2022.11.20

聖書箇所 ルカ23:33~43

説教題 あなたは今日パラダイスにいます

分解 34~38 父よ彼らをお赦しください

39~43 パラダイスにいます

序論 このルカの福音書の23:43の最後に「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。」とイエス様は、犯罪人の一人におっしゃられました。パラダイスという言葉は今の日本では日本語みたいになっています。例えば、おいしいものを食べたときに口の中がパラダイスということをどっかの芸人が言っていました。この言葉の意味を深く考えれば何を言っているのかわかりませんが雰囲気では何が言いたいのかすごくわかります。直感的にすごくおいしいものを口に含んで感動した時に出た言葉が「口の中がパラダイスや」ということはたいていの人に通じる言葉です。だからパラダイスという言葉はすごくいい意味でもちろんのこと喜ばしい言葉で日本語では通じることが理解できます。しかし、パラダイスの本当の意味を私はわかっているのだろうかと考えたときに答えは雰囲気しかわからずに正確にはわかっていないということが現実です。そこで、インターネットでパラダイスとはどんな言葉だろうと思って検索しますと出てきた答えが 1.アダムとエバが住んでいたというエデンの園 2.キリスト教で、救われた人の行くところ。天国。楽園。 3.悩みや苦しみのない、楽しい世界。また、パラダイスに似た言葉として極楽浄土、天趣、上天、天国、などがあります。1のエデンの園というのは私自身が想像するにあたってあくまでも私の想像ですけど、リンゴ農園とかブドウ農園を勝手に山の中の農園を想像してしまいます。2のキリスト教で救われた人の行くところというのは正直想像しずらいものがあります。3の悩みや苦しみのない楽しい世界というところには想像できませんがぜひ行ってみたいといやそこに住んでみたいと思います。人は生まれたときから罪を背負って生まれてきます。その罪ということから出てくる悩みや苦しみといったことから解放されることを考えると1,2,3は全部キリスト教に関係してくるということにきずかされます。そのパラダイスへの橋を案内してくださるのが主イエスキリストです。今日はそのイエス様が十字架上で左右の犯罪人との会話をされ一人はどこに導かれたのかそして、もう一人はどこに連れていかれたのかを聖書から学びたいと思います。

父よ彼らをお許しください

このルカの福音書の23:33~43節で前後半に分けて考えていきたいと思います。前半は33節~38節までで中心的な聖句は34節で「父よ彼らをおゆるし下さい」という言葉の通りにイエス様がお祈りをおささげになったことそして39節~43節までの後半は十字架上でのイエス様と二人の犯罪人とのやり取りのことを中心に話を進めていきたいと思っています。

まず最初にこの聖書日課の箇所での登場人物を紹介します。33節でイエス様と同じ十字架につけられた犯罪人の二人です。この当時3人が十字架につけられるときは一番罪が重い人が真ん中でその人より罪の軽い人が左右に分かれてつけられていました。当然のようにイエス様が真ん中におられます。そして、イエス様を処刑するローマの兵隊たち、民衆、ユダヤ人議会の指導者たちです。35節から読んでいきますと「民衆はそばに立って眺めていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」36節兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄ってきて、すいぶどう酒を差し出し、37節「ユダヤ人の王なら自分を救え。」といった。そして39節「十字架につけられた犯罪者の一人は「イエスにあっこうを言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」といった。ユダヤ人議会の指導者たちやローマの兵隊や十字架につけられた犯罪人の一人が言っているのは一つ共通することがありました。それは自分自身で救い主だと言っているのに十字架にかかっているのに自分を救うことができないのかということでした。人間の考えはここで止まってしまうのです。私たちクリスチャンは信仰というものを持ってイエス様を見ています。だから十字架におかかりになっているイエス様は十字架から飛び降りてこようとすれば簡単なことです。しかし十字架から飛び降りることができたのになさらなかったのです。でもそれまでにイエス様は人を助けるために多くの奇蹟を行われました。そして、ただの一回すらご自分のために奇蹟をなさることをしませんでした。ここでもサタンはイエス様を自分のために奇蹟を使わせようと誘惑しています。マタイの4章で出てくる40日40夜断食の後のパン、神殿の頂から飛び降りると御使いたちが救いに来る、サタンは私を拝むならすべての国と栄華をあなたに差し上げるという誘惑からずーと誘惑し続けられてきました。

それは十字架を回避されるというサタンの目標がありました。またマタイの16章でイエス様が弟子たちにピリポカイザリヤで信仰告白をさせ、ペテロが弟子たちを代表して、「あなたは、生きておられる神の御子キリスト様です。」と立派な告白をした後、イエス様がご自分の十字架の死と復活を予告されたとき、ペテロは「イエス様とんでもないことです。そんなことがあるはずがありません。」といったことがありました。その時イエス様は「下がれサタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」この時イエス様はサタンがイエス様の十字架への道をペテロの口を使って誘惑して回避させようとしていることを

悟りました。だから下がれサタンという言葉になりました。そして今イエス様が十字架につけられたとき、一緒につけられた犯罪人も含めて地上の人たちが十字架から降りなさいということをみんなで叫んでいるんです。民衆やユダヤ人議会の指導者やローマの兵隊やそのほかの人たちは十字架につけられる前にはピラトに対してイエス様を十字架につけろと叫んで言い十字架につけられると今度はイエス様に十字

架から降りて来いと言われる。本当に自分自身で何を言っているのかわかっていないようです。この人たちが言っている救いというのは十字架から飛び降りることと思っていました。イエス様が十字架にかかるということは他ならない罪びとである私たちの為または全人類の為でした。そのことを誰一人として知る人はいません。もし今の時代みたいに十字架の意味が分かっていたならイエス様が十字架におかかりになって死んでくださったことに対して心から感謝して救い主として信じることができたと思われます。しかし、イエス様は何もかもわかっていました。そして、十字架の上から最初に発せられた言葉が23:34「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」というお言葉です。イエス様が十字架の上で発せられた最初の御言葉はご自分を十字架につけて殺そうとしている人たちへの赦しの祈りでした。病に苦しんでいる人々や悪霊に取りつかれている人々を次々にお直しになった何の罪もないイエス様が十字架につけられののしられイエス様を殺そうとしている人たちの赦しを祈り求めているのです。このような行動をするこのお方が単なる人間でないことがわかります。

昔私が学生の頃ガソリンスタンドでアルバイトをしていた時にガソリンスタンドの社長が言っていた言葉を思い出しました。仕事でもトラブルごとでも仲裁に入って無理やりでも仲直りをさせる人がいます。仲裁者といいますがその仲裁者という人は単に話を聞くだけでは仲裁者にはなれないと言っていました。仲裁者というのは一方を無理やり黙らさなければ仲裁はできないといっていたことを思い出しました。ここでも人を赦す場合には、相手が持っている力以上のものをこちらが持っていなければそれはできるものではありません。もちろんのことイエス様以上に力を持っている人はいないのでイエス様は何も知らない罪びとである人間を自分の命が尽きようとしているこの時でも神の尊厳によって赦しているのです。マタイ5:44「しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」まさにこのことです。この言葉を実践したのがこの時です。

ところでイエス様が十字架上で発っせられたこの祈りの御言葉はその後イエスキリストを信じる人によって受け継がれています。有名なところでは使徒の働き7:60ステパノが殉教の死を遂げたときに言った言葉です。「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに追わせないでください。」こう言って眠りについた。あまり知られていないところでは、イエス様の弟ヤコブが神殿で殺された時も、次のように祈って死んだといわれています。「主である神様。お父様。どうかこの人々を赦してあげてください。この人々は自分たちが何をしているのか、何もわかっていません。」と言って殉教の死を遂げました。自分の敵を愛することは普通の人間ではできません。というより敵はかたきであるというのが人間の生まれ持っての本能のようです。しかしイエス様はご自分がもうすぐ死ぬという時でさえ自分の敵を赦す祈りをなさいました。自分の敵を愛するということはイエス様を信じる人に受け継

がれていきます。誰でも憎たらしいと思っている人やもっとひどいことをされた経験がある人は殺したいと思っている人がいるかもしれません。しかし、この「自分の敵を愛しなさい」という考えはキリスト教の真ん中にある考えです。私たち罪にまみれた人間が人を憎んで憎んで仕方のない人間が自分の敵を愛するという不可能に近いことを実践されたイエス様を思い出すだけで少しは憎しみの心は和らぐかもしれません。

パラダイスにいます

マタイ27:44「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった」それと同じような記述がマルコ15:32「キリスト、イスラエルの王様。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」とあります。十字架につけられた二人の犯罪人は、はじめのうちはマタイもマルコも書いているように二人ともイエス様をののしっていました。しかしルカは二人の犯罪者のうち一人が悔い改めに至った経緯を書き記しています。悔い改めた犯罪者と悔い改めていない犯罪者の何がどのように違うのか比較をしていきたいと思います。

悔い改めていない犯罪者

23:39「十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエスにあっこうをいい「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」といった。私たち罪びとは問題やトラブルが起こった時に真っ先に考えるのは「誰が悪いのか」ということです。その次に考えるのが「私は悪くない」ということを心の中か口に出していうのかは個人の差があります。次に考えるのが「誰それが悪い」と考えが結論に達していきます。

誰が悪いのかで始まることはもうすでに人のせいにしたい自分がいます。彼も同様でした。凶悪な犯罪を犯して十字架につけられている現実を認めたくありませんでした。自分を十字架の刑から救えないのは隣で十字架につけられているイエス様が無力のせいだと思っていたか、その場の雰囲気でイエス様を悪者にしようとして自分がこうなったのは自分が悪いのではない、あの人が悪かったのだと擦り付けてしまいます。そしてそれは私たちが窮地に陥った時とっさにしてしまうようなことです。この犯罪人と自分をかぶらせるようなことを気づかされました。

悔い改めた犯罪人

しかし、もう一人の犯罪人は違いました。最初のうちはもう一人の犯罪人と一緒になって、イエス様をののしっていました。それがマタイやマルコが執筆したところです。しかし、そのあとどうなったのかをルカが執筆しています。そして、この十字架につけられている3人の意識がだんだんに遠のいていくときに一人の犯罪人は相変わらずイエス様にあっこうを言っていましたがもう一人のほうはイエス様の姿を見ていた時にあっこうを言っている方に23:40,41「ところがもう一人のほうが答え

て、彼をたしなめて言った。(たしなめてというのはよくない点を軽く注意したり叱ったりするということ)「お前は神をも恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」「自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」ということを犯罪者なのにもう一人の犯罪者に向かって言いました。この人は自分の罪を認めることをしました。十字架につけられた凶悪な犯罪者がです。今まで自分自身で生きてきたことを否定してまで自分の非を認めることができることは、イエス様が横にいて神様だということを認める何かがあったといえます。それではなぜこの犯罪人は自分の生きてきた人生での非を認めたのでしょうか?彼はおそらく自分の人生をもう死ぬというところにきて十字架にかかっても仕方ないことをして人に迷惑をかけた人生だったという心がイエス様を見ていた時にわいてきました。しかし、それでも、このまま死にたくはないという思いはあると思います。あっこうを言っていた犯罪人は自防慈悲になったからイエス様に突っかかっていきました。しかし、もう一人の犯罪人は自分の死を目の前にして自分の目に飛び込んできたのは聖いお方がうつってました。それはどんな方かといいますとご自分を殺そうと必死になっている人々を前にしてその人たちを恨んだり憎んだり呪ったりするのではなく彼らの赦しを求めて祈っておられる姿にです。

そのあまりにも聖いお方に魅せられたのです。だから、もう一人の犯罪人がイエス様を誹謗中傷する姿を見てほおっておくことができませんでした。それが40,41節の言葉です。「お前は神をも恐れないのか」という言葉にはイエス様を神様と認めているれっきとした信仰告白です。「自分のしたことの報いを受けている」というのは悔い改めを意味しています。「この方は悪いことは何もしなかったのだ」イエス様が無罪だということを確信しています。42節「そして言った。「イエス様。あなたの御国の位に御着きになるときには、私を思い出してください」この部分を私が説教を作るときに見ている参考書にはこう書いてありましたので紹介します。

悔い改めた犯罪人はあっこうを言った犯罪人に言い終わると今度はイエス様のほうを向いてこういいました。「イエス様、俺は極道ものだ。だから、こうなったのは仕方がない。十字架にかかったことです。今更天国に行ける身分ではないことはわかっている。しかし、あなたは(イエス様)ちがう。あなたはきっと天国にいらっしゃる。その時ちょっとでいいですから、私のことを思い出してもらいたいのです。」彼はもちろんのこと天国には行けるとは到底思っていませんでしたからイエス様がこの世から命がなくなるのはわかっていますから天国に行ったら思い出してほしいと言っています。その犯罪者の言葉に対してイエス様は何と言われたのでしょうか?「今まで自分がしたことを考えなさいそんな厚かましいことが言えるな」とか「お前は今までしたことの報いを受けるべきだ。甘んじて受けなさい」とはおっしゃいませんでした。では何と言ったかといいますと43節「イエスは、彼に言われた。まことにあな

たに告げます。あなたは、きょうわたしとともにパラダイスにいます」という答えでした。この犯罪人が信仰を告白して自分の人生を悔い改めて次々に行動した時にイエス様は彼に確かな約束をなさいました。このことから教えられることは、人生最後まであきらめてはいけないということです。この犯罪人みたいに人生の総決算が十字架刑なら何の望みもありません。しかし、この犯罪者は人生でもう数時間後には命を絶たれるのは間違いのないことなのに自分の罪を認めて、イエスキリストを救い主と信じたことにより「あなたはきょう私とともにパラダイスにいますとイエス様から直接天国への切符を渡されたことです。たとえ今までの人生が失敗ばかりで、人に迷惑をかけ、ほかの人を傷つけてきたものでもあってもあきらめてはいけません。

イエス様がおられるパラダイスというところは良いことをしたからと言って入れるところではありません。もしもパラダイスというところが良いことをしたら入れるならば誰一人として入ることができません。他の人から見れば本当に人格者みたいに見える人も心の中は罪というものがいっぱいにあります。聖書ははっきりと言っています。ローマ3:10~12「それは次のように書いてあるとうりです。「義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みなともに無益なものとなった。善を行う人はいない。一人もいない。」

とあります。ですから善い行いによって救われる人は一人もおりません。だから、神様は良い行いをするのではなくイエスキリストを信じると救われるという道を用意してくださいました。なぜならすべての人が罪というものを持っているからです。神様は私たちを大きな愛で愛してくださっています。だからどうしたら罪のある私たちに罪のない神様のところへ導くことができるのかと神様がお考えになったときにひとり息子であるイエス様が十字架の上で成し遂げた御業を信仰によって私たちがイエス様を救い主として受け入れることを求めておられるからです。

十字架の上でイエス様と一緒に処刑された悔い改めた方の犯罪人はイエス様の罪人を愛する愛に見せられました。私たちもいつかはと死いうものに直面します。その時こそ本当の慰め主であり救い主であるイエス様が私たちの力となってくださいます。

最後になりますが私がこの聖書の箇所で学んだことを少しお話ししたいと思います。

それは信仰と救いということです。私個人の意見ですから賛否両論がありますが広い心を持って聞いてくだされば幸いです。

まず信仰についてです

信仰は神様によって成長させられるのです。個人差によって違うと言えば違うでしょうが成長する速度を神様がコントロールしています。成長するには時間が必要です。おギャーと生まれた赤ちゃんがいきなり立って走り出すということはまずありえないのと同様でクリスチャンになってから聖書や兄弟姉妹のお話を聞いてイエス様の足跡を勉強することによってイエス様がどんな方かを一つ一つ理解して実生活でその勉強したことを取り入れてこうどうすることを信仰の成長といいます。また

は聖化といいます。だから一般的に信仰は成長するのに広い意味で勉強するのに時間がかかります。例外ももちろんあると思います。

次に救いです

ここに出てくる救われた犯罪者はイエス様の聖さに魅せられました。この人は自分がイエス様を見てあまりにもきれいで透き通っていることにきずきます。しかし、自分はこのきれいな方に比べるとあまりにも汚れていることにきずきます。そこで自分がしてきたことをいろんな人にしてきたを後悔して悔い改めます。悔い改めの原点はきれいな神様が汚れているなぜこんな私を愛してくださっていると確信した時に本当の悔い改めが可能だと自分では思っています。この犯罪者は信仰告白の後に悔い改めをしています。順番は逆でもいいような気がします。だから救いには信仰告白と悔い改めの二つが必須条件のような気がします。救われるには一瞬で神様が決定されると思われます。信仰が成長されるのは時間がかかるけど救いは一瞬で決定されるというのが私自身が思ったことです。これからまだまだ神様のことイエス様のこと聖霊様のことを勉強していろいろなことを教えてもらいこのことの考えが変わるかもしれません。またその時は報告いたします。

イエス様はこの出来事を通して人生が終わる最後の最後まで絶望はないと教えてくださいました。彼の一生は失敗であり無駄だったかもしれません。しかし、最後な最期あと数時間で命が尽きるというところで信仰告白をして悔い改めをしました。そしてパラダイス行の切符をイエス様から直接手渡されました。私たちは確実に来る死というものを前にしたときにイエス様に生きる希望ではなく死の恐怖から解放されたいものです。

先週の恵み

ルカの23:33~43までは前後半に分けて説教を進めていきたいと思います。前半は33~38説でイエス様は「父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」この祈りはイエス様がローマの兵隊、ユダヤ人議会の指導者、民衆に対して神様に捧げたお祈りです。この人たちはピラトに十字架につけろと言いいざ十字架につけられると降りて来いという。そんな人たちにイエス様はこの祈りをしました。イエス様が弟子たちにおっしゃった「自分の敵を愛しなさい」という言葉を十字架の上で実践なさいました。この祈りをイエス様の両側で十字架にかかっている二人の犯罪人は聞いていました。しかし、一人は私を救ってみろと悪口を言いました。しかし、もう一人の犯罪人はこのイエス様の祈りを聞いてイエス様が神様だと確信し信仰告白をします。そして、自分がとんでもないことをして十字架にかかっていると自分の罪を認めて悔い改めます。そして42節でイエス様に「イエス様、あなたの御国の位にお着きになる時はには、私を思い出してください」といいますそしてイエス様の答えは「あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」

が答えでした。この犯罪者は信仰告白の後に悔い改めをしています。

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