2022年12月18日

待降節第四主日説教

説教題「イエス様の父・ヨセフの信仰」

聖書箇所 マタイ1:18~23

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

おはようございます。

待降節第四主日です。

来週はちょうど日曜日がクリスマス礼拝です。

アドベント第一主日の11月27日から四本のろうそくを立てて、毎週1本ずつ火をつけていきます。

いつもなら待降節の日曜日が3回あり、3本のろうそくに火がついて その次の日曜日がクリスマスということになります。

しかし暦の関係で珍しいですが、今年は待降節が第4主日まであり、その次の日曜日がクリスマス礼拝になります。今日で4本のろうそくには火がついてしまいましたので

クリスマスには四本のろうそくではなく特別に大きなろうそくに火をともすことを計画にしています。

本日は、待降節第四主日

待ち望むとき、先駆け者バプテスマのヨハネに続いて。先週はイエス様の母マリヤさん。そして今週はイエス様のお父さん。これは正確には。イエス様は聖霊によって身ごもっ

たので、マリヤさんの旦那さん。イエス様の育ての父親であるヨセフさんの事について学んでいきましょう。

多分この時期しか語ることのないヨセフさんです。これも恵みと思います。

今日の聖書日課はマタイの福音書です。

新約聖書の一番初めです。

マタイの福音書。

キリスト教に興味を持った人が、さあ!!聖書を読んでみてみよう!と、最初に開けた新約聖書のトップがマタイ福音書です。

小説ならば、読者の気を引くために作家が最も考え、推敲し、渾身の力を込めて描く書き出しです。

吾輩は猫である。名前はまだない

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった・・・ それだけで引き込まれます・・・。

司馬遼太郎の竜馬がゆくは、竜馬の生まれた時からでなく、竜馬が江戸留学するところから始まっています。

その書き出しによって作者の意図するところがはっきりと出てくるのです。

マタイ福音書は、なんと系図から始まります。

マタ

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

マタイ福音書は旧約聖書の中で生きてきたユダヤ人への福音書だと言われます。その中で一番重要なのは、イエス・キリストは神様から預言された方。旧約聖書の中でずっと預言されてきた方であり。まさに預言が成就した救い主だという事です。

だから系図が重要なのです。

ちなみに四つの福音書を見てみると

マルコは

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 (イエス・キリスト神の子。福音)

ルカは

1:1 2 私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。

ルカは、起こった出来事を忠実にレポートとして報告します。と言う報告書タイプです。

ヨハネは

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

創世記の初めに神が天と地をつくった・・・・にも似ている壮大で詩的な文章から始まっています。ちなみにこの言葉と訳されているギリシャ語のロゴスは、尊きもの。賢いもの・・イエス・キリストを当てはめると意味がわかります。

で、マタイの書き出しはイエス・キリストの系図

作家の三浦綾子さんが新約聖書入門で・・・・。なんで神様は聖書を読むのにとっつきにくくされたのか・・・・さあ読もうと思っても最初から知らない人の名前ばかりが出て、今日の聖書日課の前1:17まで読んでいるうちに嫌になってしまいます。

書き出しをもっと面白く興味深くしてくれたらいいのに・と思いました。と素直に書いていました。

初めて聖書を読む人が、日本人がまずマタイを開いて1:17までを真剣に読めたら・・・・それはどっかおかしい人かもしれません。

しかしです。系図に興味がある人。特に旧約聖書に子供の頃から親しんできた人たち。一般のユダヤ人も含めて、この系図は非常に興味深いと思うのです。

私も旧約聖書を結構学びましたので、アブラハムから1:11のバビロン移住の南王国の王までの事は聖書にも書かれているのでわかります。非常に興味深いです。

マタ

1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

バビロン移住までは聖書に明確に書かれているのです。

ですからユダヤの人はこの系図だけで、それぞれの人が浮かび、心躍らせるものなのです。

ユダヤの国はバビロンに負け、移住してからの彼らは王国もなく、苦労するんです。

バビロン移住から14代の人はほぼ知りません。

でもダビデの家系を下ってくれば、イエス様のお父さんヨセフに行き当たるのです。

マタイはここが特に強調したいのです。

ここに出てくるヨセフはダビデの末裔だ。

という事です。

マタ

1:15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、

1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。

ヨセフはちゃんとしたダビデの家系である。それは預言された救い主の大きな条件の一つです。それをまず明らかにしたかった。

当然マリヤからイエス様は生まれ、ヨセフは義理の父ですが。それでも男系の血筋を大切にするユダヤの国では、戸籍上の父が大切。イエスがダビデの家系であるという事が証明されるという事が大切なのです。

それではイエス様は戸籍上だけのダビデの子孫。血はつながっていないのか?と言う疑問も出てきますが、それはルカの福音書にはお母さんのマリヤの系図もかかれていて、マリヤもダビデの子孫という事がわかります。

とにかく、ここで強調しているのは、イエス様は約束されたメシヤ(ヘブル語で救い主・ギリシャ語でキリスト)であるという事です。

ただダビデの子孫、南王国の王様の子孫も14代、後になるといろんな人が出来。いまや王家の子孫とは言われない、貧しい大工さんであるヨセフさんもダビデ王の子孫なのです。

このマリヤの夫となったヨセフさんの生涯を見てみますと。

聖書にはあまり書かれていない。

イエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれる時、当然優しくマリヤを見守っていました。

その後、ヘロデ王に幼子の命を狙われるという事件が起こった時。神様の導きでエジプトに逃げます。

見も知らない異国へ小さな子供を連れて逃げていく。そのリーダーはヨセフです。

マタ

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、

2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。

そして異国での生活を頑張り

マタ

2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。

2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのち

をつけねらっていた人たちは死にました。」

2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。

2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。

2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。

ヨセフは一家を引き連れて、ガリラヤのナザレに住み(結構、田舎町)大工として一家を支えるのです。私の両親は私が生まれてすぐに、まあ夜逃げみたいな形で、香川県の豊浜町という所に住みました。周りには親戚も誰もいませんでした。

それも大変だったと思います。でもヨセフは頑張りました。

イエス様が12歳の時にエルサレムへの宮詣の記事が聖書に載っています。

ルカ

2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。

2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。

2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、

そしてヨセフとマリヤとの間には少なくとも七人の子供がありました。

仲睦まじく、イエス様や子供たちを育てた信仰深い立派なお父さんであったと思われます。

残念ながら聖書にそれ以外にヨセフの記録はなく、イエス様が公生涯(バプテスマのヨハネから洗礼を受けてから始まった公(おおやけ)の生涯です)につかれた頃にはなくなっておられたと考えられています。イエス様の公生涯は30歳から始まっています。

まさに幼いイエス様を大人になるまで育ててくれた人でした。

先週はイエス様の母となられたマリヤさんの事を学びました。

今日のヨセフさんは母マリヤが聖母マリヤとあがめられるのから考えると、本当に目立たない…ともすれば忘れさられそうになる・・・・地味なキャラですが。

救い主イエス様の幼少期を。命を張って育てた大切な方であったのです。

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

そのヨセフ。いいなづけのマリヤがいて幸せの絶頂の中で・・・・まだ二人が一緒になる

前にマリヤが身重になった、妊娠したことが分かったのです。

これは大変な事態です。

まだ結婚をしていない娘が、子供ができるなんてことは考えられないことです。

現代でこそよくありますが・・・・・

日本でも戦前はそんな事はあってはならないことでした。

まして律法に厳しいユダやの国で。結婚前の娘が妊娠するという事は姦淫の女という事で石打にさえなりかねません。

またヨセフはマリヤとまだ結婚していないのに子供ができるという事は・・・それは私の子供ではない・・・・・彼が一番わかっています。

マリヤが聖霊によって身ごもったなどという事は考えもつきません。

皆さんでもヨセフの立場になるとそうでしょう。

マリヤの戸惑いは良く説教で語られます。

ルカ

1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

マリヤの戸惑いがあり、やがてマリヤが

神とって不可能な事は何一つありませんということばに応答して

ルカ

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

クリスマス物語ではこちらの方が良く読まれているし有名なような気がしますが。

マタイの福音書では実はマリヤの事は書かれていないのです。ヨセフの事だけに焦点が当たっているのです。 面白いですね。

ヨセフの葛藤 そこから出た結論…悩みに悩んだ結論は

1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

何とかして愛するマリヤを助けたかった・・・・・。でも誰の子かというヨセフ自身の苦しみもあったと思います。

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであ

った。

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

マリヤに告げられたように、ヨセフにも神様は告げられたのです。びっくりしたでしょう!!でもホッとしたでしょう。

神様ってすごいですね。マリヤにだけ語ったのではなく、ちゃんとヨセフにも語られたのです。

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

この方はただの方ではないよ。ご自分の民をその罪から救ってくれる方です。

救い主です!!!と宣言されるのです。

驚くべき話です。信じがたい話です。

しかし、ヨセフはこの言葉を聞き信仰に立ち、イエス様の父として生きようと決心するのです。

男らしいじゃあないですか。世間がなんと言おうとマリヤを妻として迎え入れるのです。

マタ

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、

1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

ここにもまた、バプテスマのヨハネとは違うけれども、母マリヤとも違う、なくてはならないヨセフさんが起こされるのです。

イエス様を育てていくヨセフさんがいるのです。

待降節の中で、救い主イエス様がお生まれになりました・・・その嬉しい知らせの前に・・・・葛藤しながらも神様のご計画を聞き、信じ、それに生きたヨセフさんがいたのです。

ヨセフさんはイエス様の公生涯の時も知りません。十字架も復活も生きているうちには知りません。

しかし、この生まれてくる子は

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

自分たちの救い主となる方であると信じたのです。

マタ

1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

ここにヨセフの信仰を見るのです。

その子供の名を、み使いの告げられた通り イエスと名付けたのです。

私も親として自分の子供に名前を付けましたから、名前の重大さはわかります。ある意味名前は親の願い、信仰の現われです。名前は一生変わりませんから、ヨセフがわが子をイエスと呼ぶたびに、いつもは思わなくても、主の使いからの言葉を思い出すでしょう。

「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

そして自分はそれを信じて、この子にイエスと名付けたという信仰に立つのです。

ちなみに私の長女の時は、教会に行きはじめ、まだ信仰を持っていませんでした。その名前「真理」は父、昭二兄がつけてくれました。よくわかりませんでしたが聖書からの言葉でいいなあ・・・と思いました。

二女の輝美は洗礼を受けた後、祈っている時に「光の子供らしく歩みなさい」エペソ5:8を示され、光の軍隊と言う字で輝くを示され、この子は光の子供らしく歩んでほしい。そして輝くならば美しい・・・と、つけました。美しく輝いてほしいというのではなく、光の子らしく歩んでほしいとの切なる願いからの名前です。

道子は、私はみちであり、真理であり、いのちですヨハネ14:6から道とはキリスト

そのイエス様の子となってほしいと、道子とつけました。

名を思うたびに、み言葉が浮かんできます。

ヨセフもそうだと思います。ヨセフの生涯でのいい時も悪い時も、このイエスと言う名前で神様を思い、信仰に歩んだと信じます。

私達の人生でも神様から私達への導きやチャレンジがあります。

どう考えたらいいか悩む時があるでしょう。苦しむ時があるでしょう。

でもですね・・・・じっと思いめぐらしている時・・・祈っている時。。。きっと神様があなたへの導きを語ってくださると信じるのです。

その方法は人によって、状況によって違うでしょう。

友達のことばからかもしれません・・・説教から・・・自分のデボーションから・・・

とにかくどのような方法でも私が体験していた中では、そこに神の言葉、聖書の言葉があるという事です。

きっと神様は聖書の言葉を通してあなたに語ってくださいます。

そういえば私が名前を考えた時も聖書の言葉を示されました。

エリヤと言う人はある時偉大な働きをした後、燃え尽き症候群のようになって落ち込んでしまう時がありました。

その時神様はエリヤに眠りを与え、休息をさせ、食事を与え、体を元気にさせました。

そして洞穴の中でいるエリヤに語り掛けました。エリヤも神の声を待ち望んでいました。

Ⅰ列王

19:11 【主】は仰せられた。「外に出て、山の上で【主】の前に立て。」すると、そのとき、【主】が通り過ぎられ、【主】の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に【主】はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも【主】はおられなかった。

19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも【主】はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

神様からの語りかけはドラマチックな時だけではない。案外かすかな細い声で語り掛ける時も多いのです。

私達に聖書を通してあなたへの導き祝福の言葉を語ってくださいます。

それを受け取り、信じた時。

ヨセフの信仰を思います。

彼は眠りからさめ・・・・主の言葉を信じ・・・いろんな思い煩いはあるけれど・・・マリヤを妻と迎え入れました。主の言葉に従いました。

そして生まれた子供にイエスと名をつけた。他の名はつけなかった。

かっこいいい!!と思います信仰の人です。

彼もまた、イエスを子供にしたばかりに・・・・故郷を捨て、異国エジプトに住み・・・また田舎町、日本で言えば東北地方のようなナザレに住みます。もともとはダビデの町ベツレヘムに住んでいたのかなと思います。

知り合いもいない中で新しい生活をします。

そして彼は、神様に信じ従ってイエス様の父となっていきますが・・・・・イエス様の公生涯も十字架も復活も知らずに死にます。この子が全人類の救い主となるという預言を信じていきますが、その事を生きている間には見ることもなかったのです。でもいいと思います。

私たちも神様の導きを信じ、一歩み始めます。歩み始ましょう!!!

その子をイエスと名付けた。というように・・・もう後戻りはできません。

私達がクリスチャンになる時も、人生にとって大きなことです。洗礼は第二の誕生日と言われます。

クリスチャンにならなければ、体験しなかった試練もあるかもしれません。

しかし、それ以上に大きな恵みと喜び、希望があると確信します。

そんなヨセフのような信仰によって神様のみこころがなっていく。生きているうちに見れないこともやがて成就していく。

そんな事が皆様にもあると信じます。

男らしく(女らしく)信仰によって立つ。

Ⅰコリ

16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。

16:14 いっさいのことを愛をもって行いなさい。

ヨセフの信仰 男らしいではないですか。

最近男らしくというのは男女差別と言われます。最近は差別用語になるので「女心と秋の空」と言う言葉はあまり使いません。女の人の心は秋の空のように移り気だ、ころころ変わる。 男の方が変わることも多い。

ここで言う男らしくは、いったん決めたら曲げない。まっすぐ進む。そんな事を思います。

これは男、女関係なしです。

主を信じ、主と共に、イエス様と共に歩んでいきましょう。ヨセフの信仰をいただきましょう。

そして私たちの救い主イエス・キリストのお誕生日を、喜びをもって待ち望みましょう!!!

祈り

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