2022年11月6日(日)全聖徒主日礼拝

説教題「全聖徒主日礼拝を覚えて」

聖書箇所

ピリ

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ヨハ

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

ヘブル

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

おはようございます。本日は年に一回の全聖徒主日礼拝です。

毎週の礼拝説教は、ルーテル教会の聖書日課に基づいてお話していますが本日は、全聖徒主日礼拝を覚えてということで、今日にふさわしい聖書箇所を選んで語らせていただきます。

さて、昨年の全聖徒主日礼拝の時の事を思い起こしてみますと。

昨年の記録を見てみますと、私が10月31日(オンラインの礼拝が終わった後)に緊急入院をいたしました。高熱で動けなくなり・・・いろいろと検査はしましたが特に原因はなし、後から考えるに父の介護が一年間続いた中で疲れもあり、免疫が弱って口の中の帯状疱疹になったみた

いです。もう高熱で大変でした。

礼拝も父の事もゆだねる体験をしました。本当に娘たちをはじめたくさんの方々に助けられました。

そして私が入院中 11月3日(水)に父が自宅で眠るように召されました。天国への旅立ちでした。

この日は祝日だったので、四国から姉も来ていて、泉大津から妹も来ていて、孫も、ひ孫も勢ぞろいで父を見送りました。

ある意味父の介護で一番活躍していた私が入院中でベッドの上という・・・私にとって父を見送るという大事なところが参加できませんでした。

まあ父の事は神様の元に行くのですからゆだねていて、とりあえず自分の体を回復させることを選びました。というのも主治医の先生から一度外泊して家に帰ってお父さんを見送りますか?という話も出ていましたが・・・・最後の時に立ち会えるかどうかはそんなに重要ではない。私はそれまで十分父と話をしてきたし、今は自分の体を癒すこと。それを父も望んでいると思いました。

しかし、幸いなことに神様はすごいと思いましたが・・病院のベッドの上からテレビ電話で父を見送ることができました。

昨年の全聖徒主日礼拝は11月7日でした。父の葬儀告別式は、私が元気になってからするということになり、11月6日(土)の夜にお別れの時を持ち、11月7日(日)の礼拝の時は父の棺と共に礼拝し、礼拝後少しお別れの時を持ち、そのまま火葬をいたしました。

私は11月6日(土)に退院しましたが、まだ安静が必要で、日曜日の説教は神戸から松田先生に来ていただきました。

また、お別れの会に来られた皆様にも車いすで対応するという感じでした。

ですから、昨年の全聖徒主日礼拝に来てくださった皆様は普段とは違う礼拝になったと思います。

ある意味大変な時でした。

人が召されること。この地上からいなくなることは寂しく、つらい事ではあります。しかし聖書はこう言っています。

ピリ

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくだ

さるのです。

私が大いに慰められる聖句です。

「私たちの国籍は天にあります」

イエス・キリストを救い主として信じる人々はその国籍が天にあるのです。天国人なのです。たとえこの世の命がなくなっても私たちは天国人ですから。神の家族になるのです。その国籍は天にある。父も天にいます。昨年の全聖徒主日礼拝からの一年間で今井良一様が天に召されました。今井様は、洗礼は受けておられませんでしたが・・・生前私とイエス様の話をしていましたし、奥様が教会に行くことを応援しておられましたし。子供さんたちもクリスチャンで、亡くなられたとき、私の葬儀の司式をしてほしいと依頼がありました。そんな中で私は今井様の国籍も天にあると確信をいただいて葬儀の司式をさせていただきました。

そういうわけでここに名前の載っておられる方々はみなその国籍が天にあり、天国人なのであります。一人一人の事を思うと寂しいけれど感謝でいっぱいになってきます。

みな同じ国籍を持つものとして、堺育麦キリスト教会にかかわる人たちとして皆さん同じ家族だなあと考えます。

当然ながら毎年写真が増えていきます。これを並べるのがなかなか大変です。この人は兄弟だから・・・・この人は家族だから・・・・とか・・・この世のかかわりを考えて並べていましたが。今回はもう順不同で飾らせていただきました。その点ご容赦ください。

配慮がないのでなくて、もう皆さん神の家族なんだから・・・その国籍は天にある天国人なんだから、写真を飾る位置は毎回変わってもいいわ。と思いました。

ですから皆さんはご自分のお身内がどこに飾られているか?後でゆっくり探してください。夫婦がばらばらになっていても文句を言わずにご勘弁ください。

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

二番目のみ言葉ですが

ヨハ

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

この言葉は、イエス様の愛された家族。マルタとマリヤの兄弟のラザロが死んだとき。イエス様がマルタに言った言葉です。この時はラザロは墓に葬られていた中から生き返りました。しかし、彼もまたやがて年を取って死にました。人はどなたもみな死ぬのです。

ならばこの時イエス様が言われた言葉はどういうことなのでしょう。

神学的に言えば。人は一度死んでもやがて終わりの日にもう一度復活します。そのことを言っています。

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

イエス様を信じるもの。イエス・キリストを私の救い主として信じる者はやがて復活するのです。死では終わらないのです。死んでも生きるのです。

これを考えているとき。私の母の事を思い出しました。

母は小児まひの障害があって、私たちを育ててくれているとき孫の面倒も見てくれていましたが、ある時転んで骨折をし、動けなくなってしまいました。障害もあるので、家族だけで介護をすることはできず、病院に入院し、その後施設(特養)に入りました。ずっと施設で15年以上だと思います。

一時期、私は母のために毎朝ご飯を食べるのに出勤前に介助ができました。食事を介助しながら、ああ、私は子供のころ母にこんな風にしてもらっていたんだなあと思いました。

介助は楽しかったけれど、毎回別れる時が切なかった。

それは毎回でした。

また電話があると怖かった。施設の電話番号が怖かった。誤嚥性肺炎で救急車で運ばれました。・・・・とかそんな連絡です。

また母は障害が激しいので病院に入院しても看護婦さんたちがどうしていいかわからないことがありました。

そんな中で、今後は急変しても救急車は呼ばずに施設で看取りをします。という書類に判を押しました。サインをする時が何とも言えない気分でした。

母は何もできなかったけれど私たち家族の絆でした。みんなが集まることがありました。

そんな母の施設から亡くなったという電話が入りました。

医者の死亡確認はまだなので・・・・心肺停止ということでした。母の

この世のいのちは終わりました。

でも変な話になりますが。

亡くなってからの方が母は近い感じがします。

それまでは、施設まではめったにいけません。申し訳ないと思いつつ・・・母は遠かったです。

でも母が召されてから、母はいつも近くにいてくれていると感じます。

これが「死んでも生きる」ということなのかと思います。

皆さんもそうではないでしょうか?

毎日毎日、覚えているわけではないですが・・・・毎年、全聖徒主日礼拝で写真を見て・・・思い出して・・・母の人生を偲びます。

皆さんも愛するご遺族の方々を偲びます。

私は牧師ですからここに飾られている方々、昔の方はわかりませんが、多くの方々の人生を偲びます。その時その方は私たちの心の中で生きている。

イエス様の言われた11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

これは確かに、キリストに会って私たちは決して死ぬことのない永遠の命を持っているのです。

死んでも生きるのです。

それと共に、イエス様は亡くなられた方々を、私たちに偲ばせてくださり・・その魂は死んでも生きるのです。

教会の全聖徒主日礼拝は私は、とても大切な日ですし、幸せな日だと思います。天に召された天国人である皆様の生きた日を、その人生を偲ぶことができるのです。

礼拝後にでもゆっくり写真を見ながら召された方々を偲んでください。

死んでも生きている魂が私たちに語り掛け、また力を与えてくださいます。

三つ目のみ言葉です。

ヘブル

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめを

ものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

このみ言葉は私たちのこれからの生き方を教えてくれます。

こういうわけで、とありますのはその前の流れからです。へブル人への手紙11章は、信仰の偉人、勇者たち、有名な方々の名前が出てきます。

ここを読むには旧約聖書の知識がいりますが

多くの人々が信仰によっていかに生きたかの証しが語られます。

ヘブル

11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

そして信仰によってという言葉に続いて

アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、などなどと続くのです。

これはユダヤ人に向かって語られていますから、小さいころから旧約聖書に親しんできたユダヤ人にとっては、これらの人々は日本人ならば、聖徳太子、平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・・・坂本龍馬、西郷隆盛…みたいな歴史上の人物なのです。

そんな人々が今、雲のように私たちを取り巻いている。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

歴史上の人物だけでなく、今日私たちの周りには信仰によっていろんな生き方をした、信仰の先輩たちが取り巻いているのです。

写真がまさに取り巻いている感じです。

全聖徒主日礼拝とは、そんな信仰の先輩たちに囲まれて、今私たちはいるということを覚える日でもあるでしょう。旧約聖書を読む中で一人一人の生き方を知ります。またその信仰を知ります。成功や失敗を見ます。

聖徒とは聖なる人ということですが、誰もが神様のように完璧な人は一人もいないのです。その人生にはいろんな歩みがあります。すべてを模範にしようという人は一人もいません。

ここに写真が飾られているお一人一人も完璧な人は一人もいません。で

も聖徒と言われている。それはキリストの十字架を私の罪のためと信じる信仰によって、神様に罪のないもの、義とされたものであるゆえに聖徒と呼ばれるのです。

聖徒と言っても私たちは失敗も多くあります、誇れるものではありません。しかしキリストによって聖徒とされているのです。

ルターはクリスチャンの事を聖なる罪人と言っています。神様から見ればキリストのゆえに義なるものとされているのです。

誰もその行いが正しいゆえに救われたのではないのです。

人が死んだらそのまま聖徒になるのではありません。

私たちは本来、罪の中に生まれ、生きています。ですから厳しい言い方ですが聖書は、人はそのままではみな滅びであるといわれます。

ただキリストの十字架のゆえに救われたのです。そして聖徒となったのです。

なんと感謝なことでしょうか。

そしてその一人一人、雲のように私たちを取り巻く聖徒の皆さんを思います。

その皆さんが私たちに語り掛けていること。この世には、いろんな重荷があるでしょう。まとわりつく罪の誘惑もあるでしょう。

そんなものに勝ったり負けたりしながら、私たちは生きていきます。

その中で一番大切なことは、あなたに与えられているイエス・キリストの救いに目を離さないでください。ということだと信じます。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

私の信仰がぐらつくときがありました。なにかわからないようになってしまうことがありました。そんな時に母が「守るよ。私は聖書の事は難しくて全部わかるわけではない。でも母ちゃんはこのことは信じているんよ。それだけ信じているんよ。」と私たちの罪のために死んでくださったイエス・キリスト。そのキリスト信じることによって私たちの罪は赦されて、今、神の子とされ、永遠の命が与えられている。この福音を単純に信じていることを話してくれました。その生涯をかけて言葉に圧倒されました。母はもう命が長くないと悟ったとき、私を呼んで。「守よ、

お前に言いたいことがある。お前はみんなの前にお菓子があるとき、いつも最初に手を出している。あれは控えなさい」という私の心に残る言葉を言いました。これは今も、私は気をつけていても失敗することが多いです。糖尿病がなかなか治らないのもこれが原因だと、なさくないながらいつも思います。母は、最後の最後に私に心配して言った言葉がこれでした。そして、「守るよ。私は難しいことはわからないけど、イエス様が私の救い主ということを信じてきたんよ」という二つの言葉が今も残っているのです。

皆さんにもそんな思い出があるのではないでしょうか。

あなたの愛する方々があなたの事を見つめてくださっているのです。

聖徒の皆さんは私たちに雲のように取り巻いてそのことを伝えてくれていると信じるのです。

私たちはいま与えられている命を、主イエスを見つめて、イエス様から目を離さないで歩んでいきましょう。

今日全聖徒主日礼拝で教えられることをまとめてみますと。

ピリ

3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

私たちも、召されてここに写真の飾られている人たちも、国籍が天にある天国人なのです。

ヨハ

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

キリストを信じる者は、たとえ死んでもいつまでも私たちの心の中に生きているのです。

ヘブル

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわり

つく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

私たちの周りには信仰の聖徒たちが取り巻いているのです。そして見つめ、励まし、祈ってくれているのです。

何よりも12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 これが祈りなのです。

イエス様から目を離さないで生きていきたいと願うのです。

今日は礼拝後、10分ほど写真を眺めながら召された私たちの愛する神の家族の事を偲ぶ時間を持ちます。もっとゆっくりしていただいても結構ですが・・・・そのあと記念に皆さんと写真を撮りたいと考えています。どうぞご協力ください。

そして皆様のこれからの一年の上にも神様の豊かな恵みと祝福がありますようにお祈りいたします。

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