2023年1月1日 新年礼拝説教

説教題「」

聖書箇所

ルカ

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、

1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、

1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、

1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。

1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

新年あけましておめでとうございます。

2023年が始まりました。いつもその年の最後の礼拝は一年の感謝礼拝として。神様が私たちを1年どのように導いてくださったかを振り返り、感謝をささげています。

今回は最後の礼拝が12/25のクリスマスの礼拝になりましたので、新しい方、久しぶりの方々に配慮し、伝道的というか、福音をわかりやすく語るために、1年の感謝をする機会はありませんでした。

というわけで今日の新年礼拝で、まず2022年の感謝をささげたいと思います。

最近は毎年、総会資料に書いた牧師のあいさつを読んでそこから振り返りをしています。

2022年の初めにあたってのあいさつの一部を読んでみます。

2022年は今までとは違う目標聖句が与えられました。互いに愛し合いなさいと言う主からの命令です。今まで私たちの群れには主からの励ましや恵みの言葉が多かった。今年は命令です。この世には権利と義務があるように、私達信仰者にも恵みを受けるだけでなく、なすべき命令もあるという事です。ただ命令が律法のようになって、しなければならない。と重荷になっては本末転倒です。私達は主イエスの十字架により罪ゆるされ生かされている恵みからくる喜びのゆえに、主イエス様がわたしたちに心から望んでおられる「互いに愛し合いなさい」と言う言葉を守りたいと願うのです。そんなことを具体的に学ぶ一年ではないかと考えています。

互いに愛し合いなさいとはキリスト者の一生かけての学ぶべきことです。

そしてそれは福音を声高に語る以上の大切な事です。互いに愛し合う姿の中で、人はキリストの愛を見出していくと信じるのです。簡単にはできない大きな目標聖句を与えられました。今は、すべてはわかりませんが、この目標聖句を、イエス様を見上げながら体験させていただきましょう。

具体的な事として、兄弟姉妹が互いに愛し合う前提として互いを知りあうという事、祈りあうという事があると思います。コロナ禍の中、互いの交わりが失われていました。

今年は交わりを増やしたい。誕生・受洗記念会は何とかしてやっていきたい。教会員のグループLINEを作って互いの連絡ができるように。昼の祈祷会以外に夜の祈祷会も計画したい。(Zoom)

聖書研究会も増えるように。教会学校の再開・・・・・・そのためにはインターネットが用いられると考えます。

それ以外に実際に会っての交わりができるよう。また地域の方々にも門戸を開きたい。牧師の部屋のような交わりとみことばが語れるようなもの、Zoomや実際に対面での交わりも計画したいものです。

教会はキリストの体です。一人一人が大切な部分です。教会員の皆様の一人一人がイエス様からの命令、互いに愛し合いなさいということばに生きる年とさせていただきましょう。

そして大切な事は、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。この部分です。私達は互いに愛し合うと言っても、そのような愛は誰も持っていません。自分の力で愛し合う事はきっと失敗します。それでも頑張れば、それは律法になって私達から喜び

を奪い去ります。そんな体験もするでしょう。しかし、私達を愛してくださったイエス様の愛を知る時・・・また新しい力を得ます。

何にもしなければ自分の愛のなさに嘆くことはないかもしれません。

しかし主の命令を実行しようとする時、失敗もあり、嘆きもあります。それも良しです。

その中で私たちはもっと強くなっていくのです。それはこんな私たちを愛してくださっているイエス様を、もっと深く知れるからです。その意味でも毎週の礼拝は大切な時間です。この礼拝を毎週大切に、互いの愛を持って、受けていきましょう。信仰生活の中心を礼拝に置いていきましょう。この一年の恵みに大いに期待するのです。(牧師・豊島守)

こんなあいさつから一年が始まりましたが。互いに愛し合うこと・・・できたこともいっぱいありました。まだまだできていないこともあります。互いを知りあう、祈りあうということで作った教会員のライングループは今までになかった恵みがあったと信じます。連絡もできるようになりましたし、週報をあげたり、説教を読むことができたり。ホームページも紹介できたり・・・一昨年にはできなかったことができました。

2022年の1年に神様が私たちの群れを愛してくださって、たくさんの恵みを与えてくださったことを感謝いたしたいと思います。

そして足りない私たちですが…互いに愛し合いなさいという目標聖句を大切に歩めたのではないかと感謝しています。

コロナ禍の中であっても、信じられないような恵みがいっぱいありました。

少し、映像を見たいと思います。

パワーポイントを映し、話をする

2022年はコロナで礼拝にも皆さんが集えないというスタートでしたがオンラインも使い、Zoomの礼拝 YouTubeでの説教配信

ちぐさのもりも、細々と続けることができました。

また教会員同士が互いに祈りあい、励ましあって毎週の礼拝を捧げてこれました。

互いに愛し合いなさいとの目標聖句は2023年も引き続き掲げていきたいと考えています。

それともう一つ示されたのが今日読んでいただきましたマリヤの讃歌か

らです。特にここです。

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

このみ言葉は昨年12月11日 待降節第三主日 イエス様の母マリヤさんの事を学ぶとき。マリヤの讃歌として説教をしました。

まだ幼いおとめマリヤにみ使いが現れ、あなたは聖霊によって身ごもり、神の子救い主を生むことになると預言されるのです。その驚き、戸惑い・・・・なんで自分なの・・・・との思いに

結婚前の少女が子供を産むなんて・・・それは世間に受け入れられることではないものです。

受け入れることができないようなことが起こったとき。人はみな戸惑い、恐れ、不安になります。しかしマリヤはみ使いから語られた「神にとって不可能なことは一つもありません。」との言葉に

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と彼女の信仰からのことばを語るのです。

それでもまだ平安とは言えない彼女は、年老いて身ごもった親類のエリサベツのところに行くのです。100km以上離れたエルサレムへ・・・・その思いはどうだったのだろうかと想像します。

そしてエリサベツにあったとき。

エリサベツさんがマリヤさんに語るのです。

1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。

1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

マリヤの立場を理解し、そこに主の働きを見て、神様を賛美するエリサベツの言葉を聞いた時。マリヤさんの心に初めて寄り添ってくださるエリサベツさんの言葉を聞いた時。そして自分の身に起こっていることは素晴らしい祝福の姿であると信仰によって受け入れたとき。

その喜びの中で。

自分のような名もなき、貧しき、少女に働いてくださった神様に心からの喜びと賛美が沸き起こり。

ここに至って有名なマリヤの讃歌が彼女の口からほとばしるのです。

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

この言葉に私も感動しました。マリヤさんの喜びにあふれた心からの叫び。これはマリヤさんの信仰が素晴らしい、マリヤさんが特別な方だからではありません。マリヤさんもまた私たちと同じ罪ある人間。弱さも持った人間であります。しかし、神様からの恵みと憐れみによって彼女は世界中の人々が永遠に語り継がれるような信仰告白。魂の祈り、讃歌を捧げました。

これは信仰の根本だと言えます。私たちクリスチャンの捧げる究極の祈り、信仰告白、叫びではないでしょうか。

その感動の中で、私たち堺育麦キリスト教会の2023年の目標聖句に選ばせていただきました。

私たちの群れが、またここにおられるお一人一人が「わが魂は主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」

という信仰告白を、この喜びにあふれた祈りを、讃歌を捧げる者にさせていただく年にしたいと願わされたのです。

ちょっと大きな目標ですが・・・・神様はきっと一人一人がこの祈りを、讃歌を、この信仰告白に生きることを望んでいると信じます。

マリヤさんが特別ではない。あなたもマリヤさんの信仰に倣えるのです。そんなことを今年は覚えて歩んでいきます。

どんなことが起こるかわかりませんが、この一年の中でも私たちがこの祈りをささげることができるときがいっぱいあることを楽しみにしています。

堺育麦キリスト教会にとってもこの祈りがいっぱいできるように楽しみです。

このみ言葉を考えていきましょう。今回、「マリヤの讃歌」という題のルターの本を購入しました。これはいいと読み始めましたが、ものすごく古い文体でなかなか読めません。小さな本ですが今年中にはものにしたいと思いますが難航中です。その中でまず教えられたのは

たましいと霊という言葉です。マリヤはわがたましいは主をあがめ、わが霊は、救い主なる神を喜びたたえます。と言っています。わがたましいと、わが霊とはどう違うのでしょうか?

聖書は人間を三つの部分に分けています。体とたましいと、霊です。

Ⅰテサ

5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

と言っています。体は肉体ですから目とか足とか鼻とか、目に見える体ですからわかりますが。私たちの心と言われている部分、普通は体と心と二つに分けますが、聖書は厳密にいうと心と言われている部分にはたましいと霊があると言っています。この区別はわかりにくいですが

ヘブル

4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

とあって、たましいと霊とは区別されています。ただそれは非常にわかりにくい、その境目は関節と骨髄の分かれ目のように見分けにくいと言われますが・・・・確かに人間にはたましいと霊があるのです。

ルターは、たましいは体と結びついていて、人間の理性が支配するところにある。すなわち魂は、人間の理性、経験、現象などを住みかとしている。

霊は、人間の最高、最深、最高に貴い部分で、人間が見ることもできない永遠の思いを持つ。信仰とみ言葉を住まいとする。と言っています。

言い換えれば、たましいは目に見える現実に対する理性の反応

霊は、身には見えないかも知れないが、信仰とみ言葉に対する反応なのです。

マリヤさんは自分が妊娠している。卑しいはしために過ぎない自分が神の子を妊娠している現実に、その体験、経験を通して、その理性において「わがたましいは主をあがめ」と歌いました。

そしてそれは具体的にはわからないが、世界の救い主となる方、その方が神様のご計画の中にある。その中に私もいると・・・・永遠の神様のご計画を信じ・・・・「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と信仰告白、賛美したのです。

目に見える形で体験としてなった事。それは私の魂で感じます。理性で

感じます。理性で主をあがめます。

身近な表現で言えば、私たちが願い事をします。病気の癒しや、試験の合格・・仕事がうまくいきますように。

そしてそれが願い通りになったなら・・私たちの理性は、たましいは主をあがめます。

しかし、それがうまくいかないときはどうでしょう。たましいはがっかりするのでしょうか。主をあがめることはないのでしょうか?

そこに神様のご計画も理解することができないのでしょうか?ルターはたましいだけで生きるもの。霊が働かないものは理性だけでは神を見ることができない。理性はその点で無力だ。と言われます。私もアーメンです。

しかし、信仰とみ言葉により養われる霊を持つものは、霊の働きにより、うまくいったときに喜ぶのはもちろんの事。たとえそうでなくても苦しみや悲しみの中でもわが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえますと祈れるのです。

その点で確かにマリヤさんは素晴らしい。しかし、私たちにもそのような霊が与えられているのです。

そのことを信じます。

一つのたとえ話をします。

2022年の堺育麦キリスト教会の一般会計が赤字になりませんでした。3800円残りました。12月に教団に本部費とか15万円ほど送りましたので今年も少しだけの赤字かな・・・と思っていましたが年末に会計さんが締めてくれたらなんと残っていました。ワールドカップの三苫の1mmみたいでしたが。(これはわかる人にはわかる話)

2010年に私が牧師按手を受けたとき。教会は高齢化もあり、存続が危ぶまれるほどでした。それまでは私は働いていましたが、このままでは教会は衰えてしまう。牧師が仕事をしていて日曜日の説教が精いっぱいということでは未来はない。ここは信仰をもって牧師がフルタイムの働きをさせてください。皆さんで祈っていきましょうということで第二の開拓伝道のような出発をしました。

2010年の目標聖句がルカ12:32の小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

そして2011年の目標聖句は

ルカ12:32のみことばに加えてでありました。

多くの人の支えと祈りの中で、12年が経って、毎年赤字であった堺育

麦キリスト教会の会計が赤字でなかった。ちゃんと教団への本部費も納めて、サポートなしで自給した教会になりました。細かいことは置いておいて、これは堺育麦キリスト教会の皆様で感謝するべきことだと思います。大きな金持ちがいるわけでもない、小さな教会が皆さんの尊い捧げもので自給できた。今までの試練を考えれば感無量。神様の憐れみと恵みと導きに感謝でいっぱいです。当時は12人の礼拝の時が多かったです。12年間の間に天国に見送った方々も23人おられます。それでも神様が愛してくださった堺育麦キリスト教会は存続することができています。

今年、3800円残りましたと聞いた時。喜びでいっぱいになりました。

まさにわがたましいは主をあがめです。

現実的、理性的にも目標が達成できたわけです。

みなさんも喜んでください。

しかし、それ以上に素晴らしいのは、神様はみ言葉をもって私たちの群れを導いてくださっている。期待しておられることを私の霊で信じます。これはたとえうまくいかなくても同じです。

私の霊は表面的なこと。理性で判断できることでなくても

最も深いところで私の救い主をほめたたえるのです。

この二つの賛美ができることを心から感謝いたします。

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

今年2023年は、昨年に引き続き互いに愛し合いなさいというクリスチャンにとって永遠の目標であることを覚えていきます。

またそれと共に、堺育麦キリスト教会が、また教会員のお一人一人がその信仰生活の中で、最も大切な、たましいと霊が守れて行くこと。

目に見える形で祈りが答えられ…たましいに喜びが与えられること。心のそこから神様を賛美できること。

そしてたとえそれが私たちの思い通りでなくても、私たちに信仰とみ言葉を与えてくださって・・・私たちの深いところで、最も尊いところで働く霊が・・・・

何がどうであれ‥人がなんといようと・・・・理性では受け入れられなくても・・・

私の霊が深いところでイエス・キリストを喜びたたえる歩みをさせてい

ただきたいと願うのです。

そしてそんなことがいっぱい起こり、年末にはまさに心から

「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

となる一年とさせていただきましょう。

物事がうまくいく時があります。その時は私のたましいは喜びます。そしてそれは私が頑張ったから、私の力と誇る気持ちもあるかもしれません。私に根性があったからと自分を誇るかもしれません。でもそれは理性で主をほめたたえていることです。ここで止まれば信仰も何も関係ありません。マリヤさんがわが霊は、わが救い主なる神をほめたたえますと祈ったことの意味を考えると

クリスチャンは、たとえ物事がうまくいったとしても・・・自分はただの罪人に過ぎないという思いが、わかってきます。その時、私の救い主がいてくださること。イエス・キリストがいてくださって自分があるということを深く覚え感謝するのです。

そしてこんな自分をもそのままで愛してくださっているイエス様に感謝するのです。そんな霊の働きは、マリヤさんだけにあるのではありません。信仰歴の長い人にあるのではありません。すべての人に聖霊が働き、その聖霊様の恵みによって、信仰とみ言葉によって・・・

「わがたましいは主をあがめ、 だけでなく

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。と祈れるのです。

みなさんとりわけ今年一年、楽しみにしていきましょう。

祈っていきましょう。

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