2022年3月20日

説教題「寒肥(かんごえ)を入れてくださる主④」

聖書箇所 ルカ13:1~9

ルカ

13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

おはようございます。

四旬節の第三主日になりました。

今日は、久しぶりに皆様と顔と顔を合わせて礼拝ができますことを本当に感謝したします。

本当に嬉しいです。

さてさっそく本日の聖書日課に入ります。

今日の箇所は大きく二つに分かれています。

前半部分は1~5節

後半部分は6~9節のたとえ話です。

まず1~5節を見てみます。

ちょうどその時・・・とありますが、イエス様が人々にお話をしていた時です。ですからイエス様の前には大勢の群衆がひしめき合っています。

ちょうどその時・・・・今でいえばテレビを見ていて・・・・緊急ニュースが流れたようなものです。

13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。

えらい事が起こりました!!!という事です。このピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた

という事ですが、これは具体的にどういう事件かは不明です。

たぶん想像されることとしては・・・。ピラトと言うのはイスラエルを治めているローマ総督です。イエス様の十字架を最終的に許可・執行を指示した人です。使徒信条でもポンテオ・ピラトの元に十字架につけられ・・・とあります。

イスラエル、特に首都エルサレムの治安に関しての責任者です。

で、どうやらガリラヤ人たちがエルサレムにやって来て、神殿に捧げものをしようとしている時・・・・同じガリラヤ人たちの過激派のような人がやって来て暴動を起こしそうなことが起こりました。そこでピラトは彼らを鎮圧し、捕らえ、あるいは殺しました。その血が他のガリラヤ人たちがささげようとしていた捧げものに降りかかった、混ざってしまった。という事です。

簡単に言えば、あるガリラヤ人がエルサレム神殿で暴動を起こしそうになり、ローマの軍隊が彼らを逮捕、殺害した。それはガリラヤ人たちが神殿に捧げものをしようとしていた時でした。という事です。これはショッキングな当時の大ニュースです。

まさにイエス様のお話し中であってもお伝えしたい緊急ニュースでした。

13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。

今日のこの箇所は現代の私達の説教にも教えられる、考えさせられるところです。

イエス様は今、人々にお話をしています。

私も説教をしようとしています。私は、説教は聖書をわかりやすく解き明かす、解説して聞く人が自由に神様からのみこころ、導きを受けるためのものと考えています。

前後関係なども考えながら、神様が言われている中心を語ることだと考えていま

す。またそれが私達にとってどういう事を導いているのかという事のヒントとなるべくお話しています。 その材料となるものの一番大切なものは聖書です。

ですから、聖書から、聖書を学びながら語ろうとしています。

ですから聖書に載っていない、事はあまり関係ありません。何年先に読み返してもそこにある真理は変わらない説教を目指しています。あんまりアドリブはいれずに完全原稿で説教をしています。

イエス様はどうだったでしょうか?イエス様は群衆にお話していて・・・話す内容は決まっていたと想像しますが・・そこに緊急ニュースが入ったのです。

私のように、説教を完全原稿で作っていて、もうそれが完成していて…だいたい金曜日には完成していて・・・・日曜日の礼拝に臨もうとしている時・・・そこに緊急ニュースが入ったようなものです。そしてこのニュースは多くの人の関心のある話でした。

融通の利かない私だったら・・・もう説教にそのニュースを入れる余裕がありません。そのまま、無視して説教をするような気がします。

変に話を入れると聖書の解き明かしがぼけるからです。本当は最新のニュースを入れても説教はできるんでしょうが・・・私にはその力がない。

で、私は、一応日曜日の朝までは説教を変更できるようにしています。それまでの出来事も可能な限り考えて・・・少しの変更をすることがあります。

でもここでイエス様はお話している途中で緊急ニュースが入り、それをお話の中に入れているのはすごい事だと思います。

そういう意味で画期的な箇所です。

私も、最近のウクライナ侵攻の事や、コロナの事なども説教でお話したいのですが、イエス様と違ってすべてを見通す能力もありませんので・・・・・どちらかと言うとコメントは差し控えていただかせて。聖書の解説に徹しています。

それでいいのか??と言う事も思いますが、現代に起こっていることは私の勝手な解釈で説教の場で言う事ではないと控えているようなものです。

イエス様は、今起こった事件に対して。ガリラヤ人たちの事についてこういわれました。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

彼らは犯罪人として処罰された。彼らも悪いが・・・私たちも同じように悔い改め

なければ滅びると言われます。

続けて、最近起こったシロアムの塔の倒れた事を話します。

13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

これはたぶん工事中ではなかったかと思いますが、そこで塔が倒れ落ちて・・・大事故です。突然の大事故によって18人もの人が死んだ。これも多くの人が知っているニュースです。突然の地震や台風、天災によって多くの人が死ぬこともあります。これは先ほどの犯罪を起こして処刑されたガリラヤ人とは違います。何の罪もない人たちです。

その人たちを気の毒に思うでしょう。彼らが罪深かったからだと思う人はいないでしょう。

また自分たちは罪を犯さず、まじめに生きているので、安全だったんだと思う人もいるかもしれません。

その人たちにもイエス様はそうではない。誰でも罪のままでは滅びますよ。悔い改めなさいと警告をされているのです・

13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

この現実に起こっている二つの出来事に対しても、イエス様は同じことを言われています。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

この言葉はイエス様がわたしたちに語られているどんな事件があっても変わらない真理であり。メッセージの中心なのです。

そして今朝私が示されたのは、暴動を起こしたガリラヤ人を先頭に参加して死んでしまったウクライナの兵士、ロシヤの兵士に重ねられました。彼らが悪いのではない。また残っている人が正しいのでもない。13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

またシロアムの塔が倒れて死んだ18人の人に、ロシヤの空爆で死んでしまった一般人の方々を重ねました。誰でも起こりえる死です。ある意味運が悪い人のよ

うに見えるかもしれません。残った者が正しいのではありません。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

と、永遠の命は、人間の救いは違う所にあるのだと。聖書ははっきりと真理を語っているのです。

これだけだったら怖いメッセージですが、その後に福音がたとえ話として語られています。

このたとえの解説をしますと。

ある人、ブドウ園の主人 オーナーさんがぶどう園にイチジクの木を植えていました。きっとそこで作業する人がイチジクをおやつ代わりに食べられるようにという事です。ところが、やってきてイチジクをみると・・・何にも実がなっていない・・・・。三年間もやってきては見ているが実がなっていたためしがない。

何という事か!!こんな木は切って捨てなさい。何のために植えているのかわからない。とぶどう園の番人に命じるのです。

番人は「はいわかりました!切り倒しましょう!」とは言わなかったんです。

「ご主人もう少し待ってください。私が世話をもっとしますから・・・

それで実がなればいいではないですか。もしそれでもだめなら切り倒してください。」

と。執成す姿です。

これは、ぶどう園はこの世界。私たちの生きている世界です。

主人は天の父なる神様。天地を想像された神様。ぶどう園も造られました。私たちのこの世界も造られました。そこにイチジクの木を植えた。イチジクの木は私達です。神様に期待されて植えられた神の子 クリスチャン。あるいはこの世に建てられた教会です。

植えて期待して見に来て三年もたっているのに実がならない。とは・・・・

実とは聖書にある御霊の実

ガラ

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。

要は、クリスチャンになってもう三年もたっているのに・・・実がなっても不思議でない時期なのに、少しもいい実がなっていない!!実がなっていたためしがない。相変わらず御霊の実からは程遠い・・・少しも成長していないではないか。

と言われているのです。

ドキッとしますね。私もクリスチャンになってもう40年以上になりますが・・・・成長したの

か・・・・、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制 こんな実がなっているのかと言えば・・・・全くです。穴があったら入りたい。神様の前に大きな顔はできません。

切り倒しなさいと言われる神様に、ぶどう園の番人が言います。これはイエス・キリストです。

イエス様は、確かに実はなっていません。でも切り倒さないでください。私がもう少し世話をしますから・・・ちょっと待ってください。ととりなしをするのです。

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

この箇所は福音を明らかにしています。私たちは神の前に。正義の神様の前に・・・大きな顔をして出ていけるものではないのです。神様の前に私は正しいと胸を張れるものではないのです。罪がいっぱいなのです。立派な実もなっていません。そのままでは切り倒されて当然なのです。

しかし、それをイエス様がとりなしてくださいます。私たちのお世話をしてくださいます。そして実がなるように働いてくださっています。

そしてイエス様のお世話により、完全にはなりませんが少しずつ実をならせてくださっているのです。

私たちの教会の説教の箇所となる 聖書日課は3年で繰り返されています。

3年周期という事は知っていたのですが、人は3年前の事はあまり覚えておらず、毎回新鮮な気持ちで福音書に接しているからもあります。

しかしこのぶどう園のイチジクの木の箇所は私にとって、とても印象深い箇所なので、ああ、もう三年たったんだと感じるのです。寒肥を入れてくださる主という題で説教しました。

最初は2013年。牧師にならせていただいて3年目でした。次は2016年、そして2019年、そして今日です。この時期毎回、その時の説教を思い起こしています。それで説教題は寒肥を入れてくださる主④としました。

寒肥は私が献身して、それまでは監督として働いていた建設会社を辞めて、地元の植木屋さんに雇っていただいて全くのど素人の作業員として働いていた時、随分しました。

冬の寒い時期に庭の木の根の周りを掘ってそこに肥料をいれて土と混ぜて、また埋めます。

2月の寒い時期はずっと一日中寒肥を入れてあちこちの庭を回りました。

庭木ですから、松とか槇とかモミジとか金木犀とそんなものでしたが、調べて見るといちじくも寒肥を入れるそうです。

で、私が5年間程冬の時期にやっていた寒肥を入れる作業は、ここでイエス様が

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

のことだなあと懐かしく思いました。

寒肥の事を少し話します。

木は、冬場は根の動きもあまりありません。眠っているような状態です。その時に根の先のあたりに穴を掘って油粕のような即効性ではない肥料をやります。すると油粕が肥料として栄養になるのではなく、油粕が土に浸透し、土の成分を変えていって、栄養分のある土に変わっていくそうです。これには時間がかかりますが、ちょうど木の根が動き出す。4月頃に土が栄養満点の土にゆっくりと変わって行って、根が養分をしっかりと取る事ができて、いい葉が茂ったり、実がなったりするそうです。寒肥の良しあしが木の成長には大事な働きをするそうです。

これは、のちになって調べたことです。植木屋さんでいる当時は、穴を掘って肥料を埋める。冬場で固い土のところはつるはしで掘ったり、ついでに庭の掃除をしたりで、ただただ忙しかった事を思い出します。

本当はその意味を知って作業するのがいい事なんでしょうが、当時はそんな余裕はありません。まず庭に入ったら掃除をします。これが植木屋のプロの掃除ですから、まさに庭がピカピカになるような掃除です。荒ごみをさらえで取った後は、手箒(てぼうき)と言って自分達で作った短い竹の箒で庭を掃きます。これがきつい、腰をかがめて早く、きれいにするわけです。膝をついてもいけません。手早くはく。ちょっとでも休んだりしたら叱られます。家の人にも格好悪いという事です。だから必死です。そして油粕もなかなか重い30kgの袋です。(それまでは現場監督であんまり力仕事をしていなかったので大変でした)

その時、穴を掘る場所は、木の幹から少し離れた所、木によって違いますが2mくらい離します。枝が張っている一番端ぐらいが根の端だということでそのあたりを30~40cm位掘ります。

その時スコップでズボッと掘ると、根の先を傷つけます。それがいいんだと言われていました。古い根は栄養分の吸収が悪いので、あえてスコップで切ってしまいます。そうすると春にはちいさなひげのような根が出てきて、栄養を取りやすいのだそうです。

その寒肥の事をイエス様の執成しの言葉と一緒に考えて見ました。

ここではなかなか実がならないいちじくのために園の番人が、なんとかして実をならせるようにとしていることです。

信仰をもって救われても、なかなか実がならない。もう実がならないんじゃあないかと悩んでいるようなクリスチャンにイエス様がして下さる執成しの業なのです。

いちじくの木に実がなるのは、いちじくが頑張って実がなるのではないのです。

クリスチャンとして実がなっていくのも、私がいい人間にならなければと、悔い改めの実を結ぶために努力するのではなく、根の周りに入れられた栄養を、土から養分を吸収する事によって実がなるのです。

それは今日、頑張ってというのではなく、時間がかかるという事も思います。

イエス様が私達の周りを冬の寒い時に一生懸命汗をながして掘ってくださり、肥料を入れてくれます。その肥料が土に馴染んで土をゆっくりと変えていく。冬から春まで時間がかかります。

私たちも実がなっていくのには時間がかかるということも思います。でも根が養分を受け取るならば、それはクリスチャン生活にとって言うならば、毎週の礼拝の中のみ言葉を聞く事、クリスチャンとの交わり、聖書を読む中で・・・・・・。自然に養分をいただいていくのです。救いの喜びの中でイエス様から私達の生活の養分をいただいていく事ではないかと思います。

木が眠っているような冬場に、そんな時にイエス様は私達のために肥料を入れてくれているのです。

そしてその時たまに根を切られる事もあるようです。私達は痛いけれど、もうあまり養分を吸収できない、古い根は切られてしまうこともあるようです。それは根がダメと言うよりも切る事によって新しい新芽が出て来るからです。

拡大解釈をするならば、私達の中にある、古い考え、古い生き方のようなものはイエス様に切られて、そこから生まれてくる、小さな新芽のようなものがより多くのイエス様からの栄養をいただく事が出来るのです。

イエス様からの栄養をいただくとき、いちじくは実をつけるでしょう。どんなクリスチャンもイエス様が親身になってふさわしい実をつけるようにお世話をして下さるのです。

実をつける時がきて、もう三年もたっているのにまだ実をつけないようないちじくにも、まだ待って下さいもう少しお世話をしますからと執成しをして下さっているのです。

私もこのいちじくのようなものです。

なんの実もむすばないようなものだとしても、イエス様が執成し続けて下さっているのです。

それは、きっと実を結ぶとのイエス様の確信です。

今は、まだまだでも、私はあなたを見捨てることはしないよ。あなたにはあなたにしかできない、とりわけ素晴らしい実がなるんだよ。

私はそのためにあなたを選びあなたを助けるよと言われるのです。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、

もう切り倒してしまえとの、さばきの時にも、いえ、いえまだまだおまちください。この木

は必ず実をつけますから・・・・・・。と言って下さるのです。

聖書には書いていませんが、来年、もし、まだ実がついていなかったとしても、さらにイエス様は執成しをして下さるのです。

そして私達のためにも寒肥は入れられているのです。

そこで私達は変えられた土から養分をいただく中で、実を結ぶ事ができるのです。

悔い改めの実がなるとはどんなことでしょうか?

私は、タバコを クリスチャンになってやめようとしました。それまでは1日に2箱近くも吸っていました。

クリスチャンになってからも禁煙は何回も失敗しました。

自分の意思の弱さが情けなかった。

口では辞めたと言って、陰で吸っているみたいな、偽善者みたいな時もありました。

実のならないいちじくのようなもの。

自分の力では禁煙すらできない。

洗礼受けたら次の日から、もう辞められるかと期待したがだめ。

自分には、そんな力はありません。でも辞めさせて下さい。と祈っていました。

ふと気がつくとやめていた。

三年かかりました。

辞めた時はきつくなかった。

自然だった。イエス様が寒肥を入れてくれていたんだと、説教の準備をしながら思います。

雷の子と言われた(すぐに切れやすかった)ヨハネが愛の人と呼ばれるようになった。

それは、突然でもないように思います。

イエス様の寒肥が効いてきた。

悔い改めと救いは一瞬であります。

キリストを救い主として信じる時に起こる事です。

神の前に義とされると言う赦しの恵みがあります。

ただ、悔い改めの実がなるのは、人によって違います。時間がかかる事が多いでしょう。

私はダメだと思っても大丈夫です。

いったん救われたあなたをイエス様は、とことん世話して下さるのです。

執り成し続けてくれているのです。

あなたの根の周りに寒肥を入れてくれているのです。たまには、鈍くなった根が切られて痛い思いをするかもしれません。

なんでこんな辛い事があるのかと嘆く時があるかもしれません。

でもそこから、新しい細い小さなひげねが生えて、イエス様からいただいた栄養をいた

だけるのです。

そうすれば、まさに、自然に実がなっていくのです。

それは、あなたの力や努力でなく、あなたの根の周りに入れられた、イエス様からの恵み、寒肥、執り成しの故なのです。

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

今年もまた、私は、私のためにも、また教会のためにもイエス様が寒肥を入れてくれてお世話をして下さっている事をつくづくと感じる時があります。

現実の私は、フルタイムの働きにつけて、今までの時間のなかったことを考えると感謝でいっぱいです。でも教会の教勢が落ちる時、成長どころか衰退みたいな状況の中にいる時。今日の聖書の言葉でいうならば実がなかなかならない事に心が痩せる思いをしています。体は痩せませんが・・・・・。

あれもして、これもして・・・・。それでもまだまだやり足りないという思いがあります。

夜、眠れなくて・・・・・。説教の事も含めて・・・・・考えることが多いです。夜中に思いついたことをアイフォンに布団の中でメモします。

そのメモの中から、朝起きて見てみるといろんなアイデアがあります。ヒントはあります。

でも、私が頑張ったからと言って、先にも言いましたが、人が救われるのではありません。

人は追いかけると逃げると言います。一生懸命伝道したらするほど、人が来なくなるという、つらい体験をしました。空回りはいっぱいです。

でも、そんな私のためにイエス様は、親身になって寒肥を入れてくれているのです。

寒肥の効果がじわじわと効いてきていると感じます。

人は、説教では変わりません。ようは泥臭く、一緒にごはんを食べる。時間を過ごす。そんな地味な交わりの中で教会にも、みことばにも関わりが深まっていきます。そんな交わりが不思議と増えてきました。私が誘ったと言うよりも、イエス様の寒肥が効いて来て、人が少しずつ来られているように思います。それは私達の計画や思いを超えています。

今日も私たちのために、あなたのために。あなたがあなたならではのスペシャルな実を結ぶことができるように、イエス様は寒肥を入れてくださっているのです。

祈り

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