2022年1月23日

説教題「いつものように会堂で」

聖書箇所 ルカ4:14~21

4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。

4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

おはようございます。

コロナ感染拡大 特にオミクロン株の感染は、もう避けられないような身近に来ています。

どんなに気をつけていてもかかる時はかかると言う感じ。

でもかかってしまったらいろんな人に迷惑をかけるし・・・できればかかりたくない。

でも、どうすればかからないのかもわからない。じっと一人で引きこもっていたら大丈夫かもしれませんが・・・それでは他の病気になりそうです。

日本中が不安の中にいます。つい一か月前は堺市の感染者0と言う日もあり。日本中になぜかはわからないけどコロナの驚異は減っていました。

それがあっという間です。

今は、大阪も大変な数になっています。

日曜日に教会の礼拝を開くことも、危うい状況にすらなって来ています。

吉村先生は、電車が怖いので自宅での礼拝になりました。髙橋愛美さんの学校が閉鎖になっているそうです。それに伴って高橋家、小谷姉、皆さんは、今日は

自宅で礼拝を持たれます。

ただ本当に怖いのか?と言う考えもあります。現在のところオミクロン株は重症になる方は少ないようです。

これで対面礼拝を休みにしたら全く去年と同じです。

何か違う方法があるのでは・・・と日本社会も、会社も学校も・・・家庭でも皆さんが考え悩み・・・不安にもなっているという現状であります。

私の個人的な見解は。注意はするけど、必要以上の心配はしないと言うものです。世間が心配して心配して・・・不安の中に暮らすよりも、第一コリント10章13節です。

Ⅰコリ

10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どんなことになっても主に信頼していこう。大丈夫!!たとえ感染しても脱出の道は備えられていると信じているのです。

今日の箇所はイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受け、公生涯のスタートを切られ、すぐさま聖霊に導かれてイエス様は荒野に行かれます。

神様のイエス様への訓練です。

ルカ

4:1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、

4:2 四十日間、悪魔の試みに会われた。

ここで荒野の誘惑という事が起こります。

悪魔はイエス様に誘惑を行います。ここでは簡単に見てみます。

1つは空腹の絶頂にあるイエス様にあなたの力を使ってこの石をパンに変えなさい。というものです。人の食欲と言う本能に訴えてくるのです。ここで先週の暗唱聖句でありました。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』の言葉が語られます。その他、悪魔に従うならこの国の全部をあげようなどとイエス様を試み、イエス様に神様の働きをさせないようにします。

私達だったらすぐにやられてしまうような誘惑をイエス様は忍ばれたのです。

ヘブル

4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は、私達の弱さもご自分が受けられた試みであったゆえにわかってくださる方なのです。

ルカ

4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。

そしていよいよここからイエス様の本格的な公生涯の働き。福音宣教の働きが始まるのです。

4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。

4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。

ガリラヤと言うのはガリラヤ湖の西北部です。カペナウムを中心としたイエス様の本拠地みたいになるところです。

イエス様は多くの奇跡を行いながら人々に語られるのです。

イエス様はガリラヤ地方の会堂で教え、みなの人にあがめられた。とあります。

そして生まれ育ったナザレの町にやってきます。

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

この場面を想像してください。私もできる範囲でこの時の様子を想像してみます。

まず気になったのは いつものとおり安息日に会堂に入り、

そうなんです。ナザレはイエス様の生まれ育った町・・・そこの会堂には小さいころから安息日には通っていました。信仰深いイエス様。まさに安息日にはいつもの通り会堂に入ったのです。

この当時、会堂には会堂管理者がいて、世話役みたいな人です。

律法学者のような偉い人がいる時はその人が話をする。

旧約聖書が読まれて、それの解き明かし、説教を誰かにやってもらう。

ただ今でいう説教よりも、聖書の朗読の方に重きが置かれていました。

聖書は大きな巻物のようになっています。それが安息日には読まれていたんです。

今日は久しぶりに会堂に来たイエス様。今ガリラヤ地方一帯で評判になっているイエス様に朗読してもらおうという事になったのは不思議ではありません。

その当時の旬な人だったんです。

旧約聖書が手渡されました。

4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

会堂では安息日ごとに聖書が朗読されていました。今でいう聖書日課みたいなものです。聖書は巻物になっていて今日はイザヤ書でした。たぶん今日の箇所がイザヤ61章のイエス様が朗読された箇所だったと考えられます。

見つけられたという言葉から、ひょっとして今日は、イザヤ書は間違いないけど、開けていてこの箇所を見つけられた・・・とも取れますが。

今日読むべき箇所の近くであったと考えられます。

イエス様は人々の前で朗読をします。みなは聴いています。

み言葉に飢え乾いて・・・聖書の朗読を心開いて・・・求めて聞いている人もいます。マンネリになっている人もいます。毎週の習慣で、み言葉に何の期待もしていない人もいます。(毎週の私達の礼拝の姿勢を思います)

昔、イスラエルがバビロンという国に捕囚になっていて・・・その捕囚の民がイスラエルに帰還できて、聖書の朗読がされた記録がネヘミヤ記にあります。

ネヘ

8:1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、【主】がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。

8:2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、

8:3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。

8:5 エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。

8:6 エズラが大いなる神、【主】をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して【主】を礼拝した。

8:8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。

8:9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、【主】のた

めに聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。

この時、人々は聖書の朗読を、涙を流し感激し、心燃やされて聞いていました。

イエス様の時代 人々は毎週、安息日に朗読される聖書の言葉をどんな思いで聞いていたのでしょうか?

今、私達はどんな思いで聞いているでしょうか?

読まれた箇所はイザヤ書61章です。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

これはキリスト(救い主)の到来の預言です。ここに言われるわたしという方が

貧しい人々に福音を伝えるように

捕らわれている人(牢屋に入れられている人)違った意味で何かにとらわれている人もいます。 その人には罪が赦されて捕らわれの状態から解放されることを

盲人には目が開かれることを

虐げられている人・・・・自由に

神様の大いなる恵みを伝えるために

わたしと言う人に主が油を注がれた・・そして人々に遣わされる・・・・。こんな素晴らしい事が起こるよ!!!と朗読されてきた。

この朗読がされる時、人々の反応はどうなんでしょうか?

私たちに当てはめたら、毎週、聖書が語られている時・・・私たちはどんな気持ちでそれを受け取っているんでしょうか?

毎週、ワクワクして聞いている人

ああ、それ知ってる。もう何回も聞いた。と思う人

こんな素晴らしい預言があるけど・・・約束があるけど・・・・まだ何も変わらない。

もうこれからも変わらないんじゃあないかな・・とあきらめらながら聴いている人。

いやいや聖書の約束は、いつかきっとなると信じて聞いている人。

飢え渇いている人

み言葉を真剣に求めている人・・・

それは案外喜びの中や順調な中でいる人よりも苦しみの中にいる人の方がみことばが届くように思います。

今、コロナ禍の中で、いろんな不安を抱えながら、会堂に来て・・・毎週のように語られる聖書の言葉を、今までとは違う思いで・・・神様の愛を求めて、導きを求めて聞いている人もいるでしょう。

苦しみ、不安は私達の心を霊の目を開かせてくれるのです。

119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

今、イエス様が手に取られた、このイザヤ書が読まれる時

貧しいもの、捕らわれの身である者、目が見えないもの、虐げられているもの・・・そのような人にとってこのみ言葉は希望の言葉でした。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

でも、そのみ言葉への信仰には4つの種のような事が起こります。

固い道端のような心の人に蒔かれた種は鳥に食べられてしまいます。

求めるものが受け取るのです。

私はこのみ言葉を聞いている時・・・確かに神様の約束はあるけど・・・・それはいつの事になるかわからんなあ・・まだまだ先だろう。そうなったらいいのになあ・・・と言う気持ち 不信仰と言えば不信仰・・・でもいつもいつもみ言葉に熱く興奮するような心ではないように想像します。

少しマニアックな歴史の話になりますが、

その中でも、最も印象的な逸話です。

江戸時代、長州藩毛利家。萩のお城での秘密の儀式です。

元旦になると、早朝、首席家老がお殿様の寝室に来ます。

「殿、徳川征伐の準備が整いましたが、いかが取り図りましょうか。」

すると殿様は、

「まだ機が熟しておらぬ。」

これが明治になるまでの280年、毎年、延々と続けられた秘密の儀式です。

関ヶ原の敗戦により、中国120万石から防長2国37万石に減封。

この恨みから元旦の儀式が行われていたとのことです。

この話の中にはいつか長州藩が江戸幕府を倒す時が来るとの願い、恨みがあり、希望があります。

しかし、毎年ともなると半ば習慣、ただの儀式になっている・・・部分もあり、

そんな討幕なんてことは起こりもしないと言うおもいもあり・・・・・

しかし、毎年続ける中で、いつまでも待ち続けると言う長州藩の信仰みたいなものを感じます。

ユダヤの会堂で、毎週安息日に律法が朗読され、イザヤ書も三年に一遍は必ず読まれていた箇所。

そこには今年も来ないけれど・・いつか救い主がこのみ言葉通りに来られる・・と言う信仰と。もう長い間朗読されてきたけどそんな事は起こらないだろうと言うあきらめのような思いもあったように思います。

そして今日、イエス様がその箇所を、自分たちの救い主が来られるという預言を読まれた時。

今、現在、ガリラヤ地方で皆の人にあがめられているイエス様はなんと言われるのだろうか?

と人々は真剣に言葉を待っていました。

4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

この素晴らしい預言にイエス様はどうこたえられるのか??と見守る中で

驚くべき言葉がイエス様から語られたのです。本当に腰を抜かすほど驚くべきことが語られたのです。

4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

このイエス様の言葉はどんなことを意味しているんでしょうか?

簡単に言えば、皆さんが待ち望んでいた救い主キリストは私です。

私がこの主に油注がれたもの・・・者なんです。

私によってこのみ言葉は、実現するのです。いや実現したのです。という事です。

4:18 「わたし(このイエス)の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたし(いえす)に油をそそがれたのだから。主はわたし(イエス)を遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

こんなことを言う人がいたらどうでしょうか?

私はキリストです。この聖書に書いてある人が私です。と言っているんです。

反応としては二つ

この人は気が狂っている。おかしい人だ。

もう一つは確かにこの人だと信じる事です。

普通は、信じられない・・胡散臭い話だ・・・この人は気がおかしくなっている・・と考えるような気がします。

もう長い間聖書には預言されているけれど・・・キリストがいつか来られるとは信じているけれど。今目の前にいるこの人がキリストだと証言している。

びっくりしたでしょう。

それは、それまでにも偽預言者がいっぱい現れて、私こそキリストだ!と言う人はいっぱいいたからです。

オウム真理教の麻原彰晃と言う人も、私こそキリストだ!!と言って書いていた本を見たことがあります。麻原彰晃があの太った体で十字架にかかっているイラストを見たことがあります。

これはイエス様を冒涜しているとクリスチャンになっていた私は怒りましたが、それを信じる人もいたのです。

今日、ナザレの町の会堂でイエス様が語られた事は、世界を変える、重大な宣言がされたのです。

イエス様が、聖書が預言してきた救い主キリストだと宣言したのです。

毎週のように変わらず…いつものように会堂に来た人々はイエス様からの驚くべき宣言を聞いたのです。

主の恵みを聞いたのです。

今日の聖書日課はここで終わります。

これを聞いた人々の反応は来週の聖書日課になります。

今日私たちは、いろんな思いを持って、いつものように教会の礼拝にやってきました。とりわけコロナ感染拡大の中で不安も抱えてやってきました。

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

そこで驚くべき宣言。今目の前におられるイエス様が・・・私たちが待ち望んできたキリストであるという事を聞いたのです。

その恵みにあずかったのです。

私達に備えられた主の恵みを聞いたのです。これはすごい事ではないでしょうか?毎年毎年語られた、朗読されてきたみことばが・・・長州藩の話で言えばもう270年も夢物語のように、ただの儀式のようにしていたことが。実現したのです。

ナザレの会堂にいた人たちは歴史の大きな分岐点に立っていたのです。

4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

今日ここに集う私たちも、み言葉を通して、私のために救い主キリストが来てくださっている。それはもう実現している。

それをあなたは信じて受け入れるだけでよい。その招きにこたえるように招かれているのです。

それは「いつものように会堂で」 起こるのです。

祈り

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