2023年3月3月26日 四旬節第5主日礼拝説教

説教題「神の素晴らしい御業」

聖書箇所 ヨハネ11:1~45

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」

11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」

11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」

11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」

11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。

11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。

11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。

11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。

11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。

11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。

11:30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。

11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足

もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

11:35 イエスは涙を流された。

11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

おはようございます。WBC 大谷選手の大活躍もあり、侍ジャパンが優勝しましたね。ずっと見ていました。感動しましたね。今日、この話をしていたら説教になりませんのでまた別の機会で。

さて三週連続で長い聖書日課の箇所となりました。

聖書朗読をしてもらおうか、短く一部分にしてもらおうかと考えました。説教の原稿を作る時、いつもA4 9枚ぐらいになります。10枚だと少し長い。ところが今回なんかは聖書箇所だけで3枚になります。

相当長いことがわかります。

しかし、ある本に書かれていた言葉で、私たちの礼拝の中で一番大切なのは神の言葉、聖書が朗読される時である。特に旧約聖書の時代などは聖書が朗読されることが一番の事。

説教はその説明に過ぎない。

聖書朗読が説教の前の軽い前座みたいで・・・・説教者が聖書を説明せずにじぶんの言いたいことを語り、それを聞くのが礼拝ではない。あくまで中心は神の言葉 聖書が朗読されることである。と言われていました。 そう考えると聖書朗読がいかに大切か。会衆はまさに神の言葉聖書を聞くために集まっているのであります。

となると今日も聖書日課の聖書の箇所は長いけれども全部読んでもらおうという結論になりました。順番だと愛美さんなので大丈夫と思っていましたら・・・本日はお休みという事がわかり。この長い聖書朗読をどうしようかと考えましたが。金兄に読んでもらうことにしました。

旧約聖書のネヘミヤ記にはイスラエル民族はバビロンという国に捕囚になっていて。やっと祖国に帰ってきます。そこで律法の書が読まれる様子が書かれています。

ネヘ

8:1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、【主】がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。

8:2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、

8:3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。

夜明けから真昼まで…どんなに長いか・・・それで嫌になったか??そうではないんですね

レビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。

8:8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。

8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがた

の神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。

聖書がはっきりと読まれ説明されるところでは民は泣くほどに感激したのです。それほど聖書の言葉そのものに力があると私は信じるのです。

さて、今日の聖書の背景ですが、先週イエス様がヨハネ9章で目が見えない人を見えるようにされました。そのことによってエルサレムでは大きな反響がありました。イエス様を神の子と認める人々と。イエス様を怪しい人。神の子を語る、不敬虔な人と考える人。そして多くの人たちはイエス様を不敬虔なものとみていました。

そんな中でイエス様が私と父とは一つです。と言います。これはすなわち私が神ですと言っていることです。

ヨハ

10:30 わたしと父とは一つです。」

10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

人々はイエス様を石打にしようとするのです。

その後もそんなことがあり

ヨハ

10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。

イエス様は彼ら エルサレムにいる宗教指導者たちから離れて過ごすのです。

ヨハ

10:40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。

10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。

10:42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。

このように都エルサレムからは距離を置いているイエス様のところに使いが来るのです。今日の聖書日課になります。

イエス様の愛されたマリヤとマルタの兄弟ラザロが重い病気だと告げら

れるのです。

11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

イエス様はこの報告に対してこんな答えをします。

11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

ラザロが病気 そして死んでしまう。それで終わるのではない。このことを通して神の栄光があらわされると宣言します。聞いた人はどういう事だろうと思うかもしれません。この時は、この言葉の意味は誰もわかりません。

11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

イエス様は、マルタとマリヤ、ラザロの兄弟たちを、この一家を愛しておられた。・・・・そのようなわけで・・・とは意味がつながりません。そのようなわけですぐにラザロのところに出かけられた。というならわかりますが・・・イエス様は、その場になおとどまられたのです。

とどまられた理由として

11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」

今、ユダヤ エルサレムに近いところに行くことは危険があったのです。

11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」

11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りか

らさましに行くのです。」

11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」

11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。

11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。

11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

ラザロにところへ行きましょうと言います。しかし、そこはイエス様にとっても身の危険があります。

この時、トマスが言います。

11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

私はこの個所が大好きです。

トマスというのは疑り深いトマスと言われ(復活のイエス様を私は信じないといった人です)あんまりいい印象はなかったのですが・・・

今日の箇所はかっこいいです。弟子たちが行くのを止めようとしている時に、先生イエス様が行くというなら私たちもついて行こう!主と一緒に死のうではないか!という信仰の覚悟を示すのです。

そんな覚悟をもって、エルサレム近くのベタニヤの村にやってきます。

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。もう仮死状態ではなく完全に死んでいたのです。

11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。イエス様を狙う人々がいるエルサレムとは目と鼻の先です。

11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。まだ若い兄弟ラザロの死はどんなにつらいでしょうか。若くなくてもつらいんですから

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。

11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエス様がいてくれたら死ななかったのに…今はもう何もできません・・・・そんな悲しみがあります。

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」もうラザロは死んだのですよ。

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

よく葬儀の時に読まれる聖書箇所です。この言葉の深い意味・・・ありがたみを自分の愛する人が死んだとき・・・深く吹かう思わされます。今は感謝であります。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

そして妹マリヤを呼びに行きます。

11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。

11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。

11:30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。

11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

愛する人が死んだときの悲しみは想像できます。どんなに永遠の命が約束されていても悲しくてたまりません。私の家内、父を最近見送りましたからその気持ちはよけいわかります。マリヤは悲しくて悲しくてた

まらなかったでしょう。イエス様はその思いに寄り添われます。

11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

11:35 イエスは涙を流された。

ここでイエス様は涙を流されたとあります。マリヤたちの悲しみに本当に寄り添っていてくださる姿です。イエス様が涙を流された・・・という記述は福音書でここだけです。

11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。

なんでもできるお方がラザロを助けることはできなかったのか・とケチをつける人もいたのです。

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

マルタはあわてて、もう4日もたっています。腐っています。と現実的な答えをします。

11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て

来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

なんと素晴らしい神の御業があったことでしょう。死んでしまっていたラザロが生き返ったのです。悲しみの中にいたマルタ、マリヤはどんなに喜んだことでしょう。

そしてここで行われた奇跡を見た人がたくさんイエス様を信じたのです。

まさにわがたましいは主をあがめます。今年の目標聖句のごとくです。死んでしまっていて悲しみの中にいた人々にラザロの生き返りという信じられない喜びが起こったのです。神様の御業に感謝します。大喜びです。

しかし、ラザロもやがて死ぬのです。生き返っても永遠にこの世の命があるわけではありません。先日WBCで日本が優勝しました。日本中が大喜びでした。まさに私たちの心は、喜びにあふれたのです。でもそれもいつか忘れられます。ずっと維持できません。

でもここでイエス様が語られた11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

このみ言葉は大いなる慰めです。私の家内も祈りも空しくこの世の命は終わりました。でも私を信じる者は死んでも生きるのです。との約束は残された私たちの大いなる喜びです。大いなる慰めです。ああイエス様を信じる者は、イエス様を救い主と信じる者はなんという平安があるかと感謝するのです。

私のたましいは、理性は、喜びの場面で主をあがめます。

そのうえで、私の霊は(霊とはたましいよりも、もっと深い心の中の中心にあるものです)わが救い主なる神を喜びたたえます。キリストの約束、恵み、その愛を喜びたたえるのです。イエスがなさったこと見て信じるものと。救い主イエス様を信じる事は、厳密には違います。

ここではラザロの復活によって多くの人がイエス様を信じたのです。

祈り

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