2023年1月8日 主の洗礼日主日 説教
説教題「洗礼から始まった」
聖書箇所マタイ3:13~17
3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
おはようございます。
先週1月1日は、私たちの教会の2023年の目標聖句について語らせていただきました。
ルカ
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
私のたましいは主をあがめます。主を心から喜びます。そんなことをいっぱい体験させていただけると期待しています。
今はよくわからないことも多いですが
わがたましいとわが霊
主をあがめと 救い主なる神を喜びたたえます。この二つの違い
そんなことも体験の中で知りたいし
私の理性でほめたたえる。事と私の信仰、また神のみ言葉を通して救い主なる神を喜びたたえること。そんなことを知っていきたいものであります。
そんな中で愛美さんがゴスペルソングを選んでくださり
題名が「わがたましいよ歌え」 なんか目標聖句とつながっている。と感謝しました。
しっかり覚えて、賛美していきましょう。
さて今日は顕現後第一主日礼拝です。顕現とは、はっきりとした姿で現すこと。教会歴では主の顕現日は毎年1月6日です
その日は東方の博士たちがイエス様を礼拝した聖書の箇所が読まれます。
イエス・キリストは全ての人のために来られた。決してユダヤ人だけのためではない。
それは東方の博士たちがイエス様を礼拝したことが大きなことであります。
異邦人にも福音が届くという歴史的な時でありました。この奥義がはっきりと表れた日 主の顕現日です。
これは私たちにとっても大切な時でした。
旧約聖書から言えば、私たちは神様に選ばれていない民。無割礼の民。神様の律法を授けられていない異邦人であります。
神様の救いの恩恵からは外れているものであります。
自分たちには福音は届かないとあきらめていた者です。
私には関係はないと思っていたような異邦人です。
しかし、イエス・キリストはこの地上のすべての人のために来られ、そしてすべての人の罪の罰の代わりに十字架で身代わりに死んでくださり
すべての人がキリストを私の救い主と信じるならば、罪赦されて、神の子とせられ、永遠の命を与えてくださる。
ヨハ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
信じるすべての人の救いのために来られた。
それは、昔は奥義として隠されていたことが、いまや明らかになったのです。
それを記念する日が主の顕現日です。1月6日 その次の一回目の主日ということで顕現後第一主日礼拝なのです。
福音に関係のない人は誰もいないのです。
私はキリストとは縁もゆかりもない。私とキリストとは関係がないという事で嘆くこともいらないのです。
あなたのために、私のためにイエス・キリストは来てくださった。
この真理、この素晴らしい知らせの日が顕現日なのです。
なんという恵みでしょうか?
私は子供の頃はキリストの事なんか聞いたこともなかった。関係がない人と思っていた。
そんな人は今もたくさんおられます。
でもあなたのためにイエス・キリストは来てくださったんですよ。
これをお伝えしていきたいものです。
少々おせっかい者のように思われてもいいんです。
こんな素晴らしいニュースをぜひぜひ伝えたいんです。命をかけて伝えたいんです。
福音は、人に復活の希望を与えます。人はこの地上の生涯はいつか終わります。死があります。人は死んでしまえばなにもない。と考えるならば死は恐ろしい闇でしょう。
しかし、イエス・キリストによって福音に生かされているものは、罪が赦されているんです。
私は正しいものでないことはわかっていますが、私を執成してくださるイエス様によって罪が赦され、神様の元に出れるのです。
私のような罪人の受けるべき罰を、イエス様が十字架で受けてくださったのです。
そして永遠の命の中に生かされるのです。
それゆえに死も恐れません。そりゃあ、今すぐ殺すと殺し屋がくるならば、死にたくないと抵抗もするでしょう。逃げ惑うでしょう。抵抗するでしょう。
クリスチャンと言っても、いつ死んでもいいからと、いのちを粗末にするようなものではありません。危害を加えてくるような人がいれば、逆に叩きのめすかもしれません。
しかし、いくら剣道が強くても、この世にはどうしようもないことはいくらでもあるのです。自分で自分の身を守ることもできないこともあるのです。
突然の大災害や、病に、この世のいのちは失われることも避けられな
いのです。
しかし、クリスチャンは死んでも死なない永遠の命の中に生かされているという福音の真理の中にいます。
それは実は大きな恵みと平安の中にあるのです。
それが解決されているがゆえに、死の問題が解決されているがゆえに、今の現在の日々。今の命ある時の生き方にも大きな平安と希望があるのです。
人には福音は必要なのだと私は思うのです。
2017年にがんで召された中川姉のご自宅で家庭集会がありました。
証し
中川さんは、家庭集会の前の検査で、主治医の先生も驚くほどがんの転移が進んでいるそうです。厳しい状況です。
信仰がなければ、大きな悲しみに押しつぶされそうですが・・・・。中川さんは信仰がある事。救いを受けている事。永遠の命をいただいている事。その事のゆえに、淡々と、むしろ日々を感謝しておられました。
家庭集会に参加した私たちの方が励まされました。
この世の現実は厳しいことも多いです。ガンが治療できないほどに悪くなっていることもあります。それでもイエス様を信じて歩めることはなんと幸いなことでしょうか。
死の恐れを乗り越える、主にある平安と希望があるのです。
これこそ福音の力です。そしてこの福音は私たちすべてに与えられているのです。
さて今日の聖書日課に入ります。今日は主の洗礼日主日礼拝です。
昨年待降節アドベントの中で、イエス様が私たちの世界に来られた。それは素晴らしい時です。
そしてその前に道備えをした人々を見てきました。
神様から離れて、すさんだ心、罪人とさげすまれ、希望のない人。貧しさの中に苦しむ人。神様を無視して自分勝手に生きている人。
そこに「神を心の中心に向かえよ、あなたの心を神に振り向くために悔い改めよ!!」と人々を導いたバプテスマのヨハネと言う人がいました。
彼も道備えをした人としては偉大な預言者でした。
彼は、自分に厳しく、人に厳しく、神の掟、律法の前に自分を律し、きよい生活をしていました。
王宮に住むのではなく、質素な皮衣を着、ご馳走三昧ではなく、イナゴと野蜜を食べ、荒野に住んで、神様と共に歩んでいたのです。
旧約聖書のエリヤのようです。
そして人々に悔い改めのバプテスマを授けていたのです。
そこには大勢の人がやってきました。
マタ
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
ヨハネのバプテスマはどんな意味があったのでしょう。
ヨハネのバプテスマは人間のバプテスマです。人々を神様のお心に向けるために・・・・・。悔い改めるためにバプテスマ(洗礼)を授けているのです。
いわば神様から全く離れた人がいます。私もそうでした。ここに神様に逆らいまわって、自分勝手に自己中心に生きている人がいます。不良学生がいます。
その人にあなたが、自分がしていることは悪いことだよ!!!と誰も言わなければわかりません。
そこにお前のしていることは悪いことだよ。正しい道に立ち返りなさいと説教し、導く人がおられる。それがヨハネの働きです。
言われて、指導されて、説教されて、また生きる模範を示されて、人は生きる方向を変えようと悔い改めるのです。
これは努力や人間の決断、修行で正しくなろうとする事です。
これは素晴らしいことですが・・・・。人間の努力では、人の罪は本当の解決はないのです。
本当の罪の赦し、その解決には神様の力が必要なのです。
でも悔い改めることは素晴らしいことです。ヨハネは自分のバプテスマを水のバプテスマと呼びました。
ヨハネは自分のバプテスマには限界がある事も知っていました。
自分は本当に人を完全に救うことはできない。しかし、人を神様の方に振り向かすことに自分の使命をかけたのです。
これこそイエス・キリストの道備えです。
私たちはコロナになってから休止していますが毎週小教理問答を唱えています。
その最初は十戒です。十戒は素晴らしい神様の掟です。人間の生きる方法が、正しく生きるためには、神様に喜ばれる歩みをするためにはどうすればいいかが教えられています。
出
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のもの
を、欲しがってはならない。」
この十戒は神様の御心です。こう生きなさいと言われます。そしてこの十戒を守ってあなたは生きなさい。そうすれば救われる。幸せになると教えてくれます。
ヨハネのバプテスマ。水のバプテスマはこの十戒によって生きよ!というバプテスマです。
神様の掟、律法は素晴らしいものです。
しかし、その律法を人は完全に守って生きることができないことを遅かれ早かれわかるのです。
そして十戒を守れない自分に絶望し、神の怒りを心底恐れるのです。
十戒を知らなければ、自分の罪もわかりません。
十戒を知ったゆえに罪がわかり、やがてその罪を解決してくださるキリストの福音へと導かれるのです。
ガラ
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
律法は私たちに罪を示し、滅びの恐れを与え、そして救いを、罪の赦しを求めるのです。律法を知らなければ自分の罪もわからないのです。
律法によってやがて私たちはキリストへと導かれるのです。それが養育係なのです。
マタ
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
私のバプテスマは人間のする事。不完全なバプテスマです。やがて本当のバプテスマ(洗礼)を授けてくださる方が来るのです。と、これから来るキリストを証しているのです。
それでもヨハネの所にはたくさんの人々が洗礼を受けに来ました。
そんな時、イエス様がヨハネの所に来られるのです。
3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤ
からヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
イエス様は、それまではガリラヤの田舎で住んでおられ、大工さん。母マリヤを助け、弟、妹たちを世話している一般の人でした。
そしてイエス様が30歳になった時、時がいたってイエス様は救い主としての働きに立たれるのです。
ガラ
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
まさに神様の定めの時が来たのでイエス様は神の子としての福音の宣教に立たれるのです。
公生涯(おおやけの生涯)に立たれるのです。
そのスタートはこの洗礼から始まるのです。
ヨハネの所にイエス様が来られた時、ヨハネはびっくりです。
いつも証している人が来られたのです。
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
その方がヨハネからバプテスマを受けようとする・・・・。ヨハネはびっくりしてお断りしようとするのです。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
当然のヨハネの言葉です。
剣道で、私が上座に立って、子供たちを指導している時。突然八段の先生が、下座について私からの指導を受けようとする様子を想像しました。
えっ!先生、滅相もない!!!。
先生が上座について私を教えてくださるべきです。教えてください。
どうしてあなたが私の下座で、私の指導を受けようとするのですか。絶対言います。冷や汗ものです。
ところがイエス様はヨハネにこういうのです。
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。
このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
ここでイエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
と言われるのです。
これはどういうことでしょうか??
イエス様は今、神の子として人々へ救いのバプテスマを授ける方なのに、今はしないのです。
今は、謙遜に、人間の姿を取り、人間として人の子として、私たちと同じ苦しみ試練に会われ、私たちと同じように歩まれようとしているのです。
ヘブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
イエス・キリストのバプテスマは十字架の時までは、まだなのです。
イエス様も全てのスタートに洗礼から始められたのです。
私たちは、洗礼は信仰のゴールではない。スタートだといいます。
まさにそうです。
まずスタートしなければいけません。
スタートしてからもいろんなことがあります。
洗礼を受けることがいいことばかりが続くことを約束してくれるのではありません。
しかし、洗礼の中で、私たちは神と共に歩み始めることができるのです。
ヨハネが承知してイエス様にバプテスマを授けた時。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する
子、わたしはこれを喜ぶ。」
イエス様の洗礼に。天からの喜びの声がありました。
イエス様が神の子として、また人の子としての公けの生涯の始まりなのです。
私たちも、信仰のスタートは洗礼からです。
まだ私はそこに至っていないという方もあるでしょう。
私はまだ救いが何たるかもわかっていないという方もあるでしょう。
しかし聖書をすべて理解しつくすことは誰もできません。
今、あなたが私は神様の掟、十戒を守れていない。まさに罪人です。
しかも神様を心の中から締め出して自己中心で生きています。
それを認めます。
しかし、私は、こんな私を愛してくれている神様を知りました。
神様が私を救い出すために、イエス・キリストを十字架にかけてその死によって私の罪を赦してくださっていることを知りました。
私は、私の救い主としてイエス・キリストを信じます。
と告白することができるならば、十分洗礼の資格はあるのです。
イエス・キリストを私の救い主として信じて歩みますと、どうか私の弱い歩みを助けてくださいと祈るなら、洗礼を受けてそこからスタートすればいいのです。
その時
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
が私達にも語られるのです。
祈り