2023.3.19

説教箇所 ヨハネ9:1~41

説教題 自ら探してくださるイエス様

分解 1~7 目の見えない人に対して

8~12 目の見えない人に問いただす

13~22 目の見えない人の両親に問いただす

23~31 目の見えない人を見えるようにした

32~41 目の見えない人が見えるようになり見える人が盲目となる

序論 2021年に「恋です。」というドラマが放送していました。そのドラマは目の不自由な女の子と不良少年のラブストーリーを描いたドラマでした。日本のドラマはなぜか知らないけど女の子の方に障害があり男の子の方には障害がなく女の子の方がその障害があるためにわがままにふるまい男の子を困らせるドラマが主流でそんな物語でも感動してしまう自分がいます。その目の不自由な子は視力がはてしなくゼロに近いのですが光はわかるため色彩は識別できるのですがはっきりと人の顔の認識ができなくてテレビ上のことですがすべてがぼけて見えるという設定になっていました。その中で盲目の吉本芸人濱田祐太郎という芸人が出てきて目の見えない人がどういう生活を送っているかどういう行動をしているか外に出るとどういう不安が付きまとうのかいろいろ解説していることを聞いていると目の見えない人が世間でどういう戦いをしているかをわかりやすく解説していました。その中で「目は俺様だ」というセリフを言っていました。体の中の部分では目が王様と言っているのです。目というのはほとんどの場合一番先に物事と対面します。そして脳の中でこの物体が何かということを判別します。例えば私個人は食べ物の中でスイカはあまり得意ではないのでこれはスイカだと判別するとあまり食べたいという欲求がなくなります。逆にこれがイチゴだと勝手に手が伸びて食べようとしてしまいます。自分の心が食べたいか食べたくないかは一番最初の目というところで判断されています。これが鼻だと焼肉屋の近くを通るといいにおいがするという判断をしますが焼肉屋に入って私はメニューを見て得意でないレバーを頼むことはしません。つまり人はほとんどの場合目で見て次の行動に移るように目というものは人の行動の決定権を持っているといっても過言ではありません。だから「目は俺様だ」というように体のどの部分よりも王様として君臨し

ているわけです。だから真っ暗なところで何かわからないおいしいものを食べてもおいしさは半減します。その判断を人のからだは目に託されています。しかし、目の見えない人はこの判断を鼻や耳でしなければいけません。とてもやないんですけどまかないきれません。そのような中で生活しなければならなく判断しずらいところは不安で仕方ないというのは安易に想像ができます。いずれにしろ眼鏡をかけたとしても人の顔が判断できるということは自分の中で目というものが王様であることに間違いはなく、目が王様でない人の不自由さは目が見える人にとってはわからないことで心の不安と心の寂しさを覚えることになります。昭二さんもそんな目の見えないところで鼻と耳とか体全体でアンテナを張って戦ってきたんだと思えば私たちには絶対にわからない不安と隣り合わせだったと思われます。そんな生まれたときから目の見えない人をイエス様はかえりみられて目を治す方法を教えてあげます。それが安息日であったということをユダヤ人がどう対応したかということをこれから解き明かしていきたいと思います。

目の見えない人に対して

この聖書の部分9章の少し前の8章にこういう記事があります。姦淫の場でとらえられた女の人にパリサイ人たちや律法学者たちはその女の人を真ん中においてからモーセの律法ではこういう女を石打にするようにと命じていますと主張しました。しかし、イエス様は「あなた方の中で罪のない者が最初に石を投げなさい」とパリサイ人や律法学者におっしゃいました。彼らはそれを聞くと年長者たちから始めて一人一人石も投げずに出て行きイエス様が一人だけ残されました。女の人もそこに残されたとあります。ユダヤ人はユダヤ教がベースになった考えをします。というのは人の罪というのは原罪からくるということを知っています。しかし、日本人は罪というものが原罪ではなく犯罪と同じであると宗教の知らない人は考えてしまいます。個人的には私はその場にいると石を投げませんが日本人にこの質問を投げかければ半分ぐらいは石を投げるだろうなぁと思いながら8章を読んで今回の9章に入ります。

9:1,2「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問していった。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」人間はいつでもこのような因果応報の考えをします。因果応報の意味はというとこんな悪いことをしたからこ

んな目にあったんやとかこんなによいことをしたからこんな良い報いがあったという考えです。今現在負っている苦しみや悩みは必ずその原因となりうることがあると思いこの原因である罪があるからでそのためにバチが当たったと思われることです。つまり過去になにがしらをしでかして原因なり理由なりをこじつけて説明したがるのです。それに対してイエス様は何と答えられたかといいますと9:3「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」このことは私が思ったことでこの目の見えない人が大人になるまで見えないという過酷な試練をこの人に課したと考えてしまいます。しかし、イエス様はこのことを通して過去に目を向けずに未来に目を向けることをこの箇所から教えてくださいました。そして、この盲目であった人に明るい未来がこれから来るであろうということを示唆している神様の栄光が現れる記事です。ちなみにミッションバラバという伝道集団があります。私の大好きなアーサーホーランド先生が立ち上げた伝道団体です。名前の由来はイエス様の十字架におかかりになることに代わって犯罪者のバラバが釈放されました。そのバラバがのちにイエス様によって改心されて神様の栄光を示す伝道者になったというあくまでも予測の元につけられた伝道団体の名前です。ですからどんなに大きな苦しみや悩みの中にあってもにげみちのようなトンネルを用意してくださることを期待すれば時間はかかるかもしれませんが益として変えてくださることを私たちは知っています。そんな時に与えられるみ言葉を一生大事にしていきたいものです。9:4,5「私たちは、私を遣わし方のわざを、昼の間に行わなければなりません。誰も働くことのできない夜が来ます。私が世にいる間、わたしは世の光です。」とあります。ここでまずは昼の間とあります。この世に人としておられたイエス様が神様のわざを通しておこないます。イエス様がこのしるしや奇蹟を行われたことが人々の目に移ります。それが世の光としてイエス様が君臨することです。しかしそのあとに夜という言葉が出てきます。イエス様は十字架におかかりになり死なれます。それがよるということです。しかしイエス様が死なれて光がなくなり真っ暗になるのかといいますとマタイ5:14イエス様は弟子たちに対して「あなた方は世界の光です。山の上にある町は隠れることができません」おっしゃられたように暗闇の夜になってもイエス様の弟子たちを通して光を反映させながら役割を果たしていかなけ

ればなりません。だから弟子たちに対して「世界の光です」とおっしゃられました。9:6,7「イエスはこう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を目の見えない人の目に塗って言われた。「行ってシロアム(訳していえば遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると見えるようになって、帰っていった。とあります。泥を作って目の中に塗ったとあります。普通に考えると泥の中には砂や土が混ざっていて眼球に傷がつきそうな感じで痛々しいようですがその痛々しい目で右も左もわからずにシロアムの池に歩いていき「洗いなさい」と命令されたことを素直に従った目の見えなかった人にイエス様からの癒しがありました。もう一度言います。素直に従ったことです。素直に従えなかった旧約聖書に出てくるアラムの国の将軍ナアマンのことを紹介します。

第二列王記5:1「アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士であったがツァラートに冒されていた。」神様はナアマンを祝福しアラムという国が戦いに行くと勝利に導いていたのです。しかし彼はツァラートに侵されていたとあります。ナアマンが勝ち戦の時に略奪したものと同時に若い娘をとらえて自分の妻に使えさしていました。

その若い女の人はナアマンの妻に進言します。「サマリヤにいる預言者のところに行けばご主人さまの病気はなおるでしょう」といいます。そしてアラムの王は優秀な将軍ナアマンの病気のことだからイスラエルの王様に手紙をお送りします。先週の説教で豊島先生が詳しいことをおっしゃったので簡単に説明します。当時のイスラエルは北王国と南王国があり二つに分かれていました。その北王国の首都がサマリヤで南王国の首都がエルサレムでした。北王国はイスラエル王国と呼ばれ南王国はユダ王国と呼ばれていました。そこでアラムの王から手紙をもらったイスラエルの王様は「私は神でないので病気を治すことができないので言いがかりをつけようとしているとケンカを売ってきていると」怒りを爆発させます。第二列王記5:8

「神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと(服を引き裂くとは怒りを爆発させること)王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば彼はイスラエルに

預言者がいることを知るでしょう。」そしてナアマンはアラムの国からサマリヤのエリシャのところにやってきます。エリシャがナアマンに言ったことは「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすればあなたのからだはもとどおりになってきよくなります。」しかしこの言葉を聞いたナアマンは怒って去りそして言った。エリシャが患部の上に手を置いて治してくれると思っていたからです。そこでナアマンについて行ったしもべが「エリシャはヨルダン川で身を洗って、きよくなりなさいといっただけではないですか」とナアマンに助言をします。そしてナアマンはこの言葉に冷静さを取り戻してエリシャの助言を聞き入れヨルダン川で7回水浴びをします。すると彼のからだは元通りになって幼子のからだのようになり、きよくなった。とあります。エリシャを通して語られた神の言葉に従うことにより病気はいやされるということです。エリシャはエリヤの弟子で私自身大好きな預言者です。そしてエリシャの記事は病気を治したことが多く語られています。

このことと同じでつばきで泥を作りそれを目に塗った後シロアムの池に行って洗うということは常識では理解しがたいことです。しかし、それに従ったときに目は見えるようになりました。

両親に問いただす

9:13,14「彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。ところでイエスが泥を作って彼の目をあけられたのは安息日であった。」

少し前まで目の見える人かどうかという押し問答が続いて答えが出せないようなのでなぜかわからないがこの目の見えなかった人をパリサイ人のところに連れて行って答えを出そうとしたのですが悪いことにその日は安息日でありました。だからこの日はイエス様を憎んでいるユダヤ人議会が大騒ぎをしたことは容易に想像できます。なぜなら安息日を破るという行為は律法に反しているからです。

このことについて二つの意見がありました。一つはユダヤ人議会の中のある人々は何が起こったのかを訪ねてそれがわかるとこう判断した。「その人は神からでたものではない。安息日を守らないからだ」というイエス様の神様の否定派の意見と罪人であるものにどうしてこのようなしるしを行うことができよう。」という神様としての肯定派の人たち。この肯定派の人の中にニコデモがいてそうな感じがすると思ったのは私だけでしょうか。なんにせよ神から出た

肯定派と否定派がいて話がもっとややこしくなっていきました。そこで9:17「そこで彼らはもう一度、目が見えなかった人に言った。「あの人が目を開けてくれたことで、あの人をなんだと思っているのか。」彼は言った。「あのかたは預言者です。」この預言者の意味は9:33「もしあのかたが神から出ておられるのでなかったら、何もできないはず。」

という意味合いで明らかに救い主ということを含んだ預言者という意味合いになります。しかし、人間の先入観というものは怖いもので信じていない人にとって認めたくはないという負のベクトルが付きまとうのです。そして信じていないユダヤ人たちはその目の見えなかった人の両親を呼び出します。9:19「この人はあなた方の息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それではどうして今見えるのですか。」20節「そこで両親は答えた。私たちはこれが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。」21節「しかし、どのようにして今見えるかは知りません。また、だれがあれの目を開けたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」目の見えなかった人の両親ははっきりと自分の息子で生まれつき目が見えなかったことを証言しています。22節「彼の両親がこういったのは、ユダヤ人を恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。」全人口のほとんど100パーセントに近いユダヤ教信者たちでユダヤ教の会堂から追放されるということはその町や村では生きてはいけない状況に追い込まれるのは火を見るより明らかで両親は逃げ腰になって答えていたのは明白です。しかしそれでも信じることができないユダヤ人議会の否定派はまた24節「そこで彼らは盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪びとであることを知っているのだ。」今度は強引にイエス様のことを罪人と定めて目の見えなかった人を尋問します。しかし彼はこう答えます。25節「彼は答えた。「あのかたが罪人かどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲目であったのに、今は見えるということです。」と現実に見えるという事実をユダヤ人の否定派に言いました。そして知らないことは知らないと答えています。そして知っていること、自分が体験したことを語っているのです。私たちのあかしもその通

りです。自分が体験していないことを話すのではなくイエス様が私たちにしてくださったことをありのままに言えばいいことです。イエス様を信じる前はこうであった。信じた後はこうであった。という風に言えばよいのです。この目の見えない人は以前は目が見えなかったのにシロアムの池で目を洗ったら見えたという事実だけのあかしです。

さて見えるようになった人が、自分が経験したことをはっきりといいますと彼らはなおもしつこく問いただします。9:26「そこで彼ら(否定的なユダヤ人)は言った。「あの人はおまえに、何をしたのか。どのようにしてその目を開けたのか」でも目が見えなかった人は9:27「彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなた方は聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなた方もあの方の弟子になりたいのですか。」と半ばあきれたように言いました。それにしても事実しか言っていない人は強いもので自分の親ですらこの息子のことをあれと呼んでいたのにこの目の見えなかった人はユダヤ人議会の地位の高い人たちを前にして明らかにあきれた表情で面と向かって話しています。この記事には証とともに勇敢な人が語っています。さらにこの人はユダヤ人議会の地位の高い否定派の人に言います。9:30~33「彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あのかたがどこから来られたのか、ご存じないという。しかし、あのかたは私の目をおあけになったのです。神は罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、その御心を行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」盲目に生まれついた者の目を開けたものがあるなどとは、昔から聞いたこともありません。」「もしあのかたが神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」こんなことを公衆の面前でユダヤ人議会の教師たちに言ったらこの人はどうなるのか簡単にわかります。しかしこんなことを言わせることができる勇気を与えてくださるのは神様から出たことに違いはありません。9:34「彼らは(ユダヤ人の否定派の人たち)答えて言った。「お前は、まったく罪の中に生まれていながら(目が見えないということを罪と定めている)、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。ユダヤ人の否定派の人たちはこの目の見えなかった人を追放します。この人の親がおそれていたことを目の見えなかった人に負わします。

するとイエス様は9:35「イエスは、彼らが(ユダヤ人の否定派

の人たち)が目の見えなかった人を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」この人が追放されていく当てもなくさまよっているところにイエス様ご自身が探し出してこの人に話しかけます。「人の子を信じますか。」と言って。

このことが「神に聞きしたがう」ということです。この目の見えなかった人は神に聞きしたがっているものでたとえ権威や権力に押さえつけられても恐れはありません。

9:38「彼は言った。主よわたしは信じます。」そして彼はイエスを拝した。イエス様と初めて会ったときは目が見えませんでした。だからイエス様が彼を見つけられたときにもうすでに彼の目には周りが見えていました。しかしイエスさまとは事実上初めてお目にかかるようなものです。しかし、この38節の信仰告白は立派なものでした。最初は泥を作って目に塗りシロアムの池に行きなさい。から始まり「あの方は預言者です」というようになります。そして「神から出ておられる方」と言い最後には「主よわたしは信じます」というように目の前のイエス様を礼拝していました。

彼は目が見えなくて物乞いをしていた時には知らなかったことを、彼は目が見えるようになってから知りました。彼が目が見えなくて物乞いをしていた時はせいぜい恵んでくれる人とそうでない人の区別はついたのだろうと思います。しかし彼の目が見えるようになると、世間は冷たいものだということがわかりだしました。人々は高見の見物をし、両親は逃げ腰で、宗教家は上からの目線で、みんながみんな冷たい人ばかりでした。しかし、イエス様だけは違いました。イエス様は彼をわざわざ探し出して彼のところに来てくださったのです。そして神様しかできないことで人間に光を与えるということを目の見えない人を選んで目をあけられて光を与えられました。

私たちの周りは自分も含めて罪ある人ばかりです。人ばかりを見ていれば冷たくていやな思いばかりします。しかし信じる私たちのそばには何時もイエス様がおられ聖霊様が水先案内人をしてくださることを忘れないようにと心に刻んでいる毎日です。

先週の恵み

目が見えないということは生きていて大変不便なことです。なぜなら私たち人間はほとんどの場合に目で見て初めてつぎの行動に移

すことになります。そんな目の見えない人に人々は自分の罪のためにまた両親の罪のためにその人の目が見えなくなったと仮定しています。しかし、イエス様ははっきりと自分の罪でもなく両親の罪のせいでもありません。「神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃられました。

そして、イエス様はこの人の目に泥を作って目に塗りました。そしてシロアムの池で洗いなさいとおっしゃられました。そして目の見えない人が素直にその通りのことをしました。すると目が見えるようになりました。そして一部始終を見ていた人々がユダヤ人議会の人たちのところに連れて行き事の成り行きを教えてもらおうとします。しかし、何回聞いてもユダヤ人議会の人たちは納得できずについにはその目の見えなかった人をユダヤ教の会堂から追放してしまいます。しかし、この目の見えなかった人は勇敢でユダヤ教議会の偉い人たちの中に入っても一人で立ち向かいます。結果人々から高みの見物をされ両親からは逃げ腰になられ、ユダヤ人議会からは追放され一人ぼっちになります。しかしそんな目の見えなかった人をイエス様はわざわざ探していき信仰告白を勝ち取りました。私たちも一人で寂しい時があると思います。しかし、イエス様はいつも私たちを探してくださることを忘れないようにしましょう

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