2022年 1月9日 礼拝説教

説教題「「イエス様も洗礼を受けられました」

聖書箇所 ルカ3:15~17,21~22

ルカ

3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、

3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

ルカ

3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

おはようございます。

新しい年が始まりました。年末年始のお休みも終わって、職場に初出勤、学校でも勉強が始まります。

世間もお休みモードから通常モードへと変わります。

皆様はいかがでしょうか?

休みが終わってコロナの感染者数が一気に増えているのが心配です。

先週、今年2022年の目標聖句についてお話をしました。

ヨハ

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

読めば読むほど、黙想すればするほど・・・・・素晴らしいみ言葉であり・・・理想でありますが・・・・難しそうであり・・・・また楽しそうな・・・希望にあふれたみ言葉であります。

この一年、どんな風になるか楽しみであります。

2月13日に信徒総会を開いて、その時に今年の教会の計画などを話し合いたいと思いますが・・・・

とりわけ今は互いに愛し合いなさいという言葉を考えながら、私もアイデアを練っています。皆さんもなんかこんなことをしたいなあ・・・とか、私はやってみたいなあという思いがありましたが、検討しておいてください。

私は、互いに愛し合うためには、お互いの交わりの場、話し合いの場がまず必要かと思います。願わくば食事をしながら・・・賛美をしたり・・祈ったり・・・

まず知ることから互いの必要もわかるかと・・・

そんな事で、いくつかアイデアを持っています。

平日の夜にZoomでの祈祷会を始めたい。

食事と交わりでは コロナの事もありますが、月に一度の誕生・受洗記念会はぜひ復活させたいと願っています。

牧師の部屋

皆様もまたご意見よろしくお願いします。

さて聖書日課に入ります。今日は主の洗礼主日礼拝です

イエス様はガリラヤのナザレで、神と人とに愛されながら育ってきて、成人し 約30歳になった時、神様の働きに尽きます。公の生涯、公生涯の始まりです。

そのスタートの日が今日の主の洗礼日主日です。

私たちの信仰生活のスタートも洗礼から始まります。

イエス様の救いを求め、信じた時がスタートでもありますが、聖書にはマルコ16:16に

16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。

とあります。信じたものがバプテスマを受けることは自然の流れであります。

私は以前の教会では、信じるだけで救われるという立場でした。

確かに、いろんな環境があり、洗礼を受けることは大きな迫害になるところもあります。

ですから信じるだけで救われているというのは間違いではないと思いますが、信じたものがバプテスマを受けるという事は当たり前の事であります。

そしてバプテスマを受ける時、聖霊が注がれ、救いが確実なものになるのです。

洗礼と言うといつも証しすることでありますが。

私はこのことで、ルーテル神学校で正木先生と議論をしたことがありました。

それは太田頌子さんのお母様、美濃ヨシさんの事が頭にありました。

もうお年ですし、今更洗礼を受けなくても、ご本人がイエス様を信じておられると言って

おられるのならそれでいいではないですか。と思っていました。

正木先生はいや信じているものは洗礼を受けて救いが確実になると言われました。

私はそれまで、道子と一緒に美濃さんの所に紙芝居をしに行ったりしていました。美濃さんがイエス様を信じておられるようなので、洗礼までは勧めなくてもいいと勝手に思っていました。断られたらどうしよう・・・・という恐れもあったからです。

でもその授業のあと、心を定めて祈って、恐る恐る美濃さんに洗礼を勧めました。

こういう時はドキドキするものです。

すると美濃さんは、洗礼を受けますと言われました。

感謝でした。

そして洗礼を受けられました。

受けられてからの美濃さんのお顔は今まで以上に輝いたように思います・

洗礼というのは人を変えると私は確信しました。

多くの方の姿を思い出しますが、とりわけ私は、洗礼の恵みを覚える方に川上喬一兄を思い出します。礼拝に来ても認知症のようで、失礼ながらあまりわかっておられないようにお見受けしていました。帰りには自転車のカギがなくなったと言って困っていることが良くありました。

そんな川上さんが洗礼を受けたいと言われて、洗礼を授けて・・・・その変化にびっくりというか・・・神様はなんと素晴らしいことをするのか・・・と神様を畏れるものでした。顔が輝いていました。中川さんもがんで死ぬ前に洗礼を突然受けられました。

そしてまさに顔が輝いて、すぐに4日後に召されました。

でも洗礼を受けられてからの中川さんはまさに輝いていました。

昨年の12/26に豊島昭二兄の洗礼の時の証しを読ませていただきましたが・・・その恵みは50年続いたのです。

自分の時は、そんなに変わったようには思わなかったのですが、洗礼というのは私の決断ではなく、洗礼によって神様からの恵みと救いがあるという事です。

ある人が、あなたは救われているというが本当か???あなたの生活を見たら、救われていないんじゃないの・・・クリスチャンとして大丈夫?とか言われる時があります。

自分でも本当に自分は救われているんだろうか?と不安になったり信仰がぐらつく時があります。

そんな時、毅然として対抗できるのは、み言葉です。

確かに私はクリスチャンとして人間もできていなくて、ふさわしくないかもしれません。

でも私は主にあって洗礼を、バプテスマを受けています。

16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。

と書いていますから・・・・。と言えるのです。

教会では、洗礼と聖餐式だけが聖礼典というものです。ここには神の言葉と共に神の力が働く、神聖な厳粛な礼典であるのです。

これを信じ受け入れるかどうかは、その人にかかっています。

神の子であるイエス様が、その公生涯のスタートに洗礼を受けられました。これは私たちの洗礼とは意味が違います。

どういう事でしょう。

聖書日課を読んでみたいと思います。

イエス様の前に、イザヤ書の預言にもあったように、荒野に道を備える者としてバプテスマのヨハネが登場しました。

彼の語る神の国への言葉に多くの人が悔い改めて神様に立ち返ろうとバプテスマを受けに来ます。

3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、

民衆はバプテスマのヨハネが預言されてきていた救い主キリストではないかと考える者も出てきます。民衆はキリストを待ち望んでいました。

それに対してバプテスマのヨハネははっきりと私ではない!

私は道備えをするものだ!と宣言するのです。

3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

3:18 ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。

そしてこのヨハネはヘロデ王にとらえられます。

3:19 さて国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行った悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、

3:20 ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。

この後、先日お話ししましたが、宴会の余興のような形で首をはねられ殺されるのです。

その牢屋に入れられる前の事です。

まだヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた時のことです。

3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

民衆がバプテスマを受けていた頃・・・イエス様も特別待遇ではなく、民衆と同じようにバプテスマを受けに来られました。

バプテスマのヨハネは気が付かなかったのでしょうか?

ヨハネは人々がヨハネこそ待ち望んでいた救い主キリストではないか?と人々が思い始めた時から、ずっと私よりももっと素晴らしい方が来られる!!本当の救い主が来られると話していました。

3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

その方がバプテスマを受ける列の中におられた、紛れ込んでいた・・・・。

ルカの福音書ではさらっと書いています。

マルコ福音書でも

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

さらっとです。

ただマタイの福音書にはもう少し詳しく書かれています

こういう時4つの福音書を読み比べると、物事が立体的に見える事があります。

見方が変わるとよりわかりやすくなるのです。

マタ

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

ここを見るとバプテスマのヨハネはイエス様に気づいて

私こそあなたから受けるべきものですと言っています。

この時、イエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」

と言われています

確かにバプテスマのヨハネは人間としては素晴らしいけれど、イエス様と比べれば、まあ格が違います。

イエス様の靴の紐を解く値打ちもないと言われるヨハネがイエス様に洗礼を授ける事なんかはおこがましいと言えばおこがましい事です。

将来的にはヨハネもイエス様によって救われるのですから・・・・

でも今はそうさせてもらいたい。とイエス様は言われます。

イエス様は、今はそうさせてもらいたい。これはイエス様が人の子 人間と同じようになられた姿です。

イエス様は神の子として超越した存在で人を救おうとされたのではない。人間として人の受けるあらゆる苦しみ試練の中で生きながら、人に寄り添い、人と同じようにして生きていく。そしてその先には人間のすべての罪を背負って、身代わりとして死んでいく十字架があるのですが・・・・

そのスタートとして彼は洗礼を受けたのです。

ピリ

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

またイエス様はバプテスマのヨハネを通して神様が働かれているわざ。この洗礼の儀式を大切にされました。

宗教改革の時代 洗礼を授(さず)けた人が信仰を失うという事がありました。迫害の中でキリスト教を捨てたようになった人です。

その時、その人から受けた洗礼は無効なのか?という議論がありました。

現在でも洗礼を誰かから受けます。例えば私が誰かに洗礼を授けます。

そして私が悪いことをして捕まったとします。

そうすれば罪びとの豊島先生から受けた洗礼なんか意味がない。もう一度洗礼を受けなおさなくては・・・と言う考えが起きたり、私の受けた洗礼は授けた人が悪いんだから意味がないんではないか??と心配になる人もあるでしょうか?

洗礼を授けた牧師が今は信仰を持っていないという事も時々あります。

でもイエス様は、洗礼を授ける人を見ていたのではないんです。

確かにバプテスマのヨハネはイエス様よりも格下かもしれません。

もしここに神学校を出たての若い牧師がいて、人生経験の豊富な立派な紳士が洗礼を受けることになるとして

私はこの人からは受けたくない。もっと立派な人から受けたいというならば・・・それは神様の恵みの手段である洗礼を間違って取っています。

洗礼は確かに授(さず)ける人は重要ではあるかもしれませんが、最重要ではない。

洗礼は私たちが神様の前に行き、まさに神様からの恵みと祝福、救いを得る時なのです。私の力ではなく、神様の働きの時なのです。

その模範としてもイエス様は、今はそうさせてもらいたい。とへりくだり、人間と同じように洗礼を受けられました。信仰のスタートを切られました。

そのことを通して、神様はイエス様を祝福されました。このイエスは私の愛する子である。神の子であるとの言葉をかけられました。

3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

この言葉は、イエス様にかけられた言葉です。神の子という事は隠しながら、人の子として生きてきた30年。いまはっきりとイエス様は神の子であり、人の子としての歩みを明確にしていく機会となったのです。

そういう意味でこの洗礼は大切な時でした。そしてなくてはならない時でした。

今、私たちが洗礼を受ける時。イエス様とは違いますが、イエス様と同じように私たちにも聖霊が下り、同じように声をかけてくださるのを私は信じます。

3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

自分が受けた時はそんなことはわかりませんでした。でも信仰生活が長くなるといろんな体験の中で、人が本当にクリスチャンになって変わっていくとき。

あああの洗礼の時があったな・・・・と思うのです。

いろんな方々の顔を思い浮かべます。みな顔が輝いていったことを思い起こすのです。

まことに不思議な神様のわざです。

主の洗礼日。

主イエス様の公生涯のスタートでした。

人間と同じようになられてスタートされました。

神様はそれを喜びこれは私の愛する子。私はこれを喜ぶと祝福されました。

私達も、同じように信仰のスタートを切らせてくださいと祈るのです。

洗礼はゴールではありません。スタートです。ですからすべてがうまくいき。いい事ばかりという事はありません。でもイエス様と一緒に信仰の道を歩みだすスタートなのです。

「今はそうさせてもらいたい。」とイエス様も言われたのです。

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