2022年2月27日 堺育麦キリスト教会の礼拝です。 動画はこちらから https://youtu.be/fBKuGgqMgrk

可能ならば、2月27日(日)10:30~ 共に心合わせて礼拝をささげましょう。

説教原稿は以下からです。

説教題「信仰のアフターケアー」

聖書箇所 ルカ9:28~36

9:28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。

9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、

9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

9:32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。

9:33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。

9:34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。

9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。

おはようございます。

先週は急遽昨年の礼拝をふりかえることになり、不思議な感じでした。

しかし、昨年2月21日の説教を聞きながら・・・今年も全く同じことが起こっている事を実感しました。

特にコロナに翻弄されている私たちの姿を見ます。

ただここにも神様の導き、ご計画があるものと信じます。

さて先週の説教は教会歴が四旬節に入っていましたが・・・本当の今年の教会歴は本日2022年2月27日が主の変容主日

3月2日が灰の水曜日 ここから四旬節が始まります。四旬節とは受難節とも言われ、私達の罪の赦しのための、主イエス様の苦難と十字架が告知され・・・私たちの悔い改めと感謝の信仰が深められる時です。

その事を覚える礼拝を奉げていく時であります。

その四旬節に先立って、イエス様のお姿が変わられた変容された・・・その記念の礼拝が本日になります。

2022年は3月6日から四旬節の礼拝に入り・・4月10日から受難週が始まり4月17日がイースター(主の復活日)となります。

今年のイースターはコロナもおさまり、皆様と共にお祝いの礼拝が待たれることを祈っています。

コロナの三回目のワクチン接種も進んできますし、まんぼうが解除される予定の3月13日の礼拝くらいから教会で対面で行いたいなあと祈っています。

さて本日の聖書日課に入ります。

その前に、私達は将来についていろんな不安がないでしょうか?これからどうなっていくんだろう?そんな事が見えない時に・・・・人生設計を立ててもそのとおりに行かない時があります。

イエス様の弟子たちにも、不安な話がされました。

イエス様の弟子たちに向かって語られた最初の受難の予告の時の事であります。

ルカ

9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

9:25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

それまで多くの奇跡、癒しをされていたイエス様が、初めてご自分の本当の使命・・私たちの罪の赦しのためにご自分が死ななければならないとの預言、予告をされたのです。イエス様が弟子たちに初めて受難の予告をされた。

毎年この時期になると思います。

自分が信じてついて行っている人。先生。人生の師、頼りにしている人。この人のためなら死んでもいいわと思っている人。自分の何もかも捨てて従ってきている人。神の国は近づいたと述べ伝えながら・・・寝食を共にしている人。

この人が、私はもうすぐ殺される。と言われるのです。

わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしてあげよう。と言われ何もかも捨ててついてきた先生が・・・・ある意味自分を導いてくださっている方が・・・私は殺される。そして三日目によみがえる。(この三日目のよみがえりの事ははっきりと言われていますがその事は自分の頭にはそんなに入っていないのです。それも当然です。自分の先生が殺される‥死ぬ・・・こんなことが予告された時の弟子たちの心はどうだったんだろう。と想像すると・・・大いなる不安に包まれていると想像するのです。

9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

皆さんがこの場にいたらどうでしょうか???

頭が混乱してしまいそうな話です。不安がいっぱいにならないでしょうか?

これから自分たちはどうなるんだろうか??

人生は、わからないことがいっぱいです。

それでも今までの体験、まわりの状況…自分なりの未来予測ができるとき。なんとなくついて行っていれば・・・時代に取り残されないようについて行っていれば何とかなるわ・・・・。と考えられる時不安は少ないでしょう。

例えば日本の社会が普通に進んでいるならば・・・学校出て、就職して、安定した生活が送れると思って…不安は少ないかもしれません。

しかし、コロナなんかは私達が体験したことのない恐ろしい状況・・・先の見えない事です。これからどうなるのだろうか・・・と不安になることも多いです。

今、国際ニュースの中ではウクライナの人々の不安はいかほどかと思います。いつ戦争が起こるかわからないのです。

説教原稿はこう書いていますが・・・2/24にはついにロシヤのウクライナ侵攻が始まったのです。まさに全く先が見えない状況です。

弟子たちもイエス様の受難の予告は、初めて聞いて・・覚悟もできておらず・・不安がありました。

人間は初めて聞いた時、それを素直に即受け入れることができる人は少ないと

思います。だんだんと覚悟が定まって行きます。

私は父の介護の中で巽先生から、いつかお父さんのこの世の終わりが来るよ。と言われ・・・最初はわかっていてもショックでした。しかし、何回か言われる中で、また自分もいろんな体験をしていく中で覚悟ができてきました。

イエス様の受難の予告はこれから3回聖書に書かれています。初回とは聴く心構えは違っていたと信じます。もっと何回も折に触れて語られていたかもしれません。そんな気がします。

しかし、なんといっても初めての予告は大きなことでした。

9:28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。

今日は変容主日 イエス様のお身体が変わり、光り輝く姿になられた。なぜ主の変容があったか?

その一番大きな理由は、「これらの教えがあってから八日ほどして」という言葉です。

イエス様の受難を始めて聞いた弟子たちの心は、騒いでいたでしょう。いろんな不安があったでしょう。

そんな彼らの代表としてペテロとヨハネとヤコブを選んでイエス様は変容のお姿をお見せになった。

彼らの不安に対する答えを示した。弟子全員ではなく3人と言うのはこれもまた意味があるでしょう。彼らに信頼を置き、又彼らの指導的立場を考えたのでしょう。

山の上で起こった変容の主の出来事はこんなことです。

9:28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。

9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、

9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

9:32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。

9:33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。

9:34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼ら

が雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。

9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。

弟子とイエス様が山で祈っている時に・・・・・そのお姿が変わっていった。

9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。

驚きの姿です。

しかもイエス様と一緒に二人の人が話し合っている。それはモーセとエリヤ。旧約聖書の事を「律法と預言者」と言う言い方をしていることがあります。

例えばマタ

22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

等のようです。律法と預言者が旧約聖書の事を指しています。

そして律法と言えばモーセ、預言者の代表はエリヤであります。

モーセとエリヤとイエス様が話されていることはオールスター的

9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

イエス様の十字架の受難の事について話し合っていた。モーセもエリヤもイエス様の十字架の事をわかっていた、そしてそれを話していた・・・これはまた深い真理です。その事の考察は置いておいて

この光景を見たペテロの対応は

9:32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。

9:33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。

この意味はよくわかりませんが・・・・イエス様がただの人間ではない・・という事はペテロたちにわかった。

9:34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。

9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

私は、今日の箇所から一つのポイントに絞って語りたいと思います。

それは、人は不安がある。そしてその不安にイエス様は憐れみを示してくださるという事です。変容の主日礼拝の中でその事を深く示されました。

人の不安は誰にもある。

何にも不安のない人はいないと言われます。ペテロさんたちに弟子にとってイエス様が殺されるという事は大きな、今一番の不安でしょう。

私達にもあります。それはクリスチャンでもあります。

病気が発見されたり。事故に会わないかと‥これからの生活はどうなるのか・・・自分の進路について・・人間関係の不安・・・恋の不安・・・

そんな不安は悪い方に考えると・・・それはさらに悪くなります。

それはネガティブに考えるからや(消極的に考えるからや・・)ポジティブに考えればいいや。心の切り替えが大事や

なんでもいい方に考えればいいんや・・・・積極思考 ポジティブシンキングがいい。恐れや不安は持たないようにしたらいいんや・・・。という方もありますが。人間はそんな単純なものではないと思います。

不安は増大することがあります。

そしてその不安の中で押しつぶされそうになっている人を私たちは責めることも笑う事もできません。それは、人間は耐え難い恐れや不安もあるのです。

私はペテロさんたちの不安や恐れも、耐えがたいものになっていたと想像します。

そんな時にこのこと。変容の主の出来事は起こったのです。

主はペテロさんたちに、心配しないでいいよ。私は神の子キリストだよ。と変容の姿をお見せになった。

そして神様からの声が聞こえた。

9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

これはなんという事でしょう。

普通にはない事。しかも神様からの声 このイエスは私の愛する子。神の子

私が選んだ者だよ。これはイエス様が洗礼を受けた時にも天からの声として聞こえたものです。

ルカの福音書では ルカ

3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

私はあなたを喜ぶ。イエス様を喜ぶと言っていますが・・・今日の箇所では

彼の言う事を聞きなさいと言われています。まさにペテロさんたちへの言葉です。

イエス様が殺されるという事で不安になっていたであろうペテロに対して・・・神様からの親切なアフターケアーがあったのです。

ペテロがイエス様に対して全く信仰がなかったのかと言えばそうではない。

少し前に、イエス様が受難の予告をする前に、ペテロは立派な信仰告白をしているのです。

ルカ

9:20 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」

私達の信仰の歩みに照らして言えば

私はあなたを神の子キリスト 私の救い主として信じます。と告白します。

しかし、すぐに信仰の試練は起こってきます。

地に蒔かれた四つの種の中の岩地に蒔かれた種は、すぐに喜んで芽を出すが、根がしっかり張っていないので日照りが来ると枯れてしまいます。みたいな感じ。ペテロさんは、イエス様はこれから自分たちを導いてくださる方と自分なりの計画、夢を持ってイエス様に従っているのに・・・神様のご計画は全く違う。イエス様は殺され、復活するという福音が語られるのです。

それに理解できず・・・不安になり・・恐れるペテロたちに変容のお姿を見せ、そして彼の言う事を聞きなさいと神様が語り掛けてくださる体験をするのです。

ペテロさんはいいなあ・・・私にも不安がいっぱいあるけど、こんな風に変容の主のお姿を取って、私の前に現れてくれたらいいのになあ・・。そしたらしっかりイエス様を信じていけるのに・・・・と思わないでしょうか。

それは現代ではあまりない事です。でも必要ならばイエス様がわたしたち一人一人に現れてくれることもきっとあると私は信じています。

今は違う形で私たちを励まし、導いてくれることが多いです。

例えば、人の証しで・・神様の働きを見て励まされます。

自分で読んだみ言葉・・説教で聞くみことば・・・とにかくそこにみことばがあり、それを読むとき、聖霊様が働き・・・私たちに変容の主を見せてくださるのです。

9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

イエス様に聞きなさい。あなたが奇跡のように変容の主にお会いできなくても主に信頼し・・主に聴きなさいと言われるのです。

この変容の主に出会ったペテロさんは、この体験で素晴らしい信仰が確立したか?と言えばそうでもなかったようです。

9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。

この驚くべき主の励ましをいただき・・・変容の主にお出会いしたのに・・・このことは誰にも話さなかった。

ここを読んでいてなぜ誰にも言わなかったのかなあ・・・と思っていました。イエス様から口止めをされているのではないけども・・

その当時は、誰にも話さなかった・・・・。私達も信仰生活の中でイエス様から個人的に語ってくれたこと示された事、励まされた事・・・・・でも誰に向かってもうまく説明できないことがあります。確信とまでは行かないことがあります。

良く、私に導かれたイエス様の事を・・・物事がうまくいっていないので・・・成功していないので証できませんという方がおられます。そのお気持ちもわかります。

私も、献身の道は立たれたように見えて、コンサルタントの仕事もなくなって、大阪基督教短期大学の用務員さんで働いている時がありました。給料も安くなり、電車通勤していましたが、まわりにいる人がみんな輝いていて自分が一番みじめだなあと思う時がありました。不安がいっぱいありました。

その時、通勤の途上でみことばが響いてきました。私はあなたを愛している。私はあなたをそのままで愛している。というような言葉でした。

もう嬉しくて、嬉しくて、涙を流しながら歩きましたが・・・・自分は本当に嬉しいけれど周りの状況は全く変わっていない・・・・だからこんな状態で証しをしても誰も理解してくれないだろうと思いました。

うまくいったら証しするという気持ちはわかります。

でもその時、私はあんまりうれしすぎて誰かに話したように思います。

ペテロはあまりにも信じがたい話ゆえに誰にも言わなかった・・・。うまく説明できないから・・・。そして彼に大きな確信があるわけでもないから・・・。でもペテロ個人の気持ちとしては変容の主に励まされて大きな安心を得たと想像します。

そして、それからもイエス様の受難の予告を何回か聞いて行きながら・・・覚悟ができていく。

ついこの間、このお方は神の子。私の救い主キリスト。そんな立派な信仰告白を

しても私たちは揺り動かされるんです。

自分の思い描く姿でないと・・・

ペテロは受難の予告をされたイエス様に、そんな事があってはなりません。とイエス様に言ったものです。

将来について、わからないことが理解できないことが人生にはあります。

ペテロさんたちに、人類の誰もが初めて聞くような福音の始まり、

神の子、イエスキリストが私達の罪のために、私達の身代わりとなって死んでくださり・・・・三日目に復活して・・私たちの罪が赦されると言う福音。

そのためには、自分たちの先生と仰ぎ、慕うイエス様が

9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

人々に捨てられて殺される・・それを受け入れなくてはなりません。弟子たちはみなそんな確信はなく…不安になります・・・・。

でもイエス様はそんな弟子たちのために、彼らの弱い信仰を励ますために・・・・

変容の主として現われ・・・弟子たちを励ましたのです。

ペテロさんにとってこの時は、他の人には話せなかったかもしれません。

しかし、彼の心の中のイエス様の変容、そしてその時に語られた神様からの言葉・・・・「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」

それは彼の生涯の中にしっかりと残っていました。

私達は弱い信仰者です。直ぐ不安になってしまうものでもあります。

これからどうなるのか???

それはわからないゆえに・・・・不安が起きます。

私達の不安なんかは、今、戦争になっているウクライナの人々に比べれば小さなものです。

それでもみな不安があるのです。

日頃は、隠したり、ごまかしたりしていても、いろんな不安を抱えています。

でもイエス様はそれもご存知です。

ペテロたちを連れ出し、変容の姿を現されて彼らを励まされたように、変容ではない形であっても、私達を誰かの証しや、み言葉や、些細な事を通しても私たちの救い主イエス・キリストを示してくださいます・・・・

私達は神様を信じています。イエス様を信じています。

でも不安になる時もあります。人の信仰はいつも、いつも強いとはいきません。

主は素晴らしいアフターケアーをペテロさんにしてくれました。

アフターケアーの意味は病気が治った人の、その後の生活法を指導して健康の快復を図る事。だそうですが

滅びの中にいた私たちがキリストを救い主として信じて・・ある意味病気が治ったとしても・・その後の細かい指導によって回復していきます。

イエス様は、私達にも、ペテロに変容の姿を見せられたように・・・・私が主だよ。私と共に歩こうとアフターケアーをして下さるのです。

祈り

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