2023年4月9日 復活祭説教 豊島守

説教題「悲しみで終わらない」

聖書箇所

コロサイ人への手紙

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

福音書の日課箇所

ヨハ

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。

20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。

20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、

20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」

20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

イースターおめでとうございます。

本日はイースター礼拝にようこそお越しくださいました。

キリスト教会の礼拝になれていない方もあると思います。イースターって何だろうと思っている方もおられます。今日はキリスト教会の大切な、大切な話を聞いていただきたいと考えています。

「それは悲しみで終わらない、大逆転の物語です!!」

イエス様が復活された!

これは、私達が考える中で最大の大逆転と言えるでしょう。

絶体絶命の危機と言う言葉がありますが、例えば野球の試合を考えてみてください。6点リードされて9回裏ツーアウトと言う場面。もう誰もが、

勝てない・・・・。負けを覚悟すると言うか、負けた気分になっている時に、そこから怒涛の攻撃で7点取って大逆転サヨナラ勝ちという試合が記録には残っています。

これなんかもすごい大逆転ですね。

イエス様の十字架の出来事は、これ以上のものであると言えます。

弟子たちは、イエス様に信頼し、3年の間。この方を自分たちの師としてすべてを懸けてイエス様と共に歩んできました。

マタ

19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

このイエス様についていけばきっと素晴らしいものがいただける。幸せになれる。ペテロはそう考えたでしょう。他の弟子達も同じようなものでしょう。

現実的な何かのご利益と言うか、いいものをいただけると期待していたことはあったでしょう。

しかし、イエス様と寝食を共にして3年の日々を暮しているうちに、ご利益と言うよりももっと大切なもの。イエス様からの愛をいただき、彼らはイエス様に心の底からついて行こうと思っていたでしょう。

この方こそ私のついて行くべきかただ。と思ったのに違いありません。

人は自分のつらい時、厳しい時に愛を示してくれる人に対してはついていこうと思うのです。

ロマ

5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

私が若い頃、仕事で大きなミスをしたことがありました。計算間違いでした。2倍にしなければならないところを勘違いでそのままにしてしまい。材料を発注してしまいました。

しかも、加工もしてしまったので、製品としても強度不足で全部廃棄しなければなりません。それをそのまま使ってしまっては事故が起こってしまいます。

自分で気が付いて、どうしようと悩みました。夜も寝れないくらい・・・・。上司は非常に怖い人です。

悩みに悩んで、辞表を胸に入れて(今考えればオーバーな話ですが)、直

属の上司に話に行きました。

その上司は、笑って、よく言ってくれた、わしは、そのためにいるんだからと言って、一番の上司の所に行って、私のために謝ってくれました。私の失敗は咎めないで、頭を下げてくれていました。それを見た時、「ああ、私はこの人に一生ついていこう!」と思いました。

何があっても、この人のために頑張ろうと思いました。

人は正しさだけではついていきません。でも情け深い人のためには進んで死ぬ人もあるいはいるでしょう。と言う通りです。

ペテロたち弟子たちもイエス様と三年の生活の中で、そんな事がいっぱいあったはずです。このイエス様についていこう!

イエス様の愛に応えていこう!と思っていたはずです。

しかし、そのイエス様が、なんと歓喜の中でエルサレムの都に入られたその週に、ユダヤの宗教指導者たちの妬みによって、無実の罪で裁判にかけられ、あるはずもない十字架刑という最も残虐な死刑になるのです。

イエス様について、都に入った弟子たちにとってそれは大きな、大きなショックではなかったでしょうか。

ペテロを始め、イエス様について行くと宣言していた弟子たちは、ちりちりバラバラになって逃げていった。人々がイエス様を処刑にするのを見て、逃げていったのです。

そばにいたのは女性たちだったと言う記事は、危機にあたっての女性の強さを覚えます。

私も逃げた口かと思います。

心では、イエス様について行くと公言していながら、いざとなると自分可愛さのゆえに逃げてしまう。

10年ほど前にあった韓国の旅客船セオル号の沈没事故で、船長、一等航海士、機関長と言う船の幹部は一番に脱出したと言うニュースが流れていました。

うそ!そんな事があっていいの。一番最後まで残るべき人なのに・・・・と思いますが。

ここにも人間の弱さ、罪の傾向が表れていると思います。

とにかく、イエス様の十字架の処刑の前に使徒と呼ばれる弟子たちは逃げてしまった。

そこにどうしようもない人間の弱さを覚えます。

この当時「イエスをキリストと告白する者はすべて許さない。」という社会の大きな力の前に逃げていった弟子たちなのです。

イエス様が処刑されたその時、すべては終わったように見えました。

弟子たちは、自分たちが今度は逮捕、処刑になるのではと恐れていました。隠れていたと聖書には書いています。そんな中で、女たちはイエス様のお墓へ行くのです。

もうイエス様は死んでしまった・・・・・。自分たちの人生も終わってしまった。

そんな事態が起こっているのです。

しかし、神様の御技は、イエス様のただの死では終わらないのです。

万事休す・・・・。もう逆転のチャンスはない。そんな中でイエス様は復活されたのです。

野球の逆転の話を先にしましたが、9回ツーアウトから6点差をひっくり返した。それ以上の逆転劇がイエス様の復活なのです。

野球の記録を見ていたら、もっとすごい逆転劇がありました。

ツーアウト。ランナー1,3塁でバッターが空振り三振をするんです。まさに万事休す。

その時、ビデオを見ていると、ピッチャーのボールはワンバウンドでした。その球をバッタが振って三振するんです。

守っていた方は喜んでベンチへ帰ります。

その時、誰もいなくなったグラウンドで、三振したバッターが一塁、二塁と走り出すのです。ランナーもよくわからないようなかんじですが、ベンチの指示でわけのわからないような感じでホームまで帰ってきます。

誰がみても三振。スリーアウトチェンジだと思っていたんですが、

ワンバウンドのボールを三振したら、キャッチャーはそのボールを一塁に投げるか、バッターにタッチしなければアウトにはならないんです。それがルールだと言うことです。

誰もが、もう終わったと言う時に、一人グラウンドを回ったバッターはホームインが認められてスリーランホームランになったんです。

完全に終わったと思っていたら、そうではなかった大逆転があったのです。

女たちは、空の墓を見ました。

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

空の墓を見て女たちは急いで隠れていた弟子たちに伝えます。

ペテロとヨハネが走って見に行きます。この時は何のことかわかりません。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。

20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。

20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、

20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。

そしてヨハネは空の墓を見て、信じたとあります。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

今回ここを読みながらヨハネは何を信じたのだろうかと思います。イエス様の復活を信じたのでしょうか・・・・・。どうやらまだそこまでは至ってないようです。

人間と言うものはそうそう簡単に復活を信じ理解できることはできないと思います。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。

ヨハネは何を信じたのでしょう?

体がない事だけを信じたのだと言えます。弟子たちは家に帰ったのです。

何がどうなったのか・・・・・。わけのわからないまま・・・・家に帰ったのです。

ところがマリヤは家に帰らなかった。まだ泣いていた。

男たちは、わからないまま家に帰った・・・・・。復活は理解していなかった。どんなに語られても理解していなかった。常識的判断が優先した。

マリヤはとどまった。そして人類最初の復活のイエス様にお出会いする栄誉に浴するのです。

その次第はこうです。

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」

マリヤは喜びの中で弟子たちにこの事を告げるのです。

しかし弟子たちの反応はまだ冷ややかなものであったようです。

20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

弟子たちは、その話を聞いてもまだ復活の事は理解できていなかったのです。

ちなみに、次の節を読んでみますと。

ヨハ

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

弟子たちにとって、まだまだ復活のイエス様は理解できず、まさに負け試合。暗闇の中にいたのです。人はどんなに話で聞いても、自分でしっかりと受け止めるには段階があるように思います。信じられない事だからです。

聖書の時の弟子たちは、イエス様に実際にお会いする事によって確信を与えられます。

現代の私たちはどうでしょうか・・・・。

聖書に書かれている事がそれを信じる信仰によって確信が与えられるのですが、そこに聖霊様の働きが要るのです。

信じなかった者がイエス様の復活を信じ、それは自分たちが罪の中に負けて、滅ぶべき運命であったのが、私のために死んで蘇って下さったイエス様によって新しい命に生かされる事になったと言う大逆転を信じる事なのです。

これは神様が私たちに与えて下さる信仰。そこには聖霊の働きがあります。

復活を信じた私、それは今までとは違う人生の大逆転です。価値観も変わります。

死なれたキリストに会って生きる人生へと導かれるのです。

聖書日課の

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

イエス・キリストと共にあなたは死にました。滅ぶべきものだったからです。しかし、キリストがよみがえられた時、あなたもキリストと共によみ

がえり、新しい命を与えられたのです。

負けてしまった日々。もう勝てる事はないとあきらめていたような時。負け試合を覚悟していたような時。キリストはあなたのために、一緒に負けて死んでくださったのです。そしてあなたの負うべき罰を全部受けて下さり、蘇られたのです。その時私達も一緒によみがえり、新しい命に生かされているのです。

私たちの人生にも、もう負けてしまったように見える時があります。

悲しみの中に沈んでしまう時があります。

不思議な事ですが、神様は私達を試練と言うか、苦しみの中に入れられることが多いようです。幸せ絶頂の中で、信仰を持った人は意外と少ないようです。

苦しみの中でキリストを信じた人はたくさんいます。

119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

その時イエス様はあなたと一緒に死んでくださいました。そしてキリストがよみがえられたように私達も蘇らせてくださったのです。

そこでは私たちの価値観(何が一番大切か)と言うことが変わります。

3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

仙人のようにこの世を無視して生きよと言うのではありませんが、私達の思いは地上の事だけであくせくする。のではなく、天にあるものを想う心へと導かれるのです。

3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

私達の人生に、神様は大逆転を計画しておられます。

生まれた身分にも関係なく、能力にも関係なく・・・・・すべての人に神様の愛が注がれているのです。イースターの朝。弟子たちにはわかりませんでした。

深く沈んだ心の中で、おびえていました。

心の中にあったのは、イエス様と過ごした素晴らしい3年間の思い出だけだったかもしれません。もうあのすばらしい時は、なくなってしまった。と言う嘆きの中。まさに絶望の中でありました。

しかし、大逆転はすでに起こっているのです。

弟子たちが気が付かないだけ・・・・・。

私達にも、イエス様は死人の中からよみがえり、私達を新しい命へと導く用意をして下さっているのです。あなたの人生の大逆転はすでに完成しているのです。

あなたがそれを信じ受け入れる時、それは明らかになるのです。

三振振り逃げのビデオを見ましたが、監督が野球の塁を回れと指示しています。

本人は三振してしまった。負けてしまったというショックから、何がなんだかわかりません。

相手のチームは大喜びでベンチに帰っています。

その時、三振した人は、恐る恐る、無人のダイヤモンドを走っています。不安そうにベンチを見乍ら、もう負け試合の悲しみの中で走っていました。

でも3塁ぐらいまで来た時、明らかに元気に走っていました。自分が今どういう状況にあるのかがわかってきたみたいでした。

そしてホームインして。それは振り逃げホームランになったのです。

大逆転です。 私達も自分の力で大逆転をしたのではありません。サタンは私達を滅ぼし、大勝利の余韻に浸っているように見える時、私はまったく、三振しかできないような者であっても、イエス様の復活という神様のご計画は完了しているのです。

そして、その事を半信半疑、確信もないままに走っている者であっても、神様の恵みはイエス・キリストの復活と言う事実によって明らかにされているのです。

主を信じ。走り出しましょう。その人生の最後には、勝利を確信して力強い者とさせていただきましょう。

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