2022年2月13日 堺育麦キリスト教会礼拝です。 動画はこちらから https://youtu.be/RXXmwKKM6Ec
できましたら2月13日(日)10:30~ 心合わせて礼拝しましょう。
説教文字原稿は以下からです。
説教題「あなたは幸いです」
聖書箇所ルカ6:17~26
ルカ
6:17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。
6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。
6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。
6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
6:22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
6:24 しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。
6:25 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
6:26 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。
おはようございます。今朝もオンラインの礼拝です。皆様、お元気でしょうか?オミクロン株の感染がますます広まって、大阪は特に大変な状況が続
いています。早く収束して、皆様ともお会いできて共に礼拝を捧げたいと願い祈りますが・・・今は忍耐ですね。お一人一人の上に神様からの慰めと励ましがありますようにと祈っています。
本日は群衆に向かってイエス様がどんなことを話されたのか?という事がわかります。
ちょうど先週、ガリラヤ湖の岸辺で、イエス様が舟に乗られて群衆に話していたことは。
マタイ5章にある、山上の垂訓や ルカ6:20~の平野の説教と言われるものだと説教の中で話しました。
そして今日はまさにイエス様の平野の説教が聖書日課なのです。
私は次の日曜日に語る箇所を、日曜日の午後から詳しく学び始めて、一週間かけて説教準備をしています。もう少し計画的に何週間もやっておければいいのですが、一週間ごとに新鮮な思いで準備できたらと思い、全体的な学びはしていても説教準備としては、詳しく見るのはその時からです。そして一週間、特にその箇所を黙想しています。
ですから、今日が先週の説教で話した平野の説教になるとはわかっていませんでしたので・・・新鮮な驚きがありました。
イエス様がいつも群衆の皆さんに話していることを想像してください。
先週のように船の上からイエス様が群衆に話していることを想像してください。
6:17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。
これが平らなところで話された説教なので・・・・マタイ福音書の山の上で語られた山上の垂訓と比較して平野の説教とも言われます。
同じようなことを話されていたんだと考えます。
イエスは彼らと共に・・・とはイエス様はこの少し前に12弟子をお選びになりました。
6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。 6:13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
12弟子の名前は14節以降に書かれています。
ですから、12弟子と選ばれていない弟子たちも含めての彼らです。12弟子以外の弟子たちもたくさんいたのです。
イエス様が祈られた山から下り・・・平らなところにお立ちになった。
多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。
ツロやシドンと言うのはユダヤではない異邦人が支配する外国です。ただ、ここにきているのはツロやシドンに住んでいるユダヤ人であろうと思います。
ここで思うのは、そんなにしてまでイエス様のところに来ようとしている人たちは、きっといろんな苦しみがある人だと思います。
病気であったり・・・貧しかったり…虐げられていたり・・・生きる意味がわからず・・・・人間関係につかれていたかもしれません。
なんかすべてがうまくいっている・・・・私は何にも問題はない・・・私は神様に祝福されている・・私には罪はない・・神様の助けも必要ない・・私は立派に生きている。と言う人は少なかったように思います。
ユダヤの宗教的指導者である、律法学者やパリサイ人はいなかったような・・・彼らにイエス様は別のところで、こう言われました。
マル
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
これはイエス様の一貫した姿勢です。イエス様は丈夫なもののためにではなく・・・・病人のために来た。正しい人のためにではなく罪人のために来たのです。
6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。
6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。
こんな人々がイエス様の話を熱心に聞きに来ました。病気の人・・・・汚れた霊に悩まされていた人々・・・・何らかの癒しを必要としていた人々などです。
そんな中でイエス様は語り掛けられました。
6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
目をあげて弟子たちをみつめながら・・・・
別の訳では。イエスはおごそかに目をあげ、弟子たちを見つめて言われた(詳訳) それからイエスは、弟子たちの方を振り向き話始められました。(LB)
この言葉に少し注目しました。イエス様の話す相手は、群衆ではあるけれど・・・私は今まで漠然と群衆に向かって話していた・・・いわば伝道メッセージのように考えていましたが・・・弟子たちに向かって語られているという事です。
という事は、イエス様を信じ従っている弟子たちに向かっての言葉だと言えます。群衆の中にも、弟子たちと同じような気持ちで聞いている人もいたでしょう。
だがイエス様は話の相手として弟子たちを、ついこの前に12弟子として選んだ使徒たちを・・・またイエス様についてきている弟子たちの事を思いながら語っていると言えます。これは私にとって新しい気づきでした。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
びっくりするような言葉です。だれでも富んでいる方が幸いだと思うでしょう。みんなそれを目指しているでしょう。貧しい事がいいなんて誰も思っていないと思います。でもイエス様はそう言われる・・・。
ここで貧しい者という意味がいろいろあると言えます。
ここでは、ただただ貧しい。貧乏な者という意味ではないと言えます。
マタイの5章の山上の垂訓では、心の貧しいものは幸いです。と言っています。心の貧しいとは自分の愛のなさを知っている者。へりくだった者、自分に絶望している者・・・・そんな意味もあります。
詳訳聖書ではこの箇所を「弟子たちを見て言われた「あなたたち、富も声望も、地位も名誉もない。>貧しい人<へりくだった人(虐げられた人)は、祝福されている。<外側の状態にはかかわりなく、神の愛顧と救いにいのちの喜びと満足を得ているので>幸福である<うらやましい状態にある>。神の国はあなたたちのものだからである。と訳されていました。
いいかえれば
これは弟子たちへのイエス様からの祝福の宣言です。あなたたちはいろんな貧しさを持っている。でもそれ以上にあなた方は神の祝福を受けているものです。神の国は、天国はあなた方のものです。と言われているのです。
私は献身して・・・本当に貧しい時がありました。あれは厳しい・・・つらい・・・・毎日の食べ物にも事欠くような時でしたから・・・
主の祈りにある「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と言う祈りはまさに必死でした。
確かに富も名声も地位も栄誉もない・・・貧しい人でした。でも心の中はまさに
<外側の状態にはかかわりなく、神の愛顧と救いにいのちの喜びと満足を得ているので>幸福である<うらやましい状態にある>まさにこの喜びがありました。
イエス様に救われて神の子とされているという喜びがありました。
献身しなければこんな厳しさはなかったかもしれないのですが・・・こんな苦労に巻き込んだ家内に申し訳ないという気持ちもありましたが・・・家内はないならないで何とかなるし・・・・私は感謝してると言ってくれていました。
まさにヤコブ1:9
1:9 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。
これだけを読んでいると「武士は食わねど高楊枝」と言う言葉がありますが
これは武士と言うのは身分が高い、たとえ飢えてお腹が空いて苦しくても・・・もう一杯食べて満腹で、にこにこと楊枝を使っている。そんな姿で見栄っ張りな姿ですが・・・・。そういう事とは違います。
もっと心の中の喜びから出ているものです。
とはいえ、本当に貧しい事はつらいので箴言30:7~9はいつも祈っていました。
箴
30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
今回この箇所を読んでいる時に、弟子たちに向かってイエス様は語られたのです。という事がわかりました。ペテロさんたちに語られたのです。
選ばれた弟子たちはまさに貧しい人たちでした。何もかも捨ててイエス様に従った人たちです。でも天の御国はあなたたちのものです。との約束が語られるのです。
そして、ここは私にも語られていると示されて読みました。
6:22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
献身して仕事を辞めて、アルバイトで植木屋さんで働きました。それまでは監督の立場だった者が、そこで雇われて一番下っ端の作業員になりました。
その時、何で豊島は、キリスト教なんか信じて・・・こんなバカな苦労をしているんや。キリストさんが飯食わしてくれるんか?もっといい資格があるのに何でこんな下働きをしているんや。イエス・キリストと言う人が何でそんなにいいんや?と言われ、またキリスト教をけなされる時もありました。
でもその時私はこんなみ言葉を思いました。
Ⅰペテ
2:19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
でもその方々も、私が5年間働いた中で、キリストを信じることは全くなかったですが・・・私へのあざけりはなくなりました。
また本当に貧しくて食べられない時・・・・子供達だけは食べてもらいたいと考えて、祈って・・家内と祈って生活しました。
箴
17:1 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
こんな家庭だったと思います。
と言うのは私の独りよがりの考えではないかと思っていましたが・・・
家内も幸せだった。なんでも祈っている時の方が良かったと思うと言っていましたし・・・子供たちもその貧しさの中でも守られました。イエス様を嫌いにならないで育ってくれて事は何よりの幸いです。
イエス様の語りかけは続きます。
6:21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
実際その頃の私は瘦せていたんです。(皆さん想像もつかない・・育麦に来た時はもう太っていましたから。。。)
自分が食べるのは遠慮して・・・子供たち優先で・・
ところが神様の導きで・・・とりあえず・・・・献身をゆだねて(挫折してほぼ諦めたような状態になって・・・日々の生活を優先して 世の仕事について
稼ぎ出したら・・・・今までの反動か・・・あっという間に太ってしまい。糖尿病にまでなってしまいました。情けない話です。
ただこのみ言葉は実現しているなあと、変な感動をしています。
6:21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
これらの言葉はペテロさん、ヤコブ、ヨハネさんたち12使徒にも語られました。
彼らは、私なんかとはけた違いの迫害を受けたのです。
12使徒の内で、殉教しなかったのはヨハネさんだけだと言われています。そのヨハネさんもイエス様を信じるゆえに島流しに会っています。パトモス島という所で黙示録を書きました。
皆イエス様の名によって迫害を受けました。その他にも歴史の中で多くの聖徒たちがそのような人生を歩みました。
6:22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
それでもキリストにあって神の子とされる方がもっと幸いなのですとの言葉です。
また、今、この場にきて、イエス様の周りに押し迫っている群衆の皆さんにも、このことばは、語り掛けられています。
外側はたとえ貧しく見えても・・・うちに神様の救いと恵みがあることがどんなに大切かを教えてくれています。
ルカ
9:25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
たとい全世界を手に入れてもとは、あらゆる、富、名誉を得ても、神の子とされる素晴らしさには変わることができません。
ただ、群衆がイエス様の言葉を理解し、心に受け入れたかは疑問です。
多くの群衆の関心はイエス様からの奇跡、恵みに会ったのです。
6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。
6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。
群衆は、イエス様からの癒しの恵みに期待していた・・・まあご利益宗教と言われるようなものです。多くの群衆はそうだと思います。ただ中にはイエス様の言葉に導かれイエス様に従った人もいたでしょう。
基本的にはイエス様はこの話を弟子たちに向かって語られていたのです。
現代の弟子たち、それは教会に集っている皆様でありましょう。
外側の富とか名声・・・それ以上に大切な神の救いに心開き・・・・受け入れ 感謝し、喜んでいる人に語られています。
キリスト教に求道している人にも語られているのです。
イエス様がわたしたちに語られている真理なのです。
6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
逆にルカの福音書では哀れです。という事も言われています。
6:24 しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。
6:25 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
6:26 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ
預言者たちに同じことをしたのです。
これは、特に弟子たちにではなく、当時の権力者たち、宗教指導者、律法学者、パリサイ人のために言われていると考えられます。
弟子たちには幸いであると述べ、ここにそうではない人への警告が述べられています。
この箇所をLBでは
これとは反対に、金持ちどもを待ち受けているのは悲しみだけです。彼らの幸福はこの地上限りのものだからです。肥え太り、今は栄えていても、やがて恐ろしい飢えの日が来れば、彼らの馬鹿笑いは、一瞬にして悲しみに変わるでしょう。ほめそやされる人は哀れです。偽預言者はいつの時代でも、そのような扱いを受けたからです。
と意訳されています。これは当時の金持ちたち、に言っているとも考えられますが・・・・今、イエス様が弟子たちに向かって言われていることを考えれば・・・・
イエス様の弟子たちへの警告でもあると考えます。
今は、あなた方は貧しく、飢えている・・・・そんな時は神様に必死で祈り。神様から恵みを与えて下さり・・・信仰が健全だが
あなた方がこの世的にうまくいった時・・・そこに落とし穴もあるよと言う警告でもあります。
30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
私達は食べ飽きる時、人々にほめそやされる時・・・主から離れてしまう事もあるのです。
人間って、本当に弱い難しいものです。よくある話で新婚時代、何にもなくて、二人でリヤカーを押しながら必死で商売をして・・・・その時は、夫婦は貧しいながら助け合っていたのに・・・商売がうまくいって、お金がいっぱい儲かるころから・・・旦那さんが浮気して・・・家庭が崩壊した。あの貧しい時が良かったというのはドラマの定番です。
キリスト教の歴史を見ても、迫害の中でキリスト教は主を信じ、主に信頼し、忍耐と希望を持って、神の国を望んで生きてきました。しかし、キリスト教が認められ、
教職者は豊かになり、人々から褒められる時・・・ローマカトリック教会は堕落した時があります。 それは私達にもあります。
まあ、幸い堺育麦キリスト教会は、富んでいることもないんですが・・・・いつも必死の祈りですが
私なんかは少し食べ飽きるほど食べています。人から最近は褒められる事もあります。
これは、警告ではないかと祈らされます。
皆様はどうでしょうか?
今日の聖書日課の箇所を弟子たちに向かって語られたみ言葉。それは現代のキリストの弟子である、教会に集う皆様に向かって語られたみ言葉。
私に向かって語られたみ言葉と信じて黙想し、味わい、生かされていきましょう。
イエス様はあなたに向かって語られたのです。
6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
祈り