2023年2月26日 四旬節第一主日 説教

説教題「」

聖書箇所 マタイ4:1~11

4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、

4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

おはようございます。

四旬節第一主日です。先週はイエス様の変容されたお姿を見た、変容主日礼拝でした。

いよいよ教会歴はイエス様の十字架へと向かって行きます。

教会歴については

少なくとも一年間、忠実に教会生活をするならば、キリストの救いの御業と教会の使命についての重要な大筋を、聖書に即して、しかも礼拝体験を通して学ぶことができるように構成されているのが教会歴です。

そしてクリスマスから始まる半年をキリストの半年。その後の半年、ペンテコステ以降の半年を教会の半年とも言われます。

私たちは、聖書を通して毎年、その繰り返しの中で信仰を成長させていただいているのです。

キリストのみわざの一番大きなことは、十字架と復活でしょう。

その復活祭(イースター)は、毎年変わるのですが今年は4月9日になります。古来より教会はキリストの受難を覚えるために、復活祭の前40日間を四旬節(レント)といってその期間を過ごしています。

40日前の水曜日から、正確には日曜日は数えないので46日前の水曜日(今年は2月22日)を灰の水曜日と呼び四旬節が始まります。カトリック教会、ルーテル教会、その他伝統的なプロテスタント教会もこの教会歴に則っています。

このレントの期間は何よりも、世界の罪を担ってくださったキリストの苦しみと十字架の死が告知され、私たちの悔い改めと感謝の信仰が深められる時です。

聖書の箇所も、キリストの十字架を覚え、恵みが語られる時です。昔からカトリック教会などはこの期間に洗礼の準備をし、イースターに洗礼式を行う大切な期間として過ごしましたし・・・断食なども行われたようであります。

このレントの過ごし方についての祈りがありましたので、ご紹介したいと思います。

主にあって愛する兄弟姉妹。代々の教会は我らの主の苦難と復活を記念するこの期間を、深い献身の思いをこめて守ってきました。深い悔い改めと断食と祈りの時としてイースターに備えることが教会の習わしとなったのです。・・・・。

今日から始まる四旬節 イースターまでの期間をとりわけキリストの十字架を覚え、恵みを覚えるときとして過ごさせていただきましょう。

そして四旬節第一主日はイエス様の荒野の誘惑の箇所が朗読されてきました。

マタイ3章で、イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、イエス様の公生涯が始まります。

そして最初にあったことが、御霊に導かれて悪魔の試みを受けることでした。

今日の聖書日課はイエス様の荒野の誘惑

40日間の断食の中での悪魔の誘惑 おなかが空いているでしょう。イ

エス様。あなたは何でもできる方です。力があります。あなたの力を使ってこの石をパンになるように命じてみてはどうですか?

これは、神の力を、自分のために使うようにとの誘惑です。おなかが空いているではないですか??この時の誘惑の厳しさは、食事制限や断食をした人ならわかるでしょう。もう何もかも忘れておいしいものが食べたいのです。でもイエス様はご自分の使命を捨てられませんでした。

自分の力を使って石をパンにすることよりも、もっと大切なことがあると言われたのです。イエス様はみことばをもって悪魔に言いました。

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

私たちが生きるのはパンも確かに大切だが、それ以上に大切な神の口から出る一つ一つの言葉(すなわち聖書の言葉)による。

と悪魔を黙らせるのです。

4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

み言葉で悪魔を黙らせた悪魔は、今度は聖書の言葉を利用してイエス様を困らせます。悪魔は聖書の言葉を用いて、それを前後の脈絡を外して、本来の意味でないように使うのです。み言葉で人を、試す。誘惑するのです。

しかし、イエス様はその本質を突き、み言葉で悪魔の誘惑を撃退するのです。

4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、

4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

そして悪魔は次の誘惑をします。

それは、あなたにこの地上のすべて、栄耀栄華、権威も富も上げましょう。条件は一つだけです。私を拝むならです。よく悪魔に魂を売るとい

う言葉があります。悪魔に従うなら、この世の最高のぜいたくをさせてあげようと言われるのです。

4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

本来、神の子であり、何の苦しみも受ける必要もないイエス様が、私たちの罪の赦しのために、私たちの罪の罰の身代わりとなり。私たちに許しを与え、永遠の命を与えるために。こんな試練、誘惑と戦い、勝利してくださったのです。この後、イエス様はいよいよ公の生涯につかれるのです。

この中で特に教えられることは、

① イエス様は試練に会われた

ヘブル

2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

② イエス様はみことばで悪魔に勝利した。

エペ

6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。

6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによ

って、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

多くの武具は、防御のため 攻撃できるものは剣 それは御霊の与える剣(つるぎ)神の言葉なのです。

③ イエス様は誘惑に負けてしまう私たちにも同情してくださりまた救いをなしてくださる。

ヘブル

4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

こんなことを教えられますが今日は簡単な説明にとどめます。

さて四旬節の始まりは灰の水曜日と言いました。今年は2月22日でした。なぜ灰の日と呼ばれるかというと、聖書では深い悔い改め悲しみの象徴として灰が出てくるからです。

マタ

11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

悲しみの時に灰を被るということが出てきます。

今年の灰の水曜日は金さんのお母様(呉久美さま)の葬儀の時になりました。

少しそのことについて証しをさせていただきます。

教会の皆様もご存じのように金さんのお母様は危篤が続いていました。そしてその救いのために祈られてきました。しかし意識も回復しません。金さんはどんなに祈った事かと思います。

私も何かお手伝いができないかと考えましたが・・・お母様とは全く面識もなく、お父様ともありません。そして入院している中でコロナもあり、面会も出来ません。私のようなものが家族でもないのに会うことはできません。また金さんの妹さんは熱心なクリスチャンですし、教会も違うし、かかわっている先生も違いますので。私がお手伝いできること

はないと考えていました。私が司式をできたらいいなあとは少しは考えることもありましたが、お母様の信仰も確かめていないし・・・私の出る幕はないという事で、金さんのために心配し祈ってはいました。

そんな中で、お母様が2月18日召されました。家に帰りたいと願っておられたこともあり、ご主人が退院を要望し、自宅へ帰られてすぐにご家族に見守られて召されました。

お母様は典礼会館の葬儀の掛け金をしていたので、当初お父様は典礼会館で、仏教式で葬儀を考えておられました。その打ち合わせの中で金さんは、仏教式に平安がなく何とか私に司式してほしいと示されたそうです。

そしてうちの牧師に司式してもらうのはどうかと提案し、それでいいという事になったそうです。

これは金さんがいかに長男とは言え、勇気ある提案だと思います。私は金家に全く関りがなかったからです。

金さんに神様が臨んでくださり、そのことを話されたのではないかと想像します。

で、金さんから「母が召されました。司式をお願いします」という依頼がありました。

私はお母様に福音を語ってもいないし・・・・どんな信仰状態だったかわかりません。私が司式を引き受けるのは洗礼を受けている方。その方の信仰がお話しして救われていると確信があるときです。そうでないと牧師としてキリスト教式の葬儀をして、この方は天国に召されましたなどと簡単には言えません。

今井さんのご主人の時も悩みました。でもご主人といろいろと話、福音も語り、最後は認知もあり洗礼には至りませんでしたが、神様の憐れみで救われていると考えたからです。

金さんのお母様・・・・この場合は初めての体験でした。でも金さんの頼みもあり・・・人間的には引き受けてあげたい。しかし、厳密に牧師として正しいのか? だがここに神様のご計画があると信じて、もし間違っていたら牧師はやめないといけないかなあと思いながら司式を引き受けました。

最初の打ち合わせの時、妹さんから母は信仰告白もしたり、教会の礼拝にも出席していました。との話をきき。少し安心しました。

葬儀の打ち合わせの中で、いろいろ意見の違いもあり、もめることもある中で。会館での葬儀でなく、自宅で葬儀を行うことになりました。葬儀社も葉音工房さんに急遽決まりました。

不思議なことです。

ものすごい数、50人くらいの親族の中で、クリスチャンの方も10人くらいおられましたが。教会での葬儀ではないし、まあアウェイと言えばそうです。ご自宅での葬儀は初体験でしたので、葉音さんがいることはかなりの安心でした。これも不思議な恵みです。

金さんの信仰から始まって、ご自宅でたくさんの親族の前で福音が語られる素晴らしい機会ができました。

さて私の方ですが、召されたお母様の事を全く知らないのに、お母様の事を愛してお忙しい中、葬儀に参列してくださるご家族、ご親族の前で語らなければならないことは大変なプレッシャーです。私なりに打ち合わせからお別れ会の中まで、ずっとお宅にいて、皆さんからお話を聞いて、お母様を偲ぶ言葉を集めました。足りないことです。失礼があってはいけない。それよりなにより、お母様はもうすでに天国に行っていますと語ることに、かなり悩みました。告別式の説教は当日の朝まで推敲しました。

そんな中でお別れ会の中に来られていたクリスチャンの島さんという方から「お母様は洗礼を受けていましたよ」という話を聞きました。

実際確認までしてくださって2006年12月24日に日本基督教団 石津教会で洗礼を受けておられることがわかりました。

ご家族も金さんも誰も知らなかったというのが不思議なことでしたが。これは大きな喜びでした。

金さんなんか、お母様が召されたとき。最後に福音を語ってお母さんの救いを祈っていたのに・・・意識もない中、その機会がないままに召されてしまったので、悲しくて、悲しくて泣いたと言われていました。妹さんも、ほかの方も完全な救いの確信がなかったのですから大喜びです。

私もそれを聞いて大安心。ほっとしたというか・・・・うれしかったです。私たちの不信仰の中でも神様はすでに恵みを与えてくださっていたのです。

ですから大きな平安をいただいて、大勢のご親族の前で、大胆にお母様の信仰と救いを宣言し、その信じている福音を大胆に語ることができました。イエス・キリストを救い主として信じる者は神様の恵みと憐れみで、罪が赦され、永遠の命が約束されています。

ですから悲しみの中でもクリスチャンには天国の希望があるのです。またお会いできる永遠の命が約束されているのです。

今信じていない人もイエス様を救い主と信じるならば、やがて召されたお母様とも会えるのです。と語れました。

ご親族の中にはお金持ちの方や、社会的な地位のある方もおられます。

でもその時は、この小さな私が大胆にみ言葉を語ることができました。

と言っても私はその時語るのでなく、一言一句書いた完全原稿を読んで説教をしているのですが。その文章を書くときに力を与えられたのです。

ちょうど使徒の働きで、ペンテコステの後、人々が集まってきたときに、無学な漁師に過ぎなかったペテロが大胆に、み言葉を語った。そんなたいそうなことではないかもしれませんが。

まず、み言葉を語っても簡単には聞いてくれないであろう人々の前で、葬儀という事によって、故人のために皆が静かに聞いてくれる。そんな時間が持てたことは幸いでありました。

金家にとって大きな恵みの時であったと信じます。悲しみと寂しさの中にあっても・・・・

何よりもお母様の救いが確信できたこと。そしてキリストの福音が語られました。

ご自宅での葬儀ですから、なかなか難しいですが、飾りもお花も会場設営も葉音さんが素晴らしいセットをしてくれました。十字架が映えるように大きな十字架を持ってきてくれましたが、天井にあたるので、その場で20cmほど切ってくださいました。ご遺族の要望でお母様の大好きだった胡蝶蘭の花が大量に飾られました。こんなたくさんの胡蝶蘭は葉音さんも見たことがないと言われていました。ご家族の愛だと思います。

またキリスト教の葬儀には奏楽がいりますが。奏楽者がいません。

私が司式をする中で、大丈夫です。式はすべてお任せくださいと大見えを切って。

今回は輝美姉に全部録音してもらって。当日、いつも教会で使っているスピーカーにスマホから飛ばして奏楽を会場に響かせました。大丈夫かな・・・・と不安もありましたが。

今井さん時にもやった経験を生かして、今回はもっと進歩して、奏楽・皆さんの会衆賛美も出来ました。

骨上げを待っている間に、今日の奏楽どうでしたか?と伺うとある女性の方が、「私はピアノを弾くのだけど、讃美歌、歌う時、きれいなオルガンの音色が聞こえてきて、てっきり生演奏と思い。どこで引いておられるのかと奏楽者を捜しました。タイミングもぴったりでとても録音とは思いませんでした」と言われました。これは最大の誉め言葉でした。

会場ではお別れ会の時も含めて何回も讃美歌を歌いました。日ごろは歌ったことのない方々も大きな声で賛美してくださり。アーメンに声を

合わして祈ってくださり。

まさに神様が共におられると実感しました。

振り返って考えてみれば。お母様の危篤の話を聞いた時。こんなことになるとは思いもつきませんでした。

私たちの思いをはるかに超えて、神様が金さんを憐れみ、金さんを通して、またお母様を通してイエス様の証しをすることができました。

それは金さんが偉いのでもない・・・。私が偉いのでもない・・・何よりも私たちの救い主 イエス様が導いていてくださったんだと感謝するばかりです。

自分には信じられないことが起こった時。今年の目標聖句である

ルカ

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

が金さんにも実現したのだと思いました。

信じられないことが起こったのです。それゆえわがたましいは主をあがめます。

そんな喜び感謝ではありますが、その背後に私のような罪人に過ぎないものにこのような大きな恵みを与えてくださった。心に大きな平安を与えてくださった。私は何にもできていないのに神様の一方的な憐れみでしかないことが起こった。

まさにわが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえるという体験ではないでしょうか。

私も、牧師としてまさに同じでありました。

「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

教会の皆様にとっても同じではないでしょうか?

今年の目標聖句を一年の中で何回も体験させてもらえますように。個人個人が「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

という信仰の体験をできますようにと祈っていますが。このこともまさに神様の導きであると感謝するのです。

ここに集われている皆様にも神様は働いてくださいます。

これからもいろんな場面で「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

の祈りを、賛美をささげることができますようにと祈るのです。

イエス様の十字架の受難と復活を覚えて過ごす、四旬節のスタート 灰の水曜日にもたれた金さんのお母様の葬儀の中からの証しでした。

祈り

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