2022年12月4日 待降節第二主日 説教

説教題「バプテスマのヨハネ」

聖書箇所 マタイ3:1~12

マタ

3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。

3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、

3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

おはようございます。

サッカーのワールドカップ 先週はドイツに勝って盛り上がりましたが・・・・その次のコスタリカ戦でまさかの敗戦・・・・かなり盛り下がりました。メディアも手の平返しでした。

でも金曜日の朝、信じられない奇跡のようなスペインへの勝利。試合中のボールキープ率はスペイン74% 日本は16% 中立10%で圧倒的にスペインに支配されていま

したが。2-1で逆転勝利 ものすごいことが起こりました。またまた手のひら返しです。

今度は6日(火)の夜中12時からキックオフだそうです。

さて待降節第二週です。

先週はイスラエルの民が暗闇の中で救い主のご降誕を待ち望んでいた事を学びました。

アドベント(待ち望むとき)です。

イスラエルの民は先週の話でもありましたがまさに暗闇の中にいました。

民を導いてくれる真の預言者は全く現れません。どのように歩んでいけば教えてくれる人もいないのです。神様のみこころがわからない。ご計画が見えない・・・・

預言者は旧約聖書のマラキ以降400年以上現れていないのです。

もう霊的な暗闇はすごいものです。人々の心は神様のご計画を疑う人も不安になる人もいます。

その心は荒野のようです。

そしてユダヤの国は、一時は独立を勝ち取ったけれど今はローマの属国です。ユダヤ教は認めてくれていますが、ローマ皇帝の下にあるのです。ローマへの税金もあります。

現実に日々の暮らしは苦しい事が多いのです。

奴隷とまでは行きませんが、国自体が占領下にあるのです。

そして人々を指導してくれるであろう、祭司長、律法学者、パリサイ人は自分たちだけが良ければいい。律法を守っている自分たちの祝福だけを求めている。

神様の愛を求めて会堂に行ったとしても

弱さのある人々などは虫けらのような扱いを受けるのです。

まさに闇の中です。

試練がいっぱいです。

イスラエルの人たちの心は、荒れ地のようです。草木も生えないカチカチの心です。

現代でもいっぱい試練を受けた人。苦労をしてきた人・・・・・。そういう人は心が固くなっています。余裕もありません。感謝もありません。

昔、若いころこんな話をする先輩がいました。クリスチャンではない方です。

「若いころの苦労は買ってでもしろ、子供にも楽をさせずに苦労をさせろ。そんな事を言う人がいるけど・・・・・俺は違うと思う・・。

人はあんまり苦労したら人間がいじける・・・・。性格が暗くなる。

苦労はせん方がいい。」と言ってました。

ある意味あたりです。苦労をすればするほど、人から冷たくされればされるほど、人の心は固くなる。かたくなになる。

そんな人間が何かをできるわけがない。

歴史を見ても偉大な人はずっと苦労した人でなく・案外裕福な少年時代を送った人が多い。心が豊かである。

坂本龍馬なんかも身分は低かったですが・・・・裕福な家で育ちました。だからかどうか・・・なんとなく大きな心があるように思います。

マザーテレサや孤児の母と言われた沢田美喜さんも子供の頃苦労の連続と言う家庭ではない。沢田美喜さんなんか三菱財閥の岩崎弥太郎の孫 意外とそんな人が愛の働きをできるという事もあるのです。

これはその先輩の言葉で、聖書の教えとは違いますが・・・・確かに叩かれて、叩かれて、虐待されて・・・・愛を受けずに育った人は、そのままではひねくれます。

でも、今は私は少し違う思いがあります。イエス様にお出会いすれば別だと信じるのです。Ⅱコリ

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

人はイエス様を信じるとき変わると信じています。

でもそんな人(苦労の中にいる人、苦しんでいる人・・・・いじめられている人)にはさすがのイエス様のことばも届かない所があります。

イスラエルの民は闇の中で待ち望みながら・・・・心はイエス様、救い主に心開いていたか・・・・。いつ来てくださっても受け取る用意が出来ていたか。

そうではなかった。

イスラエルの人々の心は荒れ地のようだった。緑の牧場ではなく、石だらけの荒れ地のようだった。

そんなところに神様の御子が現れても、聞く耳さえなかった。

四つの種を蒔く話がありますが。一番目の種は道端に落ちます。そこは人々に踏み固められてカチカチになっていました。そこに落ちた種は、根をはり、芽を出すことができなかった。鳥が来て食べてしまったとあります。

イエス様のことばも届かないほどに荒れ果てていたイスラエルの民に・・・・神様は突然神の子のイエス様をお遣わしになったのではなく・・・・その前に来る人がいたのです。

かたくなになったイスラエルの人々の心を、耕して・・荒れ地を平らにして・・・やっとイエス様の言葉を聞けるような状態にする人がいたのです。

西成の労働者に福音を語る時・・・・すぐに語っても聞く耳を持たない人が多いと言います。お腹が減って死にそうな人に、神様のことばでも届かないのです。その前に一つのおにぎりを食べてもらう働きがいるんです。

イエス様の前に、先駆ける人・・・・心を備えさせる人・・・・・そんな人がいたのです。

アドベント待ち望むとき、イエス様より前に来られた方がいたのです。毎年、お話していますがバプテスマのヨハネと言う人です。

この方がいなければイエス様の働きはできなかった。それほどに偉大な働きをした。バプテスマのヨハネ。

イエス様から女から生まれたものの中で、彼ほど偉大な人はいないとまで言われた人です。

そしてその最後は、バプテスマのヨハネは「私はどんなに人にあがめられても、私は小さなものです。私の後に神の子。本当の救い主。神様の御霊による洗礼(バプテスマ)授けてくださる方がいます。

私は滅んでもいいのです。イエス様をどうか見てください。」と

人類の救い主イエス様を指し示し・・・・首をはねられて死ぬ。そんな最期を遂げられるのです。

人間的には何の栄光もない。みじめな死を遂げる。それはイエス様の先駆け 露払い。としての大切な働きをされたのです。

3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。

そして彼は

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

とイエス様を示す・・・イエス様のために働く その生涯を送られたのです。

アドベントは一朝一夕に来たのではない。その前に来た人がいるのです。

私たちの人生でも、何か大切な事が起こる時。偉大な出来事がなされる時。

例えば明治維新がなる時。確かに西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎は、その維新の立役者でした。

しかし、その前にたくさんの先駆けをした人がいるのです。

吉田松陰(長州の小さな家で松下村塾を開き、維新の志士たちを教育しました)、なんかはその代表でしょう。バプテスマのヨハネに重なるのです。

何かが起こる時、その準備をした人…報われることなく消えていった人がきっといるのです。

バプテスマのヨハネの生涯について学んでいきましょう。

ルカ

1:5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

1:6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。

1:7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。

バプテスマのヨハネは年老いた両親。祭司ゼカリヤ、信仰深いエリサベツの間に生まれます。

二人とも正しい人でありましたが子どもが出来なかった。

ある年、イスラエルの人々を代表して神殿でただ一人が行って香をたくという役割が、くじでゼカリヤにあたりました。

そして民を代表して、神殿に入った時、たった一人で神様の前に出たゼカリヤに「あなたは子供ができると預言があります。

二人とも年を取っています。そんな事は考えられませんと答えるゼカリヤに神様から不信仰な者よとおしかりがあるのです。

ルカ

1:8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、

1:9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

1:10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。

1:11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。

1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、

1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、

1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。

1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。

1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」

1:21 人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。

1:22 やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。

1:23 やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。

1:24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。

このような次第でヨハネを身ごもるのです。生まれてくる子は聖霊に満たされて民のために道備えをすると言われます。

ルカ

1:57 さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。

1:58 近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。

1:59 さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、

1:60 母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言った。

1:61 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言った。

1:62 そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。

1:63 すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。

1:64 すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

1:65 そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。

1:66 聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。主の御手が彼とともにあったからである。

1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、

1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。

1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。

1:71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、

1:73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、

1:74 75 われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

1:80 さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。

ヨハネは荒野に住んだんですね。律法を固く守る、仙人みたいな生活をするのです。

そしてバプテスマのヨハネの公生涯が始まります。

今日の聖書日課に入ります。

3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。

3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

彼は、長く現れなかった預言者としてイスラエルの民の前に登場するのです。

暗闇の中にいた民に、この人の言葉を聞いてみよう!!と言う心にさせるのです。

荒野の中にいた民を、振り向かせるのです。

3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、

3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

イスラエルの人々が神の元に帰ってこようとしている・・・・・・。

霊の渇きの中にいたイスラエル 預言者が来ないという暗闇の中に現れたヨハネの前に人々が殺到するのです。 彼らは飢え乾いていたのです。

その霊の動き。民の動き その事に間違った信仰を教えていたパリサイ人、サドカイ人(祭司たち)もバプテスマのヨハネを見に来る。彼の働き、バプテスマを受けようとやってきた。

彼らが罪人とさげすんでいた人々が、今、預言者ヨハネから悔い改めのバプテスマを受けている・・・・・。これは自分たちの今までの働きの否定でもあるのではないでしょうか?

ですから、やってきた・・・・。

その人々を見てバプテスマのヨハネは厳しく言います。

待ち望むときの中で、当時の信仰の間違った教え、その事の中で多くの人が苦しんでいたという事を先週話しましたが

先駆けとして来たヨハネは、のちに来られるイエス様よりも厳しい言葉で糾弾(批判)するのです。

お前たちは人に厳しい事を言いながら自分はいい加減。

お前たちが悔い改めなければ絶対に救いはないぞ!!と言いうのです。

よく言ってくれました!!!

今まで誰も、言えなかったことを言ってくれました。

律法学者、パリサイ人たちに間違った信仰を教えられていた人々に、神様の愛を見せてくれたのです。

間違った教えの中で、罪人とさげすまれていた人々の荒れた心を、もみほぐしてくれた

・・・。神様は私たちを見放されていないのではないか・・・・。

と衝撃的な働きをされたのです。

それは何のためか?バプテスマのヨハネは、乾いた、固くなった、もう落ち込んでいた人々。神様の愛に期待も寄せられない人々に・・・

弱さの中で・・・・暗闇の中で・・・・

来られると約束されている救い主を待ち望む民に

イエス様を指し示すためになのです。

バプテスマのヨハネは自分があがめられることを望みませんでした。

やがて来られるイエス様を人々に指し示すために、その生涯を送られたのです。

パリサイ人たちにきつい言葉で攻撃しました。

3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教

えたのか。

3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

そして攻撃をしたバプテスマのヨハネは自分の栄光を求めませんでした。

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

私の後から来る方。イエス・キリストを指し示されたのです。

ヨハネは自分の弟子にさえ、イエス様を指し示したのです。

普通は自分の弟子が減ることは望まない・・・・それが人間。しかしヨハネはイエス様を指し示したのです。

ヨハ

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、

1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。

1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

まさに自分にとっては得にならない・・・・でも彼はそれをなしたのです。

先駆けとしてその人生を生きたのです。

イエス様を自分も見上げて生きたのです。

イエス様を、見よ。世の罪を取り除く神の小羊と呼んだのです。

自らは王宮にも住まず、質素な暮らしで、荒野の中から、心が乾いて、暗闇の中で苦しみ、神様さえ見失っている民に・・・・・何の報酬も得ず、最後は殺されてしまうような人生。このさきがけの人。バプテスマのヨハネ。

それは現代にも求められているのではないでしょうか。イエス様を知ることも、機会もない愛する同胞に、私たちも小さなバプテスマのヨハネのように歩ませてください。素晴らしいイエス様をご紹介させてくださいと祈るのです。

宮沢賢治の有名な詩 雨にも負けずというのがあり、宮沢賢治は仏教徒でしたからこの詩にはバプテスマのヨハネのにおいを感じながら・・・・なんとなく違和感を持って素晴らしい人間だなあと思って読んでいました。ところが、この詩のモデルがいて、この詩のモデルはクリスチャンであることを知り、腑に落ちました。齋藤宗次郎と言う方で、因習の濃い、伝道の難しい岩手花巻の町でキリストを指し示して、まさにこの詩のように生きた方でした。内村鑑三から教えを受けた無教会派のクリスチャンで、花巻市で最初にクリスチャンになった人だそうです。当時は、キリスト教は耶蘇(ヤソ)とののしられ、石を投げられ、たくさんの迫害があったそうです。それでも彼は祈りながら自分の栄華を求めるのではなく人々にイエス様を指し示して生きたのです。

まさに現代のバプテスマのヨハネのようです。

斎藤宗次郎をモデルにしてこの詩は書かれたといわれています。

雨にも負けず 風にも負けず

雪にも 夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち

欲はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に 玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに よく見聞きし 分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋にいて

東に病気の子どもあれば 行って 看病してやり

西に疲れた母あれば 行って その稲の束を負い

南に死にそうな人あれば 行って 怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や 訴訟があれば つまらないからやめろと言い

日照りの時は 涙を流し

寒さの夏は おろおろ歩き

みんなにデクノボーと呼ばれ

ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに わたしはなりたい

アドベント第二主日

私達はイエス様のご降誕をすでに知っています。そして楽しい喜びのクリスマスを待ち望ん

しかし、その待ち望むとき。救い主イエス・キリストだけを指し示して、自分の栄誉を求めるのではなく・・・・・ただただイエス様を知ってほしいと荒野に道をつけようとしたバプテスマのヨハネの事を思うのです。

そしてそれはいつの時代にも求められているのです。

斎藤宗次郎さんが内村鑑三に招かれて東京に引っ越しすることになりました。

その時の様子が書かれていました。

花巻の地を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。

祈り

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