2022年3月6日 堺育麦キリスト教会の礼拝動画です。 https://youtu.be/NYYEkQAMIWk

文字原稿は以下からです。 説教者:金賢文兄

説教箇所 ルカ6:27~38

説教題 あなたの敵を愛しなさい

分解 27~28 あなたの敵を愛しなさい

29~31 自分にしてもらいたいと望むとうりに

32~34 罪人でも

35~38 さばいてはいけません

聖書箇所

6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行い なさい。

6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

6:29 あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

6:30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

6:31 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。

6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。

6:33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。

6:34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。

6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

6:37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そ

うすれば、自分も赦されます。

6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

序論

私たちはいろいろなところで席を置いています。わかりやすい言葉でいうと居場所を持っています。簡単にいうと所属しているということです。ある人は学校に行き終わると家に帰ってきます。ある人は会社に行って終わると家に帰ってきます。そして日曜日になると教会に出かけていきます。学校に行くと友達や先生がいて会社に行くと同僚や上司や部下がいて家に帰るとお母さんやお父さん兄弟たちがいます。教会に行くと兄弟や姉妹の顔が見ることができます。私たちはそれぞれの場所での居場所があるのです。そして居場所居場所での別々の人間関係が存在します。その中で嫌いな人好きな人が自分の中での優先順位ができてきます。皆さんにも私にも一人ひとり全員が小さい子も大人も自分なりのこの人間関係の優先順位を持って行動しています。「私は嫌いな人はいません」という人見かけますが必ずといっていいほど自分の中での人間関係の優先順位はあります。わたしの家で飼っている犬ですらそうです。私が一人でいるとすり寄ってきます。なんてかわいい犬なんだろうと思われますがいったん娘が部屋に入ってくると今までの態度が急に変わって娘のそばにすり寄っていきます。犬からすると優先順位が私より娘の方がランキングで上位なのがすぐにわかります。ちょっと腹立たしい気持ちになります。余談ですけど花いちもんめという遊びが子供のころありました。勝ってうれしい花いちもんめ負けって悔しい花いちもんめあの子が欲しいあの子じゃわからん相談しようそうしよう。といって友達同士が相談します。そして必然的に好かれている人が指名に上がります。ドラフト会議そのものです。そして一番好かれていない人が残ります。子供のころは気が付きませんでしたがたまにテレビでこの歌が聞こえてくると残酷な遊びだったと思い出されます。私たちが持っている好きな人ランキングの典型的な遊びでした。その私たちが自分の持っているランキングの下の方にある(嫌いの度合いが強い人)に対してどう接すると良いかをイエス様は教えてくださっているところです。

あなたの敵を愛しなさい

それでは聖書を見ていきましょう。6:27「しかし」とあります。先週先生がおっしゃられた四つの幸いと四つの災いについて教えられたことに続くものです。

ほかの人から憎まれたり排除されたり罵られたり汚名を着せられた人たちは幸いだとイエス様はおっしゃっておられます。

それではそういうことをするのはだれなのかといいますとイエス様を信じていない人たちのことを言っています。そのほとんどがクリスチャンでない人です。クリスチャンでない人に憎まれたり罵られたり差別を受けたりすると私たちは(必然的に人間関係の優先順位が低くなり)私たち(クリスチャンの)の勝手な言い分を並べればクリスチャンではない人は最後にゲヘナに投げ込まれるのは当たり前で私たちクリスチャンは今現時点では貧しく、飢え乾いて、泣いていても天国に行けるのは私たちだということを考えてしまいます。

しかしイエス様はそうではないよとおっしゃっておられます。ではどうおっしゃってられるかといいますと。「あなたの敵を愛しなさい」です。この一言です。

私たちは自分にきつく当たる人に対して敵意を示します。それとも落ち込んでしまいます。親、兄弟といった家族は別として他人できつく当たる人に対しては大人であればあるほど自分を出すのに少々時間がかかります。しかし長く付き合うとその人が見えてきて本当に相手のことを考えてくれる人か本人だけが良ければいいと思う人かは見えてきます。

でもイエス様は最悪な人を例にとって6:27~28を読んでいきます。「しかし今聞いているあなた方に私は言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたの憎むものに善を行いなさい。あなたを呪うものを祝福しなさい。あなたを侮辱するもののために祈りなさい」

私自身よく「小さい男や」といわれました。だれに言われたかは想像にお任せします。私たちが生きているこの世の中は残念なことに苦しみでいっぱいです。

しかしその中で耐えられるのは将来私たちが天の御国に行けるという希望があるからです。

ですからこの小さい私が私を迫害した人罵った人差別をした人がクリスチャンでない場合は将来最後には滅んでしまうことに対して「ざまーみろ」という言葉しか出ないのは当然と考えるのは私のような「小さい男の考えること」なのです。

しかしこの世のクリスチャンが大きい男と確信を持てるイエス様はイエス様自身がわざわいだと言っておられる人の対して悲しみと心の痛みをもって、そのことを言っておられるのであって憎しみからではありません。イエス様はひとりも滅びることを望まれないからです。

しかし私たち罪人はその時の感情でものを言い行動を起こしてしまいます。後で後悔するのをわかっていてです。しかしだからといって自分を憎んだり、呪ったり、迫害したり、敵対したりする人を愛しなさいと言ってもそんなに簡

単なことではありません。しかしよくよく考えると憎しみというのはほっておくと増大し固まっていきます。

よくかたくなな心やこだわりの強い心の中には心というものはこのことしかないというバリヤというものにガードされていて自分の意見だけがあり人の意見や思っていることが入ってきません。

つまり聞く耳を持たないということになります。憎しみを取り除く方法はその凝り固まった心からちがう意見を自分自身で受け入れ苦手な人のことを考えてその人に自分から進んで話しかけることです。人を愛するほかはないというのが道のような気がします。

そんなイエス様がみんなから嫌われているザアカイに自分から話しかけた出来事です。

それはイエス様が一人で歩いている時ではなくたくさんの人がいるときに木の上にいるザアカイにイエス様自身が声をかけてさらには今日あなたの家に泊まるとまで言われ周りにいた人は「あの嫌われ者のザアカイの家にに泊まるの?」と思ってたに違いありません。ザアカイの心の中は人から嫌われているのは知っていたと思われます。そしてザアカイの心はバリヤで覆われていて心の赦せる人にしか心の開かないかたくなな心を持っていたと思われます。ひとのこころはドアの扉のようなもので開かなくなったときから時間がたてばたつほど開けるのに時間がかかります。固く閉ざされるということです。

それをイエス様は人の心をあけるカギを持っています。だから、自分からザアカイの心に入り込んでバリヤを打ち破りました。

イエス様は私たちの罪を取り除くためにこの世に来られました。それと同時に私たちがどう生きればよいかという模範も示されました。

どういうことかといいますと私個人は犬が大好きです。しかし犬の本当の気持ちはわかりません。犬の気持ちを理解しようとすると良く思うことが自分が犬となって犬の世界に飛び込んでいくことがまず一つでもう一つは犬が人になって人間の言葉をしゃべるということを思います。

それと同じようなことで私たち人間(罪人)は神様の気持ちや考えていることはわかりません。しかし神様は私たちの考えていることや気持ちはわかっておられます。だから神様であるイエス様を人としてこの世につかわしイエス様のように生きればよいという手本や模範としてこの世に送り出されました。

Ⅰペテロ2:20~25(417ページ)を読みます。「罪を犯したためにうちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、なんのほまれになるでしょう。けれども善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。あなたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あ

なた方のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口になんの偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷ゆえに、あなた方はいやされたのです。あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は自分の魂の牧者であり監督者である方のもとにかえったのです。」

そしてそれは私たちがイエス様に似たものとされるように模範を示されました。

わたしは犬でたとえを言いましたが聖書では羊といっています。いずれにしろ神様は私たちを愛するがゆえにイエス様を通して私たちに愛するとはどういうことかということを教えてくださいます。

それではイエス様が愛する模範とはどういうものなのか、人間が愛するということはどういうことなのかを考えたいと思います。

人間が愛すること

私たちは自分に好意を持ってくれる人に対して好意を持ちます。もちろん例外もありますが一般的にそういう感情は愛というものではなく好きという感情です。そういう好きという感情は悪に染まった罪人でも持っています。基本人間はギブアンドテイクの関係で愛とは何の関係もありません(親子の関係は少し違うような気がします)。相手から何かを期待しないでその人がしてほしいと思っていることをしてあげることが愛だと思われます。

好きという感情と愛とは違います。好きという感情は相手の出方次第で、嫌いという感情に変わります。そういう意味では、極めて主体性のない、相手の出方次第でということになります。しかし、愛するということは、相手がどう変わろうと、こちら側の問題で、極めて主体性を持った行動なのです。主体性とは自分からするということです。

それでは、私たちは自分を迫害したり、憎んだり、呪ったり、侮辱したり、敵対する人をどうして愛することができるのでしょうか?嫌いランキングの順位の高い人や好きランキングの順位の低い人に対してどうして愛することができるのか考えさせられます。

私たちは生まれたときからおぎゃーといったときからサタンに支配されている罪人です。私たち自身もともとの罪人であるから神様に敵対しています。神様は罪を嫌われるから罪人という私たちとは神様との間にあまりにも深い峡谷があります。この峡谷を渡るのは罪びとである人間の力では橋を架けることもできず、空を飛ぶこともできません。しかし、イエス様というお方が天の父なる神様から峡谷を挟んで人間の陸から神様の陸に十字架という橋を架

けてくださいました。十字架でいう縦の道のことでこの縦の道が神と人とのたった一つの架け橋です。その改札口に立っているのがイエスキリストです。ちなみに十字架の横は兄弟姉妹の関係です。そんな神様と敵対している私たちを自らの独り子を世につかわし御子の命という犠牲を払われて救おうとして下さり何よりも私たち罪人を愛してくださった愛の深さからです。

Ⅰヨハネ4:9~10(430ページ)「神はその独り子を世につかわし、その方によって私たちに、命を得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

そしてイエス様はルカ6:35「ただ自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすればあなた方の受ける報いは素晴らしく、あなたはいと高き方の子供になれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」6:35だけ解釈するのはどうかと思いますが「ただ自分の敵を愛しなさい。1回目は27節にでてきて2回目は35節に出てきます。少し前に豊島先生が「つかえる者になりなさい」という言葉が聖書では何度も出てくるが人とは仕えることができないからイエス様はことあるごとに仕える者や仕えることをしなさいと言っておられたことを思いだしました。

ここでもこんな短期間の間に2回も自分の敵とかあなたの敵を愛しなさいと言っておられます。私も正直な話聖書を読まなかったり教会に行かなかったらこの言葉や黄金律という言葉とは一生無縁だったと思います。どうしてもこの世に生きている人目には目を歯に歯をややったらやり返すと言った復讐劇を好みます。愛するということはニュアンスでも何となくでもそういう言葉は復讐すべきでないということを私たちは(クリスチャンでない人も)知っています。しかし人間の美学としての復讐劇はかっこいいものというのが人としての大多数の価値観として存在します。しかしイエス様は「ただ自分の敵を愛しなさいです。」「ただ」です。それ以外考えるなということです。復讐などもってのほか、神様に任しなさい。ということです。

さっきちらっと出てきた黄金律(マタイ7:12)ということを短くお話しましょう。英語でいうとゴールデンルールといいます。イエス様が言った言葉で「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」ということです。ルカ6:31の言葉です。イエス様がおっしゃった言葉で深い意味があります。何かをしてやりたいという対象の人の気持ちがわからなければいけません。そのことを考え理解するだけでも難しいことなのにそれを理解した上に行動しなさいということです。

ゴールデンがあればシルバーもあります。シルバールールとは3つぐらい検索すると出てきました。トビト記4:15「自分が嫌なことは、ほかの誰にもしてはならない」孔子「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」ユダヤ教「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」

「彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」私たちは呪われたり侮辱されたり敵対されたりするとすぐに復讐することを考えます。お金もそうです。他の人にお金を貸すと私たちは金額が少ないなら忘れるかもしれませんが金額が大きくなるとすぐに返してもらうことを考えます。そして返してくれなかったことを考えるとその人を誹謗中傷します。だからイエス様は「返してもらうことを考えずにかしなさい」といっておられます。いずれにしろ人によくしてやるということは自分の不安な心を神様にゆだねることをしなさいということです。

その報酬はというと「すばらしく、いと高き方の子供になれます。」いと高き方の子供になれた挙句にすべて神様が働いてくださるからです。短期的な結果か長期的な結果かは神様が知っていて私たちは知りませんがいずれにせよ神様が良いという結果を現してくださいます。だから復讐しようかとかお金が帰ってこないとか不安にならずに日々一生懸命生きることが大事です。

32節、33節、34節に出てくる罪人たちでさえという言葉はイエス様を知らない人や私たちクリスチャンが信じる神様を信じない人たちのことです。しかし神様は愛です。「いと高き方は、恩知らずの他人にも、あわれみ深いからです。」「あわれみ深い」とは「思いやりを持つ」や「ほかの人の苦しみを自分の苦しみとする」という意味です。

悪人もそれなりの理由があります。ある事情から道にそれたのかもしれません。勉強が嫌いであったため勉強中心の学校にいられず道がそれたか人に騙されひどい目にあい今度は自分も人をだましてやろうと復讐心に燃えてしまった人もいるでしょう。もちろんのこと悪人とはいえ周りも罪人です。苦しみもいっぱいあります。その人たちに対しても神様は思いやりを持っています。

イエス様は私たちがその天のお父様の子供であるなら私たちの天のお父様と同じように「あわれみ深くできるはずです。だから、そうしなさい」といわれます。

しかし現実的に私たち人間は自分に敵対する人を愛し、その人に好意を示し、お礼も期待しないで貸してあげるとき、私たちが神様からいただく報いは大きく、いと高き方の子供となれると言っておられます。しかし人間というものは報いも期待しないで何かができるというものではありません。人は報いによって残念ながら行動します。

イエス様は何もかも人のことはわかっておられます。だから人間が報いを求める心を問題としないでむしろそれを前提として地上における人間からの報いかそれとも天の父である神からの報いかを問題にしているから次のように教えておられます。

マタイ6:1~2(8ページ)「人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい。そうでないと天におられるあなた方の父から報いが受けられません。だから施しをする時には人にほめられたくて会堂やとうりで施しをする偽善者たちのように自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなた方に告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っています。」

だから人からの報いを期待しないでどんな報いを私たちに施してくれるのか天の父からの報いを期待したいものでありたいものです。

さばいてはいけません

ルカ6:39「イエスはまた一つの例えを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。」

普通昼間であれば盲人の手引きができるのは目の見えている人で盲人ではありません。しかし真っ暗闇の夜などはむしろ逆で盲人の方がはるかに正しい道を知っていて目の見える人を手引きしてくれます。今は本当の物理的な闇ということはなかなか珍しいですがイエス様の時代は明るいのは町中と家の中で外に出ると山なら少し歩くだけで闇になってしまいます。

イエス様がよく「盲人を手引きする盲人」とか「目の見えない手引きども」というような言葉を使われましたがそのほとんどがパリサイ派の人たちに対してです。

なぜこのようなたとえ話をするのかということはパリサイ派の人たちは信仰に熱心でした。だから熱心でない人に対して批判的でその間違いを指摘し彼らを教えようとしていました。要するに手引きをしたがっていました。だからさばきの言葉をいって人々を傷つけていました。このことはパリサイ派の人々だけではなくどの宗教にも当てはまることでもちろんキリスト教もです。だからこの箇所を限定とすれば弟子たちに言ったことだと思われます。

宗教的指導者という人は信仰において熱心な人が多くいます。きちっと信仰生活をしている人がほとんどです。そして悪いことにそういう人の欠点は自分はできている。と思い込んでいることです。つまり人の欠点は目につくのに自分の欠点には気が付かないのです。ですから目が見えていても盲人みたいな状態です。聖書的に言いますと目のチリを取ろうとするが自分の目の中の梁は見えないのです。

私たちが人をさばいたり、人を罪に定めるようなことをしたら私たち自身が神から裁かれ罪に定められます。そうなってしまったら神様は「ほかの人を赦

してあげなさい」おっしゃいます。どうしたらほかの人を赦してやれるのか。ほかの人の小さな欠点より自分の大きな欠点にわかればそれができます。自分の目の中の梁に気が付くことです。

ですから人を赦し、愛し、受け入れてあげなければいけません。そうして人に与えるものとなりましょう。愛してもらいたいと言ったことではなく主体性を持って自ら人に与えることです。そうすれば神様が人を動かしあふれるばかり与えてくれます。

与えなさいそうすれば自分も与えられます。

先週の恵み

私たちは生活していくにあたって席を置いている場所が何か所かあります。ある人は学校に行きある人は会社に行きある人は家を守り学校に行く人は学校での人間関係があり会社では会社の人間関係があり家に帰ると家族という人間関係があります。教会に行くと兄弟姉妹という人間関係もあります。その中で気づかないうちに自分の中での好き嫌いの優先順位ができていきます。その優先順位が下の方の人に対してどういった心の持ち方で接したらよいかをイエス様は教えてくださいます。私たち人間は嫌いの度合いが高ければ高いほど近づこうとしません。しかしイエス様はそんな嫌われ者のザアカイに自ら声を掛けました。イエス様とザアカイの二人だけではなく大勢の人がいる前でです。その大勢の人たちはどう思ったかといいますと「なんであんな意地の悪いザアカイのところに泊まりに行く」と言われたのだろう、と考えたはずです。

しかしイエス様は愛の方です。人々が滅んでいくことをよしとしないお方です。私たちは苦手な人に対して敵意をあらわすことがあります。しかしイエス様のように自分から苦手な人に話しかければ人間関係が改善されるかもしれません。試してみてください

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