を見て信じたということですから、単にしるしを見て信じただけの信仰ではありません。困難を乗り越えて、イエス様が神様であること、および救い主であることを、素直に認めたのです。

渇いている

私たちは聖書という書物を道徳観のあふれる書物と考えている節があります。例えば聖書の中に「あなたの敵を愛しなさい」とか「右の頬を打つような者には左の頬も向けなさい」とかモーセの十戎に出てくる「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」といったみ言葉を取り上げてやっぱり聖書を道徳の書と少なからず考えています。道徳の書物ではありません。もちろんのこと不道徳な書物ではありません。聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立っています。この約という字は訳すという字ではなく「契約」の「約」から来ます。私たちは契約という言葉を聞くとむつかしい言葉でいう双務契約のことを言います。仕事でいうとこの仕事をあなたのところにしてもらいます。金額はいくらです。すると仕事をする業者はその金額ならお引き受けしましょう。と答えます。そして契約を交わします。しかし、その金額ではできないので違う会社をあたってくださいと答えれば契約にはなりません。両方が納得して交わす契約を双務契約といいます。もしも神様が私たちに対して契約を結ばれる時そのような納得するような契約を結ばれるとどうなるでしょうか?

私たち人間の不真実や不誠実になるためにその契約はたえず解消されなければいけません。私たちの行動、性格を知っておられる神様が真実にかけて、一方的な契約を立てられました。イエスキリストを十字架にかけられ贖いによる罪からの救いです。これは神様の深い恵みによるものです。この神様からの契約は「遺言といってもいいぐらいです」遺言は遺言をうけるように指定された人にとって不利なものは無効とされています。だから有利なもののみが有効とされています。ですから祝福の約束と同じです。聖書には宣言もあります。命令もあります。「神は愛です」というのは宣言です。「あなたの敵を愛しなさい」というのは命令です。宣言や命令とともに祝福の約束もたくさんあります。行きつくところは契約というのは神様からの契約であり祝福の約束です。そしてこの37節38節にはこの祝福の約束がイエス様自身により語られています。37節「さて祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。」「わたしを信じる者は聖書がいっているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」イエス様はさっきも言いましたがここも大声で語られました。

めったに出てこないイエス様の大声は7章で2回も出てきます。人を選ばずに大勢の前で大声で語るということはよっぽど大切なことでした。この仮庵の祭りの時にイスラエルの民たちはどういった格好でエルサレムに上ってくるかといいますと右

手で柳やしゅろの葉を持ち左でモスログというレモンやシトロンを持ちます。このような花や木をもって収穫を表してエルサレムにやってきます。彼らはまたこの時期に雨が降ると翌年は豊作になると考えられていました。このお祭りは水に関係がありました。ユダヤ教ではこのお祭りの最初の日に朗読する聖書の箇所はゼカリヤ書14章でした。そこにはこのように記されています。「その日にはエルサレムから湧水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ夏にも冬にもそれは流れる。」仮庵の祭りは水のお祭りでもありますがエルサレムへ来る巡礼の行列は、シロアムの池(ヨハネの9章で盲目の人の目を開けたところです)までやってきます。そのシロアムの池までやってくると一人の祭司がその水を汲んで一行はイザヤの預言である「あなたは喜びながら救いの泉から水をくむ」という聖句を合唱するのです。この行列はさらに続き神殿に行き祭壇の周りを一周します。ところが最後の日だけは祭壇の周りを7回めぐり「ホサナ」と歌います。仮庵の祭りはどうして水のお祭りかといいますと、イスラエルの民が荒野を旅していた間、食物がなくなった時には、マナを天から降らせて彼らを養い、水がなかった時には岩を裂いて水を出してくださった神の奇蹟の御業と関係があります。この事にならって神様が雨を降らせてくださるようにと祈るのです。彼らは詩編の78篇15~16を知っているからです。「荒野で岩を割り、深い水からのように豊かに飲ませられた。また岩から数々の流れを出し、水を川のように流された。このように農業の為の水を神様に祈り求めるお祭りの最後の日に「いける水」について語られました。「だれでも渇いているなら、私の元に来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っている通りにその人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。サマリヤの井戸で水を汲んでいる一人の婦人と話された時もそうでした。「だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」といわれました。水のお祭りにふさわしい話です。しかしイエス様は実際に水を例にとっているけれど本当の意味は霊的な水のことです。喉が渇いていて水が必要という意味ではなく心が渇いているという意味合いです。では、心が渇くということはどういうことでしょうか?私たちはみんな欲望や願望を持っています。欲望や願望それ自体は悪とは言えません。欲望や願望が満たされればそれで幸福になれると多くの人々は考えています。はたしてそうでしょうか。お金にしても、ものにしても、地位にしても、名誉にしても、そうしたものを手に入れ、欲望が満たされることによって、私たちの心は満足するでしょうか。私たち人間の現実は欲望が満たされた時でも魂がうえ渇いていることを感じるのではないですか。魂が渇くとは満ち足りていないことで私たち人間は、神様の形に似せて作られたとあります。だから神の身元に行くまでは満ち足りることがありません。神のみもとから離れて罪を犯している人間は自分の魂が満足するどころか不安と苦悩でおののいています。罪を犯した人はその罪に対する赦しを経験することをなくして魂の渇きがいやされることがありません。あなたが今渇いておられるならイエスキリストの身元に来ればいい

のです。キリストの身元に来るとは単純に信頼することです。「飲む」とは信じることです。キリストが私たちの魂の渇きをいやしてくださる力を持っておられること、罪を赦してくださり心に平安を与えてくださることを信じるのです。その時わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とイエス様が約束したとおりのことがおこります。イエス様を信じる人は渇きがいやされるだけでなく、ほかの人をうるおす祝福の泉となることができます。このことを説明してヨハネは次のように言っています。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」ということは私たちがキリストを信じるとき、私たちの心から生ける水の川が流れ出るのは聖霊の働きです。聖霊はキリストが十字架上で私たちの罪の贖いの死を遂げられた後復活して昇天された後降りられるということです。わたしたちは心に渇きを覚えてキリストのみもとに来て信じました。私たちを通して聖霊の神は生ける川の水が流れ出すように周囲の人を潤していくことを信じていきましょう

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