2022.1.16

説教箇所 ヨハネ2:1~11

説教題 水がぶどう酒に

分解 1~2 カナの婚礼

3~5 母の思いとイエス様の思い

6~9 水をぶどう酒にかえる

10~11 最初の奇蹟

序論

私という人間は何と疑い深いものなのだろうかということが良くこの箇所を呼んで反省することかとしみじみ感じます。例えば空を見れば飛行機が飛んでいます。当たり前のようにあの鉄の塊が宙に浮いています。ほとんどの人が飛行機は空を飛ぶもんだと思うことが常識になっています。しかし自分が飛んでもせいぜい30センチぐらいでどうしても不思議で仕方ありませんでした。しかし航空力学を習うこともせずにこんなことを言うのは努力をしない自分が悪いと思ってしまいます。なぜなら飛行機が現実に私の上をとうり過ぎていくのは嫌というほどこの目で見ているからです。それでいて信じようとしない自分という存在があるからです。今日は水をぶどう酒にかえてくださった方の話をします。

カナの婚礼

2:1それからとあります。何からというとピリポとナタナエル(バルトロマイ)を弟子とした出来事の後のことです。この時すでにペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、もいて合計弟子だけで6人いたことになります。ちなみにアンデレはバプテスマのヨハネの弟子でイエス様のところに兄弟ペテロを連れていったことから教会に人を連れて行くだけの伝道をアンデレ伝道といいます。ピリポとナタナエルは友人だったと考えられます。ヨハネ1:45~46「彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちはモーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレからなんの良いものが出るだろうか」ピリポは言った。「来てそして見なさい」なんの良いものというのは救い主のことです。この時点でピリポはイエス様に従っています。1:47イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て彼について言われた。「これこそ本当のイスラエル人だ。彼のうちに偽りがない。」とナタナエルのことをほめておられます。ちょっとした豆知識ですけどヨハネの福音書でユダヤ人の表現の方法は2通りあります。ユダヤ人とイスラエル人です。ユダヤ人の方はイエス様に敵対する人たち。イスラエル人というのは神の民を現す時に使い分けされています。ピリポやナタナエルやヨハネ、ヤコブ、ペテロ、アンデレたちが弟子になったということはイエス様を救い主として信じたということです。イエス様とピリポやナタナエルが出会ってから三日目にガリラヤのカナで婚礼が

あって、そこにイエスの母がいた。2:2イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。

イエス様の母マリヤがこの婚礼に招かれてしかもイエス様の弟子たちも招かれたとあります。母マリヤは接待役でその結婚式はマリヤにとっての親戚が主役の結婚式だったと思われます。

母の思いとイエス様の思い

2:3~4「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」といった。4節するとイエスは母に言われた。「あなたは私と何の関係があるでしょう。女の方。私の時はまだ来ていません。」

この文章だけを見るとなんかイエス様と母親の関係があまりうまくいっていないような感じがします。しかしイエス様です。こんな突き放すような言い方は、しなかったと思われます。当時の婚宴にぶどう酒はつきもので「ぶどう酒なければ喜びなし」と考えられていましたから、婚宴の途中でぶどう酒がなくなってしまったということはこれを取り仕切っている人には大変なことでした。これはあくまでも想像ですが接待役のマリヤが世話役にぶどう酒がなくなったことを報告しずらくて困ってイエス様にぶどう酒がなくなってしまったけどどうしたらいい?と尋ねたところ、イエス様の関心とマリヤの関心の違いがあります。

マリヤの関心はなくなったぶどう酒のことでイエス様の関心は水とぶどう酒の違いです。しかしイエス様は「心配は無用ですよ。私に任しておいてください。」といわれれば母親はかわいく優秀な長男からそういう言葉を投げかけられると2:5母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを何でもしてあげてください。」といいます。

女の方と日本語で訳されている箇所は言語のギリシャ語では(ギュナイ)といいローマの皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶのに用いた言葉です。こういわれると最大の尊敬の意味がこもったことばで意味合いとして冷たくとるのはちょっと違うようです。

難しいのが2:4後半の私のときということです。ヨハネ7:2~6を読む。イエス様の兄弟たちは家の大黒柱であるイエス様が公生涯に出られて自分たちはひもじい思いをしているとけど目立ちたいなら公の場に出なさいと言っています。そこでイエス様は私のときはまだ来ていませんとおっしゃっています。ヨハネ8:20でも「イエスの時はまだ来ていなかった」とあります。姦淫の場でとらえられた女の人を石打からイエス様が解放しました。それを見ていたパリサイ人はイエス様がおっしゃっている父というのは神様だと気づいて論議をします。しかしパリサイ人の怒りの感情は頂点に達していてもその時は来ていないとイエス様をユダヤ人に渡さなかったからその時が来ていないと言った。ヨハネ12:23するとイエスは彼らに言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」一粒の麦という話から自分がどのように死に方をするかを表されました。こう考えると私のときという言葉が同じ意味合いであれば十字架に近づいてきているのがわかります。しかしこのころの公生涯が始まったころにはいイ

エス様が十字架にかけられるとかはだれも夢にも思っていないことです。

水をぶどう酒にかえる

ヨハネ2:6さてそこにはユダヤ人の清めのしきたりによってそれぞれ80リットルから120リットル入りの石の水ガメが6つおいてあった。ユダヤ人という言葉がでてきます。ヨハネの福音書ではあまりいい意味で使われていません。水ガメの中にはもちろんのこと水が入っています。言い換えればイエス様を信じる前の私たちのようです。それは水の状態です。

ヨハネ2:7~9イエスは彼らに言われた。「水ガメに水を満たしなさい。」彼らは水ガメをふちまでいっぱいにした。8節イエスは彼らに言われた。「さあ今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持っていきなさい。」彼らは持って行った。9節宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、しかし水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。

この箇所はいろいろな意味でユダヤ教(ユダヤ人)がかけていることを使徒ヨハネは指摘しています。6つの水ガメとは7つあれば完全な数字でそれに一つ足りないこと。

水ガメに中途半端に水が入っている。言い換えれば水ガメのふちまで水が入っていない。水というのはこの部分では変えられていない。この部分での水というものは罪のことです。すべてが足らないということはユダヤ教によっては清めのしきたりだけど清められないということを間接的に言っています。

しかしイエス様は「水ガメに水を満たしなさい」とおっしゃいました。そしてマリヤの言ったとおりにイエス様の言うことを聞いた手伝いの人たちは水ガメに水を一杯に注ぎました。そしてイエス様は「さあくみなさい」とおっしゃいます。

するとくんだはずの水がぶどう酒に変わっていました。6つの水ガメにすべて水を満たしたのか6つ全部ぶどう酒に変わったのか一つだけ水を満たしてその一つがぶどう酒に変わったのかはどこにも書いてないんでわかりません。しかし一つの水ガメの中の水は確実にぶどう酒に変わっていました。

「ぶどう酒」といって連想されることが聖餐式です。さかれた身からだ流された血潮という聖餐式の言葉です。どちらも私たちのために十字架におかかりになったイエス様のことです。水からぶどう酒に変わることは私たちの救いに関係があります。というよりそのものです。イエス様に私たちがぶどう酒のようにかえられたということです。その聖餐式では流された血潮として私たちはぶどう酒を口にします。ここでも「私のとき」とは十字架につけられるそのときだと考えられます。ユダヤ教的清めがここでは十字架で完成され聖餐のぶどう酒において信者たちに与えられ罪からの清めに置き換えられる。この時はまだぶどう酒がイエス様の血というのはわかりませんでした。

そして手伝いの人たちが世話役のところに持って行ったぶどう酒を2:9の後半から2:10彼は花婿を呼んで言った。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだ頃になると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取って

おきました。」とあります。このことが何のマジックでもないことは手伝いの者たちが良く知っていました。彼らはイエス様がどんな手を使って奇蹟を起こされたかは知りません。しかしイエス様がしたことはわかっていました。もちろん弟子たちもです。ヨハネの福音書では奇蹟のことをしるしといっています。ヨハネが見た霊的な心理を表すために奇蹟というしるしを何か所か書いています。6章では5つのパンと2匹の魚のところでキリストが命のパンであることをしめして、9章では盲人の目を開けておやりになったことでキリストが世の光を現しています。11章では死んだラザロを生き返らせる奇蹟をされたときには、キリストがいのちを与えるお方だと現しています。神様は私たちに与える物は神様が思う最良のものを与えてくださいます。ここでいう最良のぶどう酒です。

2:11の後半にこんなことが書かれています。「それで弟子たちはイエスを信じた」とあります。聖書を読んでいるとどういう表現をしていいのかわかりませんが引っかかるという表現をします。「ン」とか「なんで」とか思ってしまうのです。まさにここなのです。ヨハネの1章で弟子たちはイエス様を信じたから公生涯を共にしたのに、またここで弟子たちは「それで信じた」とあります。これはなんでだろうと自分なりに考えてみました。それまでの弟子たちはイエス様を信じていなかったのでしょうか?そんなことはないと思います。イエス様をメシヤとして信じていました。不十分であっても信仰を持っていたと思われます。

そこでこんな話をしたいと思います。私自身今までで見た映画の中で一番面白かったというか記憶に残る映画はと聞かれるとタイタニックと答えます。今から20何年前の映画で当時はビデオテープかDVDか忘れましたが10回ぐらい見ました。長い映画ですけど前編と後編があって後編からでも十分に楽しめて機会があれば楽しい時間が過ごせます。今日はこのこのタイタニック号の実話をお話ししたいと思います。

みなさんも知ってのとうりこの豪華客船タイタニック号は沈没します。その沈没した時の話です。タイタニック号は当時では絶対に沈まない世界で一番安全な船であるという考えは乗組員や設計者や作った人や乗客が思っていたことです。なぜなら船の底は2重構造になっていてよしんば氷山にぶつかっても大丈夫という考えでありました。この船は4月にイギリスを出港してアメリカのニューヨークに就く予定でした。冬から春にかけてでイギリスやニューヨークというと日本でいう北海道と同じくらい寒いところで北大西洋ではまだまだ氷山があります。

しかしタイタニック号の近くに氷山の存在が確認されタイタニック号の電信技士に警告されます。しかしその電信技士も「タイタニック号は沈まないと思っている」からその警告を無視してしまいます。夜の9時30分まで合計5回も警告します。しかしタイタニック号はズ~と同じ速度で(約40キロ)進んでいました。誰もかれも船長までもが「タイタニック号は沈まない」と思っていたからです。

夜の11時半過ぎになると近くを航海していたカリフォルニア丸からのニュースが飛び

込んできます。それは「私たちは氷山に囲まれている」ということを打診してきました。しかし電信技士は「黙れ黙れ私たちの航海の邪魔をするな」と答えました。

警告された氷山については最終的に船長に記載されてあるノートを渡されましたがちらっと見ただけでほかの人に渡してしまいます。何の準備もないタイタニック号は氷山に衝突してしまいます。船長は世界一の速さの記録を作りたいと思っていました。それは沈まないのだから可能だと。

だから救命ボートも3分の1の人数分しか用意していませんでした。710人は救命ボートのおかげで助かりましたが1513人は凍るような大西洋に投げ出されて命を失いました。タイタニック号は沈むこともあるという考えが少しでも船長や電信技士にあればと思われます。先入観ではなく心をやわらかくしてこのことに対処していればと思う事故でした。

私自身最初に話しました飛行機のことですが鉄の塊という先入観が私の心をかたくなにしています。心をやわらかくして航空工学を学んで空気の浮力はなんぼでエンジンのプロペラはどのぐらいの大きさでで毎分何回転で回さなければ飛ばないとか勉強するのは心をやわらかくして対処するということだと気づきましました。しかし今の私は勉強するどころか日々私の上を飛んでいく飛行機を見ては鉄の塊が飛んでいるという思いが怠惰な自分ということが頭をよぎってなりません。心が開けていない自分を自覚しています。

心をやわらかくして人の心を開くということは難しいことです。私も社会人になって数年たったころ会社に後輩が入ってきます。後輩に少しでも仕事を理解してほしいのでできるだけ丁寧に教えているつもりです。心の開けている後輩と心の閉ざされた後輩では教え方は変わってきます。心の開かれた後輩は私の言ったことを行ってくれます。しかし心の閉ざされた後輩の指導のトキが本当に考えさせられます。自分の言ったことがおかしいのかまた自分の行動がおかしいのかいろいろな角度から私という人間を見ています。そして悩みます。私が部下で好感の持てる上司に着いた時もこの上司は何を考えているのか。どうしたら結果が出るか、ない頭を振り絞って考え行動します。嫌いな上司の下にいるとどうしてもその人の言っていることを否定したくて仕方ありません。もう一人の自分が嫌いな上司の言っていることは正解だよといっているのに何か間違っていないかと考えてしまいます。

尊敬していたり好きな上司の時は私は心を開いた状態になります。しかし嫌いな上司なら心を閉ざしている状態です。

私たちが全面的に信じる部分的に信じるとか心が閉じているとか心が開いているとか言われるのはこの私たちを取り巻く状況によって変わってくるのがわかります。

弟子たちもそうです。ナタナエルもピリポもヨハネもヤコブもアンデレもペテロもイエス様と初めて会ったときに信じたことは間違いでもなく信じました。しかし人は状況によって信じたり心を開いたりします。カナの婚礼でイエス様の奇蹟を目の当たり

にした弟子たちの信じ方も違ったと思われます。あまりうまく表現できませんがタンスの引き出しが一つ埋まったような感じじゃないでしょうか。そして時間がたつにつれてタンスの引き出しが埋まっていき信仰が成長しながら心が開かれた状態になるのではないかと思います。

おそらく人は本当に信じるということが自分自身で心の底からできないのではないでしょうか?しかしイエス様を信じる信仰は私たちが自分自身で獲得できるものではなく神様から与えられるものだと思います。

この「カナの婚礼」はヨハネだけが福音書の記事にしています。最初のしるしと「サブタイトル」が付きます。ヨハネが言うしるしとはその奇蹟を通して真理に直結することを語っています。

この出来事は婚宴の最中に起こりました。婚宴といえば、旧約聖書の預言者たちは、メシヤの救いの喜びを表すものとして用いてきました。ところがその婚宴の喜びもぶどう酒がなくなるという出来事によって危うく消え失せてしまいそうになりました。その時イエス様は水をぶどう酒にかえるという奇蹟をなさいました。その水は何の変哲もないただの水でした。しかも「ユダヤ人の清めのしきたり」によって用意されていた水でした。この水を喜びのぶどう酒にかえたことです。この喜びのぶどう酒こそイエス様の十字架と復活によって与えられるすばらしい救いを現しています。

先週の恵み

ヨハネ1章でペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエル(バルトロマイ)を弟子にされてガリラヤのカナでの婚礼に招かれました。イエス様の母マリヤが接待役として名前を連ねたように親戚の婚礼のようでした。そして婚礼の途中でぶどう酒はなくなりました。当時の婚宴にぶどう酒はつきもので「ぶどう酒なければ喜びなし」といわれるぐらいぶどう酒は大切なものでした。だからこれがなくなるということはこの婚礼を取り仕切っている人には大変なことでした。そこで母マリヤはイエス様に相談します。イエス様は母マリヤに心配しないで下さいと言います。そしてユダヤ人のきよめのしきたりによる水ガメに水を継ぎ足して一杯まで張ってくださいと手伝いの人にお願いします。すると水はぶどう酒に変わります。ぶどう酒といわれて連想されるのは聖餐式です。聖餐式で私たちが口にするのはイエス様の流された血潮の象徴であるぶどう酒です。このぶどう酒を口にすることによってイエス様の十字架を思い出し私たちの罪が赦されるのです。この喜びのぶどう酒こそイエス様の十字架と復活によって与えられる素晴らしい救いを現しています。

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