2022年12月11日
説教題「マリヤの讃歌(マニフィカート)」
聖書箇所 ルカ1:47~55
ルカ
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
おはようございます。
待降節の第三主日です。ろうそくが三本ともりました。
私たち、人類の救い主 イエス・キリストのお誕生をお祝いするクリスマスが近づいています。
イエス様の誕生を待ち望む時。待降節の時。
先週はイエス様の働きの道備えをした方。人々の乾いた心。荒れ地のような心に神様の到来を告げ。荒野に道をつける働き。それは大変な働きです。
それをなした方 バプテスマのヨハネさんについて学びました。
彼の生涯は、自分の栄華を求めるのではなく・・・ただただのちに来られるイエス様を指し示すこと。このイエス様こそ人類の救い主。キリストであることを証しして生きたのです。
人々に悔い改めを勧めました。悔い改めとはまことの神様を見ず
に・・・自分中心で歩んでいる人々に。創造主なる神様を示し。そこに立ち返ることです。180度向きを変えることです。
向きを変える。悔い改めということを考えるとき、こういうことかと思う時がありました。私は、最近(もうだいぶんになりますが)朝に浜寺公園まで歩いて行って体操をしています。太極拳の初歩もやっています。
その中で上を見上げるときがあります。空を見るんです。
その時、いつも空がきれいだなあ!!と感動します。
日ごろ下ばかり見ている自分が・・・・自分の事ばかりで・・視点が下とか前ぐらいでいる自分が・・・向きを変えて空を見たら・・・・
なんか違った自分になるんです。夜、星空を見上げるときもそうです。
まさに神様に目を向ける・・神様を覚えて生きる。そんな変化があるんです。ああこれがある意味悔い改めかな…と思います。
向き直って神様を見上げるそれが悔い改め
そのために彼は人々に洗礼を授けました。それゆえ彼はバプテスマのヨハネと呼ばれます。
先週は、バプテスマのヨハネの人生を覚えました。彼の思いを、信仰を胸に刻みました。
さて今週は、イエス様の母 マリヤさんの事についてです。
イエス様の母マリヤさん。この方がいなければイエス様自身がこの世に誕生していないのです。
アドベントにとりわけ覚える事ではないでしょうか?
ちなみに、私たちプロテスタントの教会はマリヤさんを素晴らしい人ですが、一人の人間。女性ととらえています。
カトリック教会ではマリヤさんへの崇拝が強烈になってきて。聖母マリヤはほぼ神様みたいになっています。マリヤさんを拝む方々もおられます。
マリヤさんは罪なきお方で、死んだときはすぐに天に挙げられた。被昇天された。神聖な方と考えています。
とにかく大切なお方です。
マリヤさんの生涯は、聖書はあまり詳しく書いていません。
クリスマスの劇であるようにイエス様の誕生の時
その後の子育ての事などはよくわかりません。イエス様が12歳のエルサレムに家族で行った時。イエス様がいなくなってしまった話。
イエス様が公生涯につかれたとき、最初の奇跡を行ったカナの婚礼の時に水がぶどう酒になったとき・・・・マリヤさんはイエス様に
ヨハ
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
とイエス様を信頼しています。
十字架の時にもマリヤさんはいます。そのほか断片的には書かれていますが。
とにかく詳しいことはあまりわからないのです。
今日は聖書の中からマリヤさんを見ていきましょう。
今日の聖書日課(ルカ1:46~55)はマリヤの賛歌と呼ばれる個所です。
マリヤさんが喜びの中で神様を誉めたたえている有名な箇所です。
マニフィカートといってバッハの作曲されたものが有名です。合唱曲です。
その中身もですがマリヤさんがその賛歌を捧げるに至った経緯を見ていきましょう。
今日の箇所から少し前から読んでみます。
ルカの福音書は1章の初めから25節までは、先週お話ししたバプテスマのヨハネが祭司ザカリヤとエリサベツの間に妊娠した時の事が書かれています。
ルカ
1:24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
1:25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
年老いた夫婦の間に神様の導きで、ご計画でバプテスマのヨハネが生まれることになったのです。
その六か月目の事です。
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名
をマリヤといった。
み使いガブリエルは、バプテスマのヨハネの誕生も知らせに来たみ使いです。
1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
このみ使いが一人の処女のところにきた。その名はマリヤ。いいなずけがいます、名はヨセフ。ダビデの家系の人です。救い主イエス様はダビデの家系から生まれると預言されています。実はマリヤもダビデの家系のものなのです。それはルカ3:23からの系図でこれはマリヤの系図だといわれています。マリヤもまたダビデの家系なのです。
イスラエルの王であったダビデの家系もいろんなことがあり、今や没落してとても王の家系とは言えないほどの普通の人でした。貧しい一般の人であります。この当時結婚は早くマリヤは13~16歳くらいと思われます。中学生くらいでしょうか。
婚約期間は1年くらいですから・・・もうすぐヨセフと結婚する。
それを楽しみにして、うきうきとしている普通の少女だったと想像します。
そのマリヤさんのところに突然天使ガブリエルが来るのです。
そして言います。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
天使がやってきて「おめでとう!!!」と声をかけるのです。あなたは恵まれた方ですよ!!と言われます。
こんな言葉を聞いたらすぐには喜べません。何の話???と思うでしょう。ここではマリヤはひどくとまどって、これは何の挨拶かと考え込んだと。別の訳では心を騒がし乱され困惑したとあります。
最近ならば私の携帯によく入ってくるメールです。
おめでとうございます。あなたは当社の抽選に当選されました。3億円の賞金が当たりました・・・とかいうやつのように思います。
偽メールです。
でもマリヤさんはガブリエルの威厳に畏敬の念も覚えていました。それゆえ偽物と無視することもできません。考え込んだんですね
続けてガブリエルが言います。
ルカ
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
ここで言われたこと
① こわがることはない。
② あなたは恵みを受けたのです。
③ あなたは男の子を生みます。
④ その方は待ち望んだキリスト、救い主となります。
と言われるのです。今まで普通の生活を送っていた・・・平凡な人生の中に突然の知らせがあったのです。マリヤさんには怖がるなと言われても・・・・・
あなたは男の子を生みますといわれても・・・
その子は救い主ですといわれても・・・・はいありがとうございますと言えるでしょうか?絶対に無理だと思います。
マリヤはみ使いにこたえます。
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
至極当然の反論です。
マリヤはいいなずけはいても、まだ結婚はしていません。子供ができるはずがありません。
それに対してみ使いはこういうのです。
ルカ
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月
です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
① 聖霊によってあなたは身ごもるのです。
② それゆえに、その子は神の子なのです。
ここには大きな教義。神様のご計画があります。
私たちの救い主 キリストは人間の弱さも知ることができるゆえに100%人間であり。罪の赦しの権威を持っていることにより100%神の子である。人間らしい神様でも、神様みたいな人間でもない
神の子であり、人の子である方が救い主キリストなのです。
人間の知恵では考えも及ばないこと
それが具体的な形として、聖霊によって身ごもった、人間マリヤから生まれる子がイエス・キリストなのです。
そのためにはこの処女受胎ということは神様のご計画なのです。
とはいえ、マリヤさんには理解もできないでしょう。
私も教会に初めて行った時。礼拝で読まれた使徒信条
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれという個所についていけませんでした。人間の知恵では理解できないものです。
それでも次元は違いますが 本来子供ができるはずがない超高齢のエリサベツさんも妊娠しました。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
と言い切られるのです。
あなたがマリヤさんだったらどうでしょう? 私がマリヤさんの立場だったらどうやろうか?とこの一週間ずっと考えました。
もし自分が子供を宿すということになれば・・・・・聖霊によって身ごもったなどということは世間に受け入れられません。
貞操観念の強いユダヤの国では、まだ結婚をしていない女性が妊娠するなんて・・・それは姦通の罪で、石打になるところです。
ヨセフさんにもどういえばいいのでしょうか???
第一自分が神様の子を聖霊によって宿すなんてことも理解できません。
具体的には自分はこれからどう生きていけばいいのかも見えてきません。
皆さんでも、話は少し違っても・・・神様から声がかかり、自分では想像もしない道が用意される時があります。全くうまくいくとは思えません。
でも神様はあなたに新しい道を示されるのです。
おめでとう!!あなたは恵まれています。怖がらないで。私の言葉に信頼しなさいと言われることがあります。
そして迷う心に
神にとって不可能なことは一つもありませんと言われるのです。
どうするでしょう???これはある意味神様からのあなたに対する召し、チャレンジ、導きなのです。
マリヤは、どうしたか????
マリヤさんの気持ちを思います。マリヤさんは信仰を振り絞ってこう答えたのです。
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
私は神様の前に取るに足らないはしためです。主のはしためです。ご主人のために働く者、生きるものです。
私の思いよりも主に従います。あなたの御心がなるようにしてくださいと祈ったのです。
イエス様でも十字架にかかる前、ゲッセマネの園で、神様の前に祈りながら苦しみました。そしてその祈りの最後は
ルカ
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
わたしには理解できません。私の思いも、願いも違います。でもあなたのお言葉通りこの身になりますように。と主にゆだねたのです。
これは口先だけの事ではありません。現実の事です。マリヤさんは子供を宿すのです。
私は今まで漠然として、マリヤさんは信仰の人だから・・・天使から思いもよらないとき、あなたは救い主を生みますと受胎告知されたとき。しばらくは戸惑いましたが、やがて1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言って、その素晴らしい信仰の中で神様をほめたたえてマリヤの讃歌(マニフィカート)を捧げたと思っていました。
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
と神様を賛美したと思っていましたが・・・そんな簡単にできるんだろ
うか・・自分の人生に全く想像もしていなかった出来事がいかに素晴らしいといわれても受け入れられるんだろうか???私は無理!できん!と思っていました。今回聖書をゆっくり読むと違うんですね。
マリヤさんにも不安も悩みもあったでしょう。
彼女はみ使いの話した親類のエリサベツさんのところに行くのです。婚約中の身でありながら妊娠したなんて、ナザレの田舎町では説明しても理解されないし・・・そこでは住んでおらなかったということも考えられます。
ルカ
1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
ナザレからユダの町エルサレムに行くには100km以上あります、若い女性が一人で旅するのは簡単ではない。それでもマリヤさんはエリサベツさんに会いに行くのです。
やっとエリサベツさんに会った時
ルカ
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
マリヤさんを主の母として(自分たちの救い主キリストの母として)ほめたたえるのです。
ちょっと不安の中でおばさんに会いに来た少女 マリヤさんはエリサベツさんが聖霊に満たされて語った言葉に励まされるのです。
今まで誰も理解もしてくれなかったマリヤさんに信仰の言葉をかけられるのです。信仰の大先輩からの、しかも、人間的な言葉ではなく。その人自身も言えないような聖霊に満たされて語られた言葉はマリヤさんにも届いたのです。
「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
この言葉によって、はじめてマリヤの讃歌が語られるのです。
人は人生の大きな岐路に、思いもかけないことに出くわす時があります。しかも神様が私に想像もしていなかった道を示される時があります。
マリヤさんもそうでした。
そしてマリヤさんも悩んだでしょう?不安も自分の願いもあったでしょう。その中でマリヤさんに神様は丁寧に導きを与えてくださいました。
わたしたちにもそうだと信じます。
そしてその過程は、すぐではないこともあるのです。神様が十分な助けを与えてくださるのです。そして今日のようにマリヤさんは、イエス様という人類の救い主を生む母として、喜びの中でその働きについたのです。
最初から受胎告知に、すぐ喜んで讃歌をうたったのではないのです。
でも最終的に彼女はマリヤの讃歌を捧げることができたのです。
マリヤの信仰、心情(心の動き)を抜き出してみますと。私たちにも大きなヒントになると思います。
① 天使の言葉に 戸惑って考え込んだ。 1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
② 自分の思い、疑問を話した。1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
③ 神にとって不可能なことはないとのみ使いの言葉にひれ伏すのです。 1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
④ 現実の悩みの中で信仰の大先輩 エリサベツのところに行きます。そしてエリサベツから聖霊に満たされた言葉を聞きます。 1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。 1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。 1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何
と幸いなことでしょう。」
⑤ ここにいたってマリヤは心からの讃歌を捧げるのです。
この讃歌は今も私たちの信仰の叫び、祈り、神様への感謝としてささげられているのです。この後に賛美する讃美歌95「わがこころは」もそのことを賛美しています。
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
このマリヤの讃歌によって主の母はその役割をなしていったのです。マリヤさんが救い主を私たちに与えてくださったのです。
祈り