2023.4.23

聖書箇所 ルカ24:13~35

説教題 いのちのパンです

分解 13~16 弟子たちの目はさえぎられている

17~20 イスラエルを解放される方

21~24 姿がない

25~30 パンをとって

31~35 エルサレムに戻った二人

序論 「灯台下暗し」という言葉があります。灯台というものは海の近くにあり遠くの船からは暗い夜でも見えていて明るいものだという認識があります。しかし、いざ灯台の下に行ってみると夜は真っ暗で何も見えないのが現実です。意味合いとしては「人は身近なことには案外きずかない」ということを意味しています。人間は意識しないと多くの事柄に気づきません。一番典型的な例が病気です。私たちは体の調子が良くなければ自覚症状で熱っぽいとか体のどの部分が痛いとかちょっと動くと息切れがするとかいつもと違うと感じれば病院に行こうかと考えます。しかし、自覚症状がなければ病院に行こうかとかそんなことなど考えてもいません。すると体の臓器からがん細胞が発見されるという事態が起こってしまいます。早期の発見ならいいのですが手の施しようのないようなところまで進んでしまってからの発見は後悔ばかりです。私たちの救いも同じです。私たちがこの世で生きているうちにパラダイス行の切符を手にするかどうかでこの世での生き方で変わってきます。罪を背負って生きている私たち人間は2度死ぬといわれています。1度目の死はこの世から体を取り去られる死で、次は神様の裁きの座に送られてからの死の宣告です。しかし、クリスチャンと呼ばれている人たちは死というものに1度しか遭遇しません。この世からの死だけです。2度目の死はありません。この世からの死のあとの神様の裁きの座はありません。永遠のいのちのパラダイスに自動的に招待されます。このパラダイスに行くことのできる切符を手に入れることは一度目の死の前にこの世に生きているときにイエス様を信じるかどうかによって決定されることです。2度目の死があるかないかは救い主イエスキリストを神様として信じるかほかの神様を信じるかによって変わってきます(厳密にいうと無神論も自分を信じる神とするので)。今は恵みの時代と呼ばれています。イエス様を神様として礼拝して信じるだけでよいのです。イエス様が神様である

という復活劇を当時の人はどういう反応を示していたかを今日は見ていきたいと思います。それでは聖書に入っていきたいと思います。

弟子たちの目はさえぎられている

少し前の23:50「さてここに、ヨセフという議員の一人で立派な正しい人がいた」と書かれています。このヨセフという人がイエス様の十字架にかけられた後の遺体を引きとりに来ました。そしてだれも葬ったことのない岩に掘られた墓にイエス様を納められました。そしてガリラヤからイエス様と一緒に出てきた女たちはヨセフについていき墓とイエス様のからだの納められている様子を見届けて戻ってきて香料と香油を用意したとあります。安息日が明けると同時に待ち構えていたように女の人たちは香料をもって墓に行きます。24:2「見ると、石が墓からわきに転がしてあった。」大の男が何人もよってたかっても持ち上げないけないような大きな石がわきに転がされてあったということは、まだ番兵が来ていない時刻で女の人たちが押しても引いても動かない石を動かしたのはだれかということになります。復活のイエス様のからだなら通り抜けができるだろうと考えられるけど女の人たちが墓に入るために石をどかしておいたことはイエス様の彼女たちに対する愛が現れています。だから女の人が簡単に墓の中に入ることができました。しかし彼女たちが入ってみるとイエス様のからだはありません。女の人たちは当然のようにびっくりします。また何が何だかわかりません。すると「まばゆいばかりの衣を着た二人の人が女たちの近くに来た」とあります。その人たちが彼女たちに向かって口を開いて

言ったことは1,なぜ生きている方を死人の中で探すのですか。ということと2.よみがえられたのです。ということと3,24:7「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」こんなことがおこって何人いたかわからない女の人たちは全員でこのことを使徒たちに報告したのですがペテロとヨハネ以外は信用しなかったとあります。その日の午前中にこんなことがおこってから午後にもいろんなことがおこります。そして今日の聖書日課の箇所に入っていきたいと思います。

24:13「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートルあまり離れたエマオという村に行く途中であった。」とあります。イエス様が復活された日の午後、ふたりの弟子たちが

エマオという村に向かって歩いていました。道のりの距離は11キロぐらいでゆっくり歩いても3時間から4時間で帰れる距離です。あとで一緒だったイエス様をエマオの家に泊まるようにと無理やりお願いしているところからするとこの二人は夫婦ではないかと推測されます。そして夫の名前がクレオパではないかと。ここは開けてほしいんですけどヨハネの19:25「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた」とあります。この中のクロパ

というのがクレオパのことで索引のところを見てみると25のところにルカ24:18と書いています。そして、クレオパというのが夫の名前で妻の名前はマリヤで二人で過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムにきているときに、イエス様の十字架の死に出会ったように思います。エマオに帰る前にクロパの妻は午前中におそらくイエス様が葬られている墓に行ったと思われます。これはあくまでも私の想像ですが、そして午後に帰宅しようとしているとイエス様と出会うということになったのです。そして二人の弟子といわれることからイエス様を二人とも信じていたのです。そして二人はエルサレムからエマオの我が家に帰ろうとしていました。そして、彼らの話題はやっぱりイエス様のことで夢中になって二人は話していました。24:15「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近ずいて、彼らとともに道を歩いておられた。」そこにイエス様が近ずいてきて一緒に歩いていきます。16節「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」とあります。「目はさえぎられていて」というのはイエス様の姿がわからなくてなお二人の心の目も開いていない状態です。

イスラエルを解放される方

17節「イエスは彼らに言われた。「歩きながら二人ではなしあっているその話は、何のことですか。」すると二人は暗い顔つきになって、立ち止まった。」とあります。福音書を読んでいるとほとんどのところでイエスさまから話していることにきずかされます。私たちは自分が好意を持っている人に対しては自分から話します。しかし自分が好意の持っていない人には口を開こうとしません。しかしイエス様は自分から積極的に誰にでも話に行かれます。人に対しては分け隔てなく接しています。しかし、この二人はそのあと「暗い顔つきになって立ち止まった」とあります。なぜ暗い顔つきにな

ったかといいますとあまりにもびっくりしたからです。人はびっくりすると今風でいう凍り付くという言い方やフリーズするという言い方をします。日本語を英語にしただけですけど。いわば一瞬空気が止まるということです。びっくりして固まって次に表す行動ができないのです。だからこの二人は立ち止まりました。そして18節クレオパという方が答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけが知らなかったのですか。」イエス様が十字架に御かかりになったことがテレビもラジオもないときに地響きがするほどに大きな出来事で誰でも知っていることでした。19節イエス様が「どんなことですか。」と聞かれると二人は答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。20節「それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して死刑に定め、十字架につけたのです。21節「しかし、私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、そのことがあってから三日目になりますが、22節「また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、23節イエスのからだが見当たらないので、戻ってきました。そして御使いたちの幻を見たが御使いたちがイエスは生きておられると告げた、というのです。24節「それで仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女の言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかったというのです。」

21節に「イスラエルを贖ってくださるはずだ」という言葉が出てきます。19節に「神とすべての民の前で行いにもことばにも力のある預言者でした。」とあります。この二人がイエス様に対して思っていたことはイエス様は神様から力を与えられている。そしてそれを証拠にどんな人の前でも奇蹟やしるしを行うことができる。特別な人ということがわかっていることでこの方こそが旧約聖書に出てくる救い主ということを疑わなかったということです。だから弟子たちが隠れている暗い部屋にいました。しかし、この時代の救い主という言葉をユダヤ人の考えていることは救い主というのは王様ということが正解とされていました。旧約聖書にはいろいろな預言者が出てきます。エレミヤ、エゼキエル、イザヤ、ダニエル、エリヤこの人たちはイエス様以前の預言者です。神様からのお言葉をじかに聞きそして民たちや王様に言葉を選ばずに神様からおっ

しゃられた通りのことを語ります。命を狙われるのを覚悟して神様は厳しいことおっしゃるので神様からの言葉をダイレクトに語った人たちでした。このような人たちがユダヤ教の中で尊敬されないことはありません。しかし400年も預言者と呼ばれる人がいなかったからどんなに人々は待ったのかわかりません。そんな位置に力ある預言者としてイエス様はおられました。しかし、いつもついて回るのが人は救い主という方が自分たちの生活を守ってくれたりイスラエルという国を独立させたり目の前のことを助けてくれる救い主ということがユダヤ人たちの答えでした。ユダヤ人のむつかしい言葉でいうと政治的メシヤという考えです。しかし、神様はどれだけ苦しい民たちの生活や自分たちの生活を立て直してくださる現実的な王様より私たちすべての人間がみんなに共通して持っている罪ということから救うことを考えておられそのための救い主をお立てになりました。それがイエスキリストです。むつかしい言葉でいう霊的メシヤということです。

この時代の背景にあってユダヤ人の考え方はこの政治的メシヤと霊的メシヤの違いを切っても切り離せないようなことです。神様が考えていることと人が考えていることの違いです。しかし、この二人が自分たちが大好きだったイエス様が十字架の上で死なれたことによってどう考えたかというと自分たちの希望の星が死なれて絶望したわけです。しかしかたや妻のほうは墓に見に行ってイエス様がいないことを見ているのです。復活したことを聞いてクレオパは心が混乱しています。それは妻にも言えていることでその不思議な思いを率直に伝えました。復活したのだと。

パンをとって

そこでイエス様は25節「するとイエスは言われた。「ああおろかな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」26節「キリストは必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。27節「それからイエスは、モーセおよびすべての預言者から初めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに解き明かされた。」27節で救い主のことをイエス様のことを書いているところを最初から語られたとルカは書かれています。

それはキリストについて語られていてキリストは十字架につけられる、または苦しみを受ける、そして殺されます。それから復活するという箇所の説教を二人になさいました。このことから教えられ

るのはイエス様が十字架上で命を落とされたのは自分の罪の為だということをわからなければその復活もわからないということです。そしてイエス様が十字架での死や復活のことを目の当たりにしても深い失望と暗い顔しかできなかったことについて「ああ何というおろかな人たち」ということになります。十字架の死は私たち罪びとが背負っている罪をすべて肩代わりしてくださっていることで復活は神様が私たちの罪を肩代わりしたのが神様だということの証明です。だからそのことがわからなければ大好きなイエス様がなくなってもずーと暗い顔をしなければいけません。しかし、罪を肩代わりしているのが神様だと復活より知ると暗い顔ではなくて救い主という意味合いがわかってきて私の罪はイエス様が食べてくださったから次のステップに進もうという前向きな思考になります。このことから考えると十字架と復活は常に一枚のカードで裏表であります。ややこしい言い方してすみません。十字架と復活はペアです。どれか一つが欠けても成立しません。成立しないということは私たちの罪からの清めはないということです。

28節「彼らは目的の村に近ずいたが、イエスはまだ先に行きそうなご様子であった。」29節「そこで彼らが、「いっしょにお泊り下さい。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」といって無理に願ったので、イエスは彼らと一緒に泊まるために中に入られた。」とあります。そうしてイエス様の説教を聞いているうちに目的の村にたぶん自分たちの家だろうと思います。イエスさまかだれかはこの時はわからない人は先に行こうとしていました。しかし、彼らは無理やり家に泊まっていくように誘います。こうしてイエス様は彼らの家に入られていっしょに食事をすることになります。30節「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンをとって祝福し、裂いて彼らに渡された。」この二人が夫婦であるなら旅の疲れもあるのにクレオパの妻のマリヤが食事の支度をして食事をしようとするとクレオパのほうが食事の祈りをするものなのにどういうわけかこの見知らぬ人が祈りをささげています。するとどうでしょう、31節「それで彼らの目が開かれ、イエスだと分かった。するとイエスは見えなくなった。」とあります。私たちは月に一回聖餐式をします。イエス様の裂かれた御からだの象徴としてパンをいただきます。そして流された血潮の象徴として葡萄酒をいただきます。聖餐式はイエス様を信じている人を限定として行われます。この二人も弟子だったということはルカが記しています。

すると二人の目が開かれたとあります。それまではイエス様が十字架にかかって亡くなられたことで希望を失って暗い顔をして目はさえぎられているようでしたがこのパンを口にすると目が開かれと書かれてあります。心の中の何かがイエス様によって触れられたようです。すると二人の行動も顔色も変わってきます。

彼らはエルサレムからエマオへ行く途中イエス様と話をしたのにどうして声を聴いてもわからなかったのでしょうか。しかしこの二人と食事をしているとそれがどうしてわかったかと言ことは彼らの心を無理やり開いたのはイエス様だからです。ここで少しパンの話をしようと思います。開けなくていいのですがマタイの14章では5つのパンと2匹の魚の奇蹟を記した記事があります。最初に5つのパンをみんなに分ける前にイエス様は天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので弟子たちは群衆に配った。とあります。この5つのパンと2匹の魚の奇蹟の話はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書にのっている唯一の話です。イエス様は自分のからだをパンに例えてそのパンを割っても割ってもなお増えていくようにまずは弟子たちに最初のパンを与えられました。そしてヨハネの6章ではイエス様は「神のパンは天から下ってきて世に命を与えるものだからです。そしてイエス様は「私が命のパンです。私に来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも決して渇くことがありません。とおっしゃられました。信じるものです。この二人はイエス様と食事をするまでイエス様が復活したということを信じていなかったのです。いや信じられなかったのです。しかし、イエス様が命のパンを二人の目の前で裂いたときにはっきりとこのパンはイエス様の裂かれた御からだだということが分かったようでした。そしてイエス様は彼らには見えなくなった。ということです。私たちクリスチャンはイエス様を信じる前は処女のマリヤの懐妊なんて信じることができません。クリスチャンでない人にイエス様を生んだマリヤは処女だったよ。というと何をあほなことを言うとるんやと言い返されます。イエス様が十字架にかかって死なれたことから話を持っていき三日後に復活されたということを信じていない人に言うと何を寝ぼけたこと言うてるんやと言われます。人間の知識の域をはるかに超えていることです。しかし、私たちクリスチャンは処女が懐妊するということや死んだ人が生き返って天に上るということは見たこともなければ聞いたことがありません。しかし、信

じることができています。イエス様なら処女から生まれてもおかしくない、十字架にかかって死なれても三日後に復活して天に上ることはこの方なら十分にありうることだと確信しています。5つのパンを割った弟子たちは割ったら割った分だけ増えていくパンを見て気持ちが悪くなったかもしれません。しかし現実としてイエス様が祈りをささげて裂いたパンは夕暮れでもうすぐ日が暮れるというたかだか1時間ぐらいの間に5つのパンが男だけで5000人を満腹させるだけのパンに増え続けたことはおそらく弟子たちには肉眼でも見えるぐらいの増え方だったと思われます。この二人の前ではこのような増え方はしなかったけど命のパンを割ったときに本当のいのちが彼らの心に住み着いたようでした。

エルサレムに戻った二人

この二人の弟子たちはがっくりしてエマオにあるわが家へとぼとぼと歩いて帰りました。その失意の中にある人たちにイエス様は同行してくださるのです。いくら失望していても落胆していても主イエスはともにいてくださいます。それがイエス様です。心の中にイエス様や聖霊様がおられるというのはクリスチャン以外の人からすると信じがたいことです。しかし、私たちには寄り添ってくださるイエス様や聖霊様語られます。ですからこの夫婦のように無理に願ったのでとあります。このことが祝福の基となるようです。そしてこのいのちのパンをイエス様からうけとりたいものです

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