2022年11月27日 待降節第一週

説教題「今もアドベントの時」

聖書箇所

マタイ23:36~44

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

おはようございます。

今日からアドベント 4本のろうそくが立てられ 毎週主日ごとに一本ずつ灯がともります。

待降節とはどんな意味があるのでしょうか?

待降節は私たちの救い主イエス・キリストの誕生を待ち望む期間です。

クリスマスの前祝の時ではないといえます。

ちまたではすでのクリスマスの飾りつけがなされています。商店街でもツリーが飾られて、クリスマスソングがかかり、楽しいお祝いムードではあります。

クリスマス。 イエス・キリストが来られる前の状態はどんなだったでしょう。

ユダヤの国にはいろんな闇がありました。

社会的闇 ユダヤの国は神様を中心に生きてきていましたが、今、ローマ帝国という異邦人の国に支配されていました。まことの神を神としない・・・皇帝を神とするような体制です。天地創造されたまことの神様を礼拝するのではなく・・・・国を治める人間を礼拝している状態なのです。それは旧約聖書からずっと神様を礼拝してきた民にとってつらい事でした。

宗教的闇 当時の宗教界はユダヤ教 律法学者、パリサイ人が中心でした。彼らは神様が本来人間が幸せに生きることができるために与えらえた。律法 掟を 人を裁くために使っていました。多くの人々は、彼らの言う、律法によって、罪人と断罪されていました。

彼らだけが正しい。そして律法、戒めを守れないものは罪人だといわれるばかりだったのです。神様の前に出るとき、平安はありませんでした。

神様を喜ぶというより、罰を与えられる恐れの方が大きかった。

人は罪の中に死んでいた。 人に罪があることをわかったとして。人間のできることは何があるでしょう。 頑張って正しいことをするか?これもできない。そのことに悲しんで生きるか?

もうあきらめて、神様を無視して生きるか?

この二つ以外に道はないのか?

この罪に死んでいるような私を生かしてくれる方。・・・救い主はいないのか?という嘆きがあります。

そして、この闇の中に私たちと神様との間をとりなしてくださる方。救い主に来ていただきたい。そしてその方が来られるという希望をもって待っている。

来てください。私を救ってください。と待ち望んでいるのが、クリスマス前の待降節の時です。

その時、私たちは自分の罪を深く悟るときです。それゆえに救い主が人用なのです。渇望するのです。そして待ち望むのです。それもまた信仰

です。

そんなことを日々、導かれていく時であります。

さて先々週の私の説教はルカ21:5~19で、「惑わされないように気をつけなさい」という題でイエス様が終末、再臨の時の預言の話をしました。

その最後のまとめで

この世の終わり、終末は確かにありますが・・・イエスキリストが再臨される時です。その時は私たちが天に挙げられる喜びの時であります。恐れることも心配することもありません。

ただ、それまでに私たちの愛する人を救いに入ってもらいたい。その願いは大いにあります。

今できることを、黙々と忍耐と希望と喜びをもってやっていく。

あすこの世界が終わるとしても、私は今日リンゴの木を植える。ルターの言葉ですが・・・・

たとえ終末が明日だといわれても・・そんなことは私には確実にわからない。私は今日与えられた仕事を忠実にやっていく。リンゴの木を植えるなんて芽がでて育ち・・実をつけるまで何年かかるか・・・あすこの世が終わるといわれても「惑わされないように気をつけなさい。」

救いが確実であるならば、何も恐れることはないし、喜びの中で今日を生きるのです。

その再臨の時は私たちにはわからないのです。

その根拠として今日の聖句をあげました。

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

その時は天使たちも、子であるイエス様でさえ知らない。天の父なる神様だけが知っている。・・・・まして小さな人間である私たちにはわかるはずがないということです。

でも知らなくても私たちは救われているので安心してください。それは怖い時でもなんでもなく、喜びの時なのです。とお話ししました。

ただ、聖書って不思議ですね・・・何にも心配しなくていい!!!救わ

れているんだから大丈夫!!!と思っていたらいいはずですが。

今日の箇所では

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

ただただ安心していていいのではないですよ。用心していなさい。

と言われます。

今日の聖書日課の使徒書はローマ13:11~14ですが、そこにはこうあります。

ロマ

13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

聖書は私たちに、終末は、イエス様の再臨の時は、いつかはわかりません。しかし、それは必ずあります。

でも主を信じる者は大丈夫です。安心していてください。その時は救われたものは天に迎え入れられる大いなる恵みの日なのです。と言います。

とすれば、私たちはもう安心・・・何にも心配しないで暮らしていけばいいわ。何にも努力もしないで、だらだらと過ごしていればいいのでしょうか?

それでは、だめですよ。目を覚まして、いつ主が来られてもいいように気を引き締めて、勤勉に暮らすべきです。

と警告が与えられている。それが今日の聖書日課の記事です。

聖書は私たちに安心して、のんびり暮らしなさい。と言われ、また反対に

24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

ローマ13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

目を覚ましてしっかり生きなさい。安心してはいけません。用心していなさいと言われます。

私はどうすればいいんでしょうか???

と考えてしまいませんでしょうか?

ここに信仰による生き方にバランスが大事であることを教えられます。

こんなことは極端な話ですが、南米にはカトリック教会のクリスチャンが多いです。彼らは、救われているから大丈夫。自分はどんなことをしても神様に許されているから・・・・罪を犯したら、懺悔をして悔い改めればまた許されるから・・・ということで・・・・。

陽気です。また犯罪を犯す人も多いです。

全部が全部ではないですが、そういう傾向はあります。

麻薬組織なんかも多いです。彼らもクリスチャンが多いのです。

終末になっても、救われているから安心している。

逆にプロテスタントの教会。クリスチャンは勤勉な人が多いです。

産業革命から近代の文明を担ってきたのは、イギリス、ドイツ、北欧、アメリカ、カナダなどプロテスタント教会のクリスチャンの働きが大きいと思います。

彼らは、とりわけローマ13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

真面目に生きよう。気をつけて 用心して・・・・と勤勉に生きることを目指しました。

その点南米などは陽気といえば陽気です。極端な言い方ですが、人生を楽しもうという思い。主に守られているから・・・という信仰がベースにあります。

プロテスタントも元は主に救われているから同じなんですが・・・真面目に生きようという部分が大きいように思います。

信仰のバランスから言えば。

私たちは終末においては救われているのだから心配せずに喜んで生きよう。しかし、その生き方においては神様からこんな素晴らしい恵みをいただいているのだから。キリストに倣って生きよう。

13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

イエス・キリストと共に生きようということであると考えます。

さてそうすれば、今日の箇所はどのように考えればいいのか?

私は、イエス・キリストを信じ救われている。それだけでいいのか?

あなただけが救われていることで満足していればいいのか?

そんなことを問われています。

24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

人の子が来るのは、ちょうどノアの日のようだからです。

ノアは旧約聖書の6~8章に書かれていますが、ある時、神様は地上に悪が満ち溢れているのを悲しまれ、人々を洪水で滅ぼそうとされえます。その時正しい人であったノアの家族を箱舟に入れて助けます。

ノアが大きな、大きな箱舟を作っているとき、人々は彼をあざ笑い、彼の言葉に耳を傾けませんでした、

ついに洪水の日がやってます。

それまではそんなことが来るとは思っていなかったのです。

24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

人々は神様からの声に、警告に、聞かなかったのです。ノアも言ったと思いますがその声は届かなかった・・・・・。そんな悲しい日が来るというのです。

私たちはそんな日が来る前に福音を伝えようではないですか?

ノアの時は彼ら家族だけが箱舟に入り、神様がその扉を閉め。大洪水ですべての人は死んでしまったのです。

考えただけでも恐ろしい情景です。

それまで人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり、面白おかしく普通に生きていたのです。

24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

イエス様の再臨の時、畑に二人いると一人は取られ、一人は残される。

救われるものと、滅びに行くものとになるのです。

二人の女がうすをひいていると・・・日常の仕事をしている中で救われるものと、滅びに行くものが分けられるのです。

自分が救われているからと言っても喜べない状況です。

愛する友が、家族が分けられるかもしれないのです。

そんな時はまだ来ないと思っていてもその時がいつかはわからいのです。

24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

目を覚ましていなさい。と言われます。

24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

目を覚ましていても、気をつけていても、いつかはわからないのです。

泥棒のたとえが語られます。

そして結論として

24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

イエス様の再臨は、いつかは確かにわかりません。

今日のみことばは、いつかはわからない再臨の時に、備えておきなさい。あなたは大丈夫だとしても。あなたの愛する共に福音を伝えていきましょうということであります。

確かに再臨はいつか分かりませんが、第一回目のイエス様が来られたこと。初臨ともいいますが・・・・それは新約聖書の時代にすでにあったのです。イエス様は私たちの世に来られたのです。

そして私たちのために救いの道を用意してくださったのです。

そのクリスマスを待ち望む。クリスマスは私のためであったと知る。

そして救われてからも私を導いてくださるイエス様に感謝する。そんな時が今の待降節の時であります。

この時間を無駄にしないで・・・・

今は恵みの時です。

誰でもキリストを救い主と信じる者は救われるのです。この大切な素晴らしい福音を伝えていきたいものです。

私たちも目を覚まして、喜びだけでなくこの機会に福音を伝えていきましょう。

なぜならそれができないときがいつ来るかわからないのですから。

24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

アドベントは私のための救い主が来てくださることを待ち望むとき。

そして今、イエス様がすでに来られ・・・その救いに預かっている私たちには、再臨を待ち望むとき これもまたアドベントの時であります。

今日聖書のイエス様は私たちにこの時代の生き方を教えてくれています。

24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

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