2023年4月2日 主の受難主日礼拝 説教

説教題「キリストのへりくだりによって」

聖書箇所 ピリピ人への手紙2章5~11節

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

平行聖書日課箇所

マタ

21:1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、

21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。

21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。

21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。

21:7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。

21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

21:10 こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。

21:11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。

おはようございます。

今日は枝の主日礼拝です。イエス様がロバの子に乗って、ユダヤの都 エルサレムに入城した日です。すでにユダヤの町々でたくさんの奇跡を行い、神の国は近づいたと語り、人々はイエス様をユダヤの国を再興して下さる人。

ローマ帝国の支配からユダヤを解放して下さる、王としてイエス様を熱狂的に歓迎しました。

21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

21:10 こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。

21:11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。

しかし、イエス様のお心は違っていました。イエス様はこの世の王としてユダヤの国を救うために来たのではなく。

罪のない神の子であるご自分が、罪に中にいる、どうしようもない人間を救うために神様の制定された十字架を受ける事でした。

私たちの罪が赦されるために、本当に正しい人が身代わりに私達の罪の罰を代わりに受けるために来てくださったのです。

イエス様はその事を分かっておられたのです。

Ⅰペテ

2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

そのために群集の歓喜の叫びの中を、ご自分に与えられた使命のために、エルサレムに入城された日なのです。今日賛美した讃美歌130番はそのことを歌った賛美です。

そしてこの一週間。

受難週と言われますが、この一週間。正確には、金曜日に十字架につけられ殺されるのです。受難の時なのです。

その打ち傷によって、私達は癒されたのです。

その十字架を覚える週。

それは誰かのためにではなく、あなたの隣の人のためではなく、私の為に死んでくださったのです。

その事を私たちは静かに、深く、覚える時とさせていただきましょう。

イエス・キリストの十字架は私の為であった。私はイエス様の十字架の死によって、すべての罪を赦され神様の前に全く正しい者とされているのです。

その恵みを覚える時・・・・・・。溢れる感謝が湧いてくるのです。

2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

受難週を覚えるために今日は福音書からではなく、使徒書の聖書日課から聖句を選びました。ピリピ2:5~11です。

今日の箇所は、私達の罪のためにイエス様が十字架にかかられた。それは神様ならば簡単にできたと言うことではないのです。

なぜなら、神の子であるイエス・キリストは、まぎれもなく完全に人間の子でもあったのです。

イエス・キリストは100%神様であり、100%人間であるのです。

キリストは、人間としての苦しみを受けられたのです。

ヘブル

4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は、この世で、お腹が空きました。飢えました。のどが渇きました。疲れる事もありました。泥のように眠られる時もありました。悲しまれました。泣きました。喜ばれました。イエス様は人間として、受肉(この世に生まれ)して、人間としてすべての経験をされたのです。

それは神の子だから、どんなことがあっても痛くもかゆくもないと言うような体験ではなかったのです。

私達と同じように生きて下さり、そしてその中で完全な人として生きたがゆえに、その死が私たちの身代わりの死。贖いの死と神様に認められたのです。

そのキリストの身代わりの死により私たちは義と認められたのです。

ただのいい人、立派な人ではできない事なのです。

旧約聖書の中で、人々を神様の前に立たせるために大祭司と言う方がありました。しかし、この大祭司であっても、まず自分の罪のために、まず自分自身が犠牲のささげものを毎回しなければ神様の前には出れなかったのです。

しかし完全なるイエス様は、違うのです。

ヘブル

7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

イエス・キリストの受難。十字架の赦しは、完全なる罪なき人であったイエス様が十字架にかかって死んでくださったことによって。ただ一度死んでくださったことにより、今も有効なのです。

ピリ

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

神様が神様のままでは、私達の罪は救えないのです。

イエス様は尊い神の子であられるのに人間と同じ姿を取られたのです。

私達の救いのためにご自分の位を捨てて、人間の汚れた世界に来てくださった

のです。それはクリスマスの恵みです。

神の子イエス様が、普通の人も経験しないような家畜小屋の飼い葉おけの中で、盛大な誕生パーティーもなく生まれて下さった。

神のあり方を捨てられないとは考えず

十字架の死にまで従われたのです。

十字架の死とは、決してきれいな死ではありません。神の子イエス様は、ののしられ、あざけられ、鞭打たれ、肉体的な苦しみはもちろん心をズタズタにされるような苦しみの中をも通られたのです。

そのような苦しみの中でもイエス様は私達のために祈って下さったのです。

ルカ

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

私は、この言葉を聞くたびに心が震えるのです。ここに私のような罪人に対するイエス様の愛が溢れて、その血汐が溢れて、私のようなものの赦しを祈って下さっているのです。

私はこの言葉に感激しました。

私も、イエス様のように人々の救いのために何かをさせていただきたい。イエス様のような、神の子であるのに人間の姿をとって歩まれたようなその歩みに感動しました。

私が献身した時。仕事を変わりました。それまでは、建設会社で監督として、まあえらそうに人々を使っていました。

しかし、どうしても残業とか転勤もある中で、神様中心の生活をするためには仕事を辞めて、生活のために仕事はするけれど、頭の中はいつも神様の事を考えて仕事ができるように。

体はきつくても残業がない仕事。

家の近くで。仕事が終わったら、教会に行って神様の働きが出来るように・・・・と考えて、

私は当時、泉大津市の公園を基地にして大きな下水道工事をしていました。

その時、公園の復元のために来ていた植木屋さんに仕事を頼みました。

土木工事で言えば、孫請け、ひ孫請けと言うような地方の業者さんです。

仕事の時は私が偉そうに指示をしていた植木屋さんです。でも社長さんの人柄に尊敬するところがあり、私はその社長さんに、献身をして神様のために働き

たい。ですから私を雇って下さいとお家に行って話しました。

植木屋さんは非常に格式高い老舗の植木屋さんでしてた。

社長さんはキリスト教の事はわからないけれど、私の真剣な様子に、何かを感じたらしく。OKしてくれました。

その時、「豊島君。植木屋の仕事はきついよ。今までスコップ1つまともに使ったことのないような、エリートコースの技術屋さんが出来るような仕事ではないよ。しかもうちの息子たちは、この間まで、豊島さん。豊島さんと言って命令されていたわけだから、その君が今度は息子たちの雇人になる。これはかなり人間的にはつらいよ。それでも行けるか」と言われました。

その時、私はイエス様のように生きたいと思っていましたから、この御言葉が心に浮かびました。

ピリ

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

ああこの体験が自分にもできると言う。不思議な高揚感がありました。神様が共におられるんだから大丈夫です。と答えていました。

神様が共におられますから・・・・と言う言葉は、社長さんには何故か共感を持ってもらえましたが、植木屋さんの実際の仕事をしている息子さん。長男さんと次男さんがいて、次男さんはそうでもなかったのですが、長男さんは、「私が神様が共にいる」と言った言葉が気に入らなかったようでした。

今まで、監督として俺らに命令していたものが。そのままで行けばいいのに、神様のために働くってなんや!

キリスト教とはなんや!と言うような感じが合って、別の職人さんと一緒に、かなり意識的に私をののしったり、馬鹿にしたりするのです。

その中で私は、意に介せず。「ああ。イエス様の苦しみを少しでも体験できているんだ・・・・」と平気な顔をするもんですから、余計にイライラするようでした。

でも、人間ってそんなに強いもんじゃあないですね。

最初は、下働きで、毎日毎日剪定のゴミを掃除するのが仕事でした。

汗びっしょり、ドロドロで仕事をしていました。それでもイエス様は神の御姿を捨てる事出来ないとは考えないで・・・・と思っていました。

ある時、木に登って剪定をする事になりました。

最初はヒマラヤスギと言う木でした。上に登って上から手ばさみで、チョキチョキと切って行くわけです。下でいる時はそんなにわかりませんでしたが・・・・。

上に登ると意外と木は細い・・・。体重のかけ方が悪いと。木がしなります。折れそうに思います。

その時、私は高所恐怖症であると言うことがわかりました。

もう怖くて・・・・、はさみでチョキチョキするには片手を離さなくてはなりません。

それができない・・・・。怖くて、しかもちょっと手を伸ばす動作もできない。

両手で木にしがみつくのが精いっぱい・・・・・。

そこを「何をしてるんや!」「手を離さんかい!」「そんなんじゃあ仕事にならんぞ」「どんくさい」と痛烈な声が飛ぶんです。

「お前の神様はどうしているや」「神様が共にいるんと違うんか」と言われるのです。

情けないけれど、怖くて自由に動けないのです。「お前の神様はどうしているんや」と言われる時は、本当につらかった。でもどうしようもない。木の上でぶるぶる震えているようなみじめな自分があったのです。

「くそ!世が世ならば(私が前の監督ならば)、私がこんなひどい言葉を投げかけられる事はないのに」とか思ったりした時。

また、この御言葉が浮かんできたのです。

ピリ

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は十字架の死にまで従われた。イエス様の十字架での苦しみは私なんかの比ではない。

イエス様はそれでも人間として仕える者の姿を取られた。自分を卑しくし、死

にまでも従われた・・・・・・。

この意味の深さが少しわかりました。私が頭で思うだけのような悲しみ苦しみではない。神の子が人間と同じようになって死にまで従うと言うことは何と言うことか・・・・。

私なんかには到底できません。私は、えらそうに言っていても木の上で震えているような者なのです。

こんな者のためにイエス様はののしられてもののしり返さず。「父よ彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているにかわからないのです」と祈られたのです。

その言葉が、私の心に響きました。

今、木の上でみじめに震えている私。ののしられて、何の反論もできないような私。

その私の為にもイエス様は十字架につかれ、今、私を嘲笑っている人たちのためにも、「父よ彼らをお赦し下さい」と祈られているのです。

イエス様の十字架のその愛の大きさに私は、涙が出そうになりました。嬉しくて涙が出そうになりました。こんなイエス様がやっぱり私と共にいて下さっていると言うことに嬉しくなりました。

そして、今、イエス様の苦しみのちょっとだけを分かったような気がしました。

それから、どうなったと思いますか・・・・。

私の高所恐怖症はそう簡単には治らないし、

息子さんのキリスト嫌いはそう簡単に変わらないし・・・・。

私の技術も早々は、進歩しないし・・・・・。

劇的な事は何にもないのです。

ただ、私の心にイエス様が私の為にここまでして死んでくださったと言う喜びはますます深くなったのです。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

ここには、神の位であったイエス様の究極の謙遜があります。ご自分の力をもっ

てすれば、十字架から降りる事も出来たでしょう。ののしる人々を裁く事も出来たでしょう。

しかし、イエス様は私の為に、その苦しみの中を十字架にまで従われたのです。

なんとすごい事でしょう。

なんと感謝な事でしょう。

そして私たちはそのイエス様と共にいる事ができるのです。

まさに神様が共にいて下さるのです。

私はプライドの高い者です。でもこのイエス様のへりくだりを覚えた時。喜びの中で、ちょっとだけ謙遜になれました。

「高くて怖いです!」「わあー!」「手、離せません!」と素直に叫んでいました。

植木屋さんは商売ですから、施主さんの手前もあります。

そんな素人に仕事をさせているのか。と思われても困ります。

人間。弱さを前面に出し、へりくだると、助け手も現れます。

私が突っ張っていたら、息子さんもさらに意地悪をしたかも知れませんが、案外いい人でした。いろいろとコツを教えてもらいました。

余りになれない事なので、厳しい事の方が多いのですが、いつもイエス様の事を想って感謝していました。

こいつは変な奴やと思われたかもしれません。

でも5年間、植木屋さんで働かせてもらいましたが、本当にいろいろと便宜を図ってくださいました。

なにが言いたいかというと、イエス様のこの十字架の死にまで従われたと言うのは、私達の想像を超えているのです。

頭で私たちが思う以上の厳しい事なのです。

しかし、その十字架の死にまで従われたイエス様の愛によって私たちは救われたのです。

なんの値打ちもない者が、このイエス様の恵みによって偉そうに生かされているのです。

その感謝を私たちはいつも覚えて歩ませていただくのです。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

私は、このイエス様の受難によって今、罪赦された。それは簡単な事ではない。神の子イエス様の死と言う、大いなる代償のゆえなのです。

こんな感謝な事はないのです。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

それほどまでにして、私達は、あなたは、神様に愛されているのです。

祈り

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