2022年1月2日

説教題「互いに愛し合いなさい」

聖書箇所 ヨハネ13:34

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

あけましておめでとうございます。

2022年が始まりました。

今年一年の上に神様の恵みと祝福がありますように祈ります。

堺育麦キリスト教会の2022年の目標聖句を今日発表しました。

聖書箇所 ヨハネ13:34

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

先週12/26の日曜日は豊島昭二さんの告別式礼拝と言う初めての形で礼拝を持ちました。

たくさんの関係者が来てくださり祝福の時となりました。父の葬儀の時は大伝道集会になって欲しいと常々願っていました。コロナ禍でたくさんの方々が集まることはできませんでしたが昭二さんらしい告別の時が持てたのではないかと感謝しています。

個人的には、私の姉に福音が相当深く届いたと思うと感謝な事でした。前からも言っていますが姉はクリスチャンではなく、また頭の上がらない姉ですから信仰の話はなかなか届いていないと思い、ずっと祈っていましたが・・・だんだんと教会にも慣れてきて・・この間の礼拝ではずいぶん変わったなあと思いました。家の宗教があるので信仰を告白することはできないけれど、心の中には福音が届いていると確信しました。

その他の出席してくださった方々にも、昭二さんの人生を通して働かれている神様の恵みが、福音が心に残られたと信じます。いい機会になりました。感謝します。

また父を偲んでもらうUSBも100個作って・・・配らせていただきました。これも用いられたらと祈っております。

さて、毎年最後の礼拝は、私達の群れ、堺育麦キリスト教会に与えられた目

標聖句を振り返り、一年を通して神様の御業を数えて感謝する礼拝でしたが・・・日程の関係でそれができませんでした。

今日の礼拝では今年の目標聖句についてお話することになりますが、その前に2021年を振り返ってみました。

この時期、牧師はなかなか忙しいです。一年間の礼拝出席ノートをまとめて、人数だけでなく…ああこの方が来られたなあ・・この方は休まれているなあと振り返ります。そして一年間の週報をもう一度読んでみます。週報ってなかなか情報の宝庫です。日頃できなくて溜まっていた週報ボックスにあるものもすべて送らせていただきました。ご無沙汰していて申し訳ないなあ・すみませんと言う気持ちと祈りを込めて短い手紙も入れました。そんな中で久しぶりに太田薫さんからお電話があった事は嬉しかったです。コロナもあってお伺いすることもできなくてすみませんと言う気持ちですが。薫さんは週報を喜んでくれていました。久しぶりに声が聞けて感謝でした。

さて週報を読み返すと、短い報告の中で、当時を思い出すこともできます。先週の恵みもこの際全部読んでみます。2021年の総会資料も読み返し、特に牧師の挨拶のところを読み・・・・その書いた内容が実際どうなったのか・・・と反省します。それをまとめていきます。

そして堺育麦キリスト教会の2021年の目標聖句と照らし合わせてみます。

そうすると、毎年、毎年思うのですが・・ああ神様はなんと素晴らしい方。恵み深い方。

私たちのような小さな群れをも愛し。み言葉をもって導いてくださっている方だと感謝が湧いてきます。感動して‥一人で叫びだしたいような気持になります。

現実的に見たら・・一般的に見たら悲しい出来事のように見えても‥そこに働いておられる神様。イエス様に目を向ける時、感謝が湧いてきます。

これは牧師の醍醐味かと思います。

昨年を振り返ってみますと

1/10~2/28と4/18~6/20の二回に渡って長く無会衆の礼拝がありました。

この時は説教動画をユーチューブ配信しました。6/27からは対面とオンラインの併用礼拝と言う形 対面での礼拝が32回。無会衆の礼拝が20回もありました。それでも毎週礼拝ができたことは感謝でした。コロナ禍の礼拝と言うのも慣れてきました。

でもそれゆえに今まで普通だった一緒にお顔を見ながら礼拝できることがなんと幸いかとわかります。

2021年は新年礼拝の後、すぐに緊急事態宣言で1/7からオンラインの礼拝

になりました。世間はステイホーム どこにも行けませんでした。まだワクチン接種もできていませんでしたから、なおさらです。

毎年二月に行う信徒総会は3/14に延期 総会資料の製本は嘉希君を中心に中尾家でやってくれました。

三密に注意して、コロナでただただ自粛と言うよりも少しずつできることを始めました。Zoomの祈祷会を3/26(金)から始めました。最初は皆さん初めてで悪戦苦闘、戸惑いましたが、もうすっかり慣れてきました。Z00Mというネットのツールはかなり用いられました。

受難週のデボーションも毎朝Zoomで配信

4/4のイースター礼拝には豊島昭二兄が証ししてくれました。10分ぐらいでとお願いしていましたが実際は28分35秒・・・・それでも話したりないという事で毎朝食事の後に「俺の話は長い」と言う題で15分の話を13回YouTubeにアップしました。

4/11には特別賛美 教会員の皆さんで「やさしいイエス様」を賛美しました。聖歌隊への希望を持って

そうこうしているうちに4/18~6/20までコロナ感染拡大のため対面礼拝はやめてオンライン礼拝になりました。

何とか続けていたポールウォーキングも自粛

木村宅聖書研究会 聖書を教養として研究する会は継続できました。

自粛ばかりではコロナに負けているみたいだと、ちぐさのもりもオンライン・Zoomの交わりを始めました。礼拝もZoomも併用して、礼拝の前後に少し皆様と話ができるようにもしました。

太田頌子姉が胃がんと言う事がわかり、6/20に手術をすることになりました。教会にとって大きな祈りでした。

6/27から教会での対面礼拝が再開されました。

若野姉の体調が思わしくなく祈りが積まれていきました。

7/4に江利川兄が礼拝で証しをしてくれました。なかなか交われず謎の人みたいだったので感謝でした。

7/17 今村兄からの報告で奥様は落ち着いてきたので祈りから外すことにしました。感謝

7/25 日曜日の駐車場が(佐伯さんのご好意で)一つ増えました。

7/26に若野姉が天に召されました

8/8の礼拝は若野姉を偲んで行いました。

8/15から聖餐式を再開しました 感謝でした

張さんが久しぶりに礼拝に出席されました感謝。それから毎週来られています。

8/22 礼拝後太田頌子姉の手術のために祈りの時を持ちました。

8/25 太田頌子姉の手術

ちぐさの働きはZoomを通して活発に行われ、木村宅聖書研究会、聖書を教養として学ぶ会も継続されていました。

10/3 だんじりのため礼拝は急遽オンラインで

10/10 昭二兄の体調がだんだんと弱ってきて、皆さんと一緒に礼拝堂での礼拝は難しくなってきましたので、皆さんに集まってもらって礼拝前に記念撮影をしました。

10/24 張さんと礼拝前に聖書の勉強会始まる

10/24 礼拝後 頌子姉の手術のために祈りました。

10/26 頌子姉 胃の手術 うまくいきました。

10/31 宗教改革記念日 牧師発熱のために急遽オンラインでの礼拝になる

10/31の夜 牧師緊急入院

11/3 昭二兄召される

11/6(土)の夜 昭二兄のお別れの時(前夜式はなし)

11/7 全聖徒主日礼拝 多くの方が出席される。説教者は急遽松田卓師がして下さる。礼拝後昭二兄お別れ会→火葬

11/8 頌子姉退院

11/14 金兄説教

11/21 松田師 説教

11/28 牧師が説教 体調回復

12/5 藤原美月兄礼拝出席

12/12 金兄説教

12/19 クリスマス特別礼拝

12/22 長承寺ひだまりクリスマス会 牧師がお話

12/23 労災病院 緩和ケア―研修会 牧師は遺族として発表

12/26 豊島昭二兄告別式礼拝

ざっと振り返って教会を中心に考えてこんな一年でした。

ふりかえればいろんな危機もありました。牧師の入院、昭二兄の召天の頃はとりわけ大変でした。しかし、そんな中でも主は私達をみちびいてくださり、その一瞬一瞬に人知をはるかに超えたキリストの愛で包んでくださいました。

エペ

3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

この目標聖句が私たちを導いてくれました。

そして二年続いた目標聖句の後は、主はどんな目標聖句を堺育麦キリスト教会に与えてくださるのか・・・・・。

私はこのことは毎年とりわけ緊張します。祈ります。神様がどんなみ言葉を与えてくれるのか期待でワクワクもします。 私の霊のアンテナが鈍っていて神様のみこころと全く違ったものにならないように、恐れながら祈りこみます。

私の個人的思いになっていないか?この群れにふさわしいのか?と祈ります。

それで示されたのが

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。ヨハネ13:34

のみ言葉です。

このみ言葉の背景は、イエス様が十字架にかかる前・・最後の晩さんの時の事です。

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

先生であるイエス様が弟子たちの足を洗い、きれいに拭いていきます。本来なら奴隷が、しもべがするような事をイエス様がされるのです。

その事を聖書は、13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

と言っています。イエス様はもう人々の前からいなくなる・・・遺言のような最後の行為です。世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

イエス様はこの足を洗うという行為に説明をされます。

13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。

13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

そして祝福の約束もあります。

13:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。

13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。

この後イスカリオテのユダが裏切るという事が書かれています。そしてユダは出ていきました。イエス様だけがわかる十字架の道へのカウントダウンです。

もう弟子たちとも長くはいれません。その時イエス様は愛をこめて弟子たちに語ります。これは弟子たちだけにではなく私達にも語られているのです。

ヨハ

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

そしてその互いの愛は、まだイエス様を知らない人々への証しとなるのですと言われます。

13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

この背景で語られた事です。

私はこのみ言葉を示された時・・・・個人的には納得できるけど教会の目標聖句には嫌だなあ・・・と思いました。

どうしてかと言いますと、私が牧師になったのは10年前 この地域の人たちの事は何もわからず・・・ご近所の2,3人を知っているだけ・・・ それまでは平日は仕事に行っていたので無理もありません。どこから宣教の働きを始めればいいのか?と祈るものでした。それは堺育麦キリスト教会全体の祈りでもありました。

その時与えられた目標聖句は

2011年 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。ルカ12:32 (豊島師)

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

ヨシュア1:9

神様からの励ましの言葉でした。

そこから地域への宣教が始まったわけですが、その後の目標聖句を振り返ってみても

2013年 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

ヨハネ16章33節

2014年 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 Ⅰペテロ5章7節

2015年 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 コロサイ1:13

2018年 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。 使徒18:9~10

2020年 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。 エペソ3:18~19a

と言うようにどちらかと言うと神様からの愛、恵み、励まし・・・・それを私たちが受ける喜びが多かったです。

今回は少し違います。イエス様からの戒め、命令の言葉です。

ここが私は嫌だと思ったのです。

命令的なもの、律法的なものを感じたのです。命令、戒めは旧約聖書の律法に通ずるものがあります。

戒めは、いいものですが。戒めを完璧に守ろうとする時・・・ひずみが出る。そし

て人間は戒めを完全に守ることはできない。そこにキリストの十字架の赦しがある。それを忘れてしまっては戒めが人を苦しめるものになる。

たとえば互いに愛し合いなさい。素晴らしい事です。しかし、これを、戒めを守ることが目的になってしまうと偽善者になってしまう。

信仰をもって間もないころ、私は、互いに愛し合いなさいという事は素晴らしい言葉だと思いました。そして人々にイエス様の素晴らしさを伝えるためにも、互いに愛し合う生き方をしようとしました。どんな人にも愛を持って優しくしようとしました。クリスチャンになって人には優しい言葉しか使わないようにしようと努力しました。

そして、ああ自分も少しずつ互いに愛し合う事ができてきたなあと思っていた頃です。

近所のスーパーの駐車場で、車をバックで止めようとしていた時、ガラの悪い人の車が来て、クラクションを鳴らし・・・「はよせ!」「とろとろするな!」と叫んできたのです。私は互いに愛し合いなさいとのみ言葉通り。悪い言葉を吐かず、すみません。はよ入れます。と言いました。

心の中では、私は悪くないのに‥‥と思いながらです。やさしく謝りました。向こうの人は偉そうにしていました。でも私はイエス様の互いに愛し合いなさいのみことばが守れたと思っていました。

ところがその夜、夢を見ました。昼間の光景が出てきて、その人が、はよ入れんかい!とえらそうに叫んだ時。私はやかましいわい。どこが悪いんじゃい。降りてこい!!見たいに言ってキレているんです。

そこで目が覚めました。

その時、私の心には、本当の意味での互いに愛し合うという事なんか、全くできていない。私にはそんな愛はないんだ。と悲しくなりました。

それはその他の人に対してもそうです。表面的には愛を示していても私の心の底ではそんな愛はないんだ。と思わされました。

それは悔い改めて、心を入れなおしても同じでした。

それは自分の力で愛そうと努力している。みことばが戒め、律法になって、それを守ることが大事。守れなかったら・・・イエス様のことばを守れていないから、私はイエス様に見捨てられる・・・そんな思いにさえなりました。

だからみ言葉の戒めには苦手なんです。励ましは嬉しいけれど・・み言葉からくる戒め、命令は

守ろうとすればするほど自分の弱さ、罪がわかるので嫌だったんです。

それを教会の目標聖句に!!!という事が示されてきて・・・・私はこれはやめと

こう、やめさせてくださいと祈りました。

それでも私たちが嫌な時 それが神様のみこころの時も多いですから・・・・ずっと祈り、聖書を読み・・色々調べました。

互いに と 愛と言うキーワードで検索するとたくさん出てくるんです。

ヨハ 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

ヨハ 15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

Ⅰペテ 4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

Ⅰヨハ 3:11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

Ⅰヨハ 3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

Ⅰヨハ 4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

Ⅰヨハ 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

Ⅰヨハ 4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

Ⅱヨハ 1:5 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

イエス様がわたしたちに望んでいることの一番の事はこれではないかと示されました。

これは無視するわけにはいきません。

ただはっきりしていることは 私たちの力、努力では絶対にできない事です。

そこにイエス様の十字架がいるのです。イエス様の十字架の赦しによって愛のないものも、赦され、イエス様がこれほどまでに愛してくださったという事に立つとき、素直に私たちは愛し合う事ができると確信するのです。

イエス様の愛を宣べ伝えることも、実は私たちが互いに愛し合う姿の中から人々に届いていくのです。

すぐにではないです。時間がかかります。しかし、私達が互いに愛し合う時

13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

と言う希望もあるのです。

互いに愛し合う事が宣教のために必要だ!そうしなければ証しにならないと考えるならば。本末転倒。私達は偽善者になります。

しかし、イエス様への感謝と喜びの中で互いに愛し合う愛が生まれてくる時、そこには大きな祝福があるのです。

今はよくわかりません。今年の最後に、神様はこの目標聖句から、また多くの事を教えてくれると期待するのです。

ただ、一つのヒントとして、私たちは地域の方々にキリストを伝えようとしています。昨年、一昨年なんかはコロナもあり、私は家内の事、父の介護もあり、大きな働きはできていませんでした。

ただ、互いに愛し合いなさいという事は、家内を愛し、父を愛し、それは自然にできていたのかもしれません。

それを見て、たくさんの人がキリスト教って素晴らしいなあと言われることがありました。

直ぐには宣教にはつながらないかもしれませんが・・・・明らかに地域の方々の教会への思いが変わってきたことを感じています。

これを目的ではなく。私達が私達を愛してくださったイエス様をもっともっと深く知ることによって互いの間に愛が深められるような一年になって欲しいと祈ります。

簡単な事ではないです。一年でどうにかなるような事のない永遠の課題みたいな目標聖句です。でもこのみ言葉に導かれて新しい年を歩ませていただけることを感謝するのです。 祈り アーメン

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