2022.10.16

説教箇所 ルカ18:1~8

説教題 いつでも祈るべきで失望してはならない

分解 1~2 ひどい裁判官

3~4 しつこいやもめ

5~6 裁判官の言っていること

7~8 信仰がみられるでしょうか

序論 昔私が高校生の時保健体育の授業の時に先生が言っていたことを思い出しました。それは人間の運動に対する潜在能力はというのは全部の能力を発揮することはできない。ではどのくらい発揮できるのかというと3分の1しか発揮できない。というんです。3分の1を超えるように努力をする人がオリンピックに出ることができるような選手になることができるというのです。大体のオリンピック選手というのは何年も何年も努力をして夢の大舞台に出ることができます。その中でもメダルを獲得できる選手というと人生のすべてをそのスポーツに時間もお金も捧げている選手だけです。そう考えると私たちは自分が持っている潜在能力の何パーセント発揮できるように努力しているかというと私を例にとると5パーセントも努力していないような気がします。今日はあきらめずに祈り続けるということイエス様に懇願し続けること努力し続けるということを今日の聖書の箇所からどういったことかを学びたいと思います。

ひどい裁判官

ルカ18:1「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」この箇所がこの説教のすべてを集約して現しています。祈ることに対して思いどおりにならないからと言って失望してはならないことが主題になります。そしてイエス様はこのような重要なことをここでは彼らにとおっしゃられました。では彼らというのはだれのことかといいますと、先週先生がメッセージをしてくださった直後のことです。

17:22「イエスは弟子たちに言われた。」この17:22~37までのこの箇所はイエス様の次に来られる再臨の話をなさいました。旧約聖書でこの世が水によって滅ぼされるノアの大洪水。そして火と硫黄によってソドムとゴモラを滅ぼされたロトの話。ノアの話は有名なので今日はロトの話を少ししたいと思います。

ロトという人は創世記で出てくる英雄アブラハムの甥にあたる人です。アブラハムは神様から大変祝福された人です。イスラエルの歴史はアブラハムから始まったといっても過言ではありません。創世記13:7~8(古い聖書17ページ新しい聖書18ページ)「そのうえ、アブラハムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがおこった。また、そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。8節「そこでアブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者た

ちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは親類同士なのだから。」とアブラハムはロトに言いますがどうしてもロトの牧者とアブラハムの牧者は仲良くすることができずアブラハムは決断します。9節アブラハムはロトにこう言います「全地はあなたの前にあるではないか。私から分かれてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」といいます。その甥のロトも家畜も牧者も持っていたのですがアブラハムの牧者たちとあまり仲良くなかったのが原因で別れてしまいます。そしてロトが選んだ右のほうといいますとソドムの近くで大阪で例えたら難波と岬町ぐらいの都会と田舎町ぐらいの差がありロトが選んだのは都会のほうでした。しかし、13節「ところが、ソドムの人々はよこしまなもので、主に対しては非常な罪びとであった。

そしてソドムの近くに住んでいるロトのもとに二人の御使いが現れます。御使いとは神様から遣わされた人のことです。その御使いたちをロトは家に招待します。するとソドムの人たちは御使い二人がいるロトの家を取り囲んで、創世記19:5(古い聖書では25ページ新しい聖書では27ページ)「そしてロトに向かって叫んでいった。「今夜お前のところにやってきた男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」と言っています。「彼らをよく知りたいのだ」と男が男に言っています。それも叫んでいったのだから相当大きな声で不思議なことを言っています。そしてその御使いはなぜロトに会いに来たのかといいますと19:13「私たちはこの場所(ソドムとゴモラ)滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの街を滅ぼすために、私たちは使わされたのです。」そして、24,25、26節「その時、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体とその町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトの後ろにいた妻は、振り返ったので塩の柱になってしまった。命がけで走って振り返ってはいけないと忠告したにもかかわらずロトの妻は火と硫黄から逃げることができずに振り返ってしまったので塩の柱になってしまいました。そしてロトと娘二人だけがその町から生き延びることができました。

そんな滅ぼされた国や町を例えてイエス様は再臨の話をされてからのたとえ話で彼らというのは弟子たちのことです。

いつでも祈るべき、失望してはならない。どういうことなのだろうか。その前にこのたとえに出てくるよくない不正な裁判官という人がいます。正しい裁判官の仕事を考えてみたいと思います。裁判官とはどういう仕事かということをネットで検索すると民事裁判と刑事裁判をさばく人とあります。基本的には最終的に裁判の判決を下すというのが仕事です。民事裁判というのは人と人によるトラブル例えばお金を貸したとか貸していないとか契約したのにお金を払ってくれないとか相手にお金を払わせたり約束を守らせたりする裁判のことです。対する刑事裁判は他人の物を盗んだり人を傷つけたり人を殺したり刑罰に触れるような行為をした人要するに犯罪

人がいた場合検察官が裁判所に対して懲役何年とかいう処罰を求める裁判です。だから検察官がこの人は犯罪を行ったと判断されれば(検察官の個人の判断で)起訴ということになります。そして例えば懲役10年とか罰金100万円とかいう処罰を決めるのが裁判所であり裁判官です。

裁判官の仕事は基本的には、民事裁判でも刑事裁判でも裁判を起こしてきた人(原告や検察官)裁判を起こされた人(被告や被告人)の話をよく聞いて、法律に従って中立公正な立場から判断をすることです。そして裁判官のする判断のことを判決といいます。大きい事件(最高裁なんかでは裁判官は15人並んでいる写真を見たことがあります)とかの場合以外は基本的には懲役1年とか罰金10万円とかの判断は一人の裁判官がします。ということはどういう処罰にするかは個人に任されているのです。先程の検察官と一緒で突き詰めて言うと人間がする判断です。そういう一人の人の人生がその裁判官にかかっているような責任の重い仕事です。裁判とは本質的には正義が明らかにされなければいけないものです。しかしここに出てくるのは公平な裁判官ではなく不正な裁判官です。いつでも正義のために裁判をするとは限りません。古代でも今の時代でも歪んで公正でない裁判があってはならないように神の選民であるユダヤ人が厳正な裁判が行われるようにと聖書では教えています。それでも人間はお金に弱く権力を欲しがります。結果権力を持ってしまうと贈収賄に流されてしまいます。そこでモーセはこんなことを言っています。申命記16:19~20(古い聖書では305ページ新しい聖書では334ページ)「あなた方はさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろをとってはならない。わいろは知恵のある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義をただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」

にもかかわらずに賄賂を受け取ったりする裁きが行われているといって預言者たちはそのことを指摘していました。ですからよくない裁判官がたくさんいたことは想像するのに簡単なことです。

しつこいやもめ

ルカ18:3「その町に、一人のやもめがいたが、彼のところにやってきては、「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と言っていた。やもめとは未亡人のことです。聖書ではやもめという言い方をしているときはたいていの場合は弱い立場や弱い人間やお金のない貧乏人のたとえとして使われています。ここもそのようなたとえです。一人の未亡人がいてその人を苦しめる者がいました。いつの時代でも立場の弱いものをいじめたり苦しめたりします。この未亡人を苦しめたのは男の人か女の人かは聖書に書いていないのでわかりませんがこの未亡人は弱さに付け込まれて苦しめられていました。裁判を起こそうということは大変なことでそれでもそのいじめた人に仕返しをしてやりたいという憎しみを持っていました。そして正しくさ

ばいてもらおうと裁判官に訴え出たのです。

しかしながら、この裁判官は神を恐れず、人を人と思わない悪い裁判官ですから、当然のように多くのわいろを持って行ったほうに軍配が上がるのです。そして想像するには未亡人は多くのわいろを渡すことができなかったでしょうし、その未亡人を苦しめた人はわいろを裁判官に渡すことは簡単に考えることができます。そして未亡人のような立場の弱い人を苦しめる人間ですから当然のように裁判官に賄賂を渡すことぐらいのことはします。ところが、このよくない裁判官でも、この未亡人があまりにもひっきりなしに会いに来るのでとうとうこの裁判官は彼女の為に裁判を行うことを実行します。18:5「どうもこのやもめは、うるさくて仕方がないからこの女の為に裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやってきてうるさくて仕方がない」といった。「うるさくて仕方がないの語源は「目の下を殴りつける」という意味で「顔を殴る」とか「あまりにも煩わしくする」という意味になった言葉です。ですからこの未亡人のことを雑に扱ったらこの人から殴りつけられるという恐怖感がありました。そして観念してこの不正の裁判官はまじめにこの未亡人の訴えを取り上げたのです。

ここでイエス様は私たちが神様に対してこうしてほしいとかああしてほしいと祈ること悪い言い方に言い換えれば自分の願望を祈りにすることとこの未亡人が悪徳裁判官に裁判を起こすように訴えることを対比しています。比べていてイコールではないです。18:6~8「主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。7節ましてや神は、夜昼神を呼び求めている選民の為に裁きをつけないで、いつまでもそのことをほおっておかれることがあるでしょうか8節あなた方に言いますが、神はすみやかに彼らのために正しい裁きをしてくださいます。

この世のよくない裁判官ですら「うるさいと思えばその人のために裁きをしています。しかし神様はよくない裁判官と違い、この世にあって苦しんでいる自分の民が選民がイスラエル人が叫び求めているものをそのままほおっておくことをするでしょうか?いや神様はすみやかにさばいてくださいます。ここで先程イコールではないといいました。ここでイエス様は私たちの神様がよくない裁判官とは違うと仰せられました。そしてまた神様とよくない裁判官の対比をします。まず神様は不正というものがありません。しかしこの裁判官は不正があります。そしてこのよくない裁判官は自分に面倒なことがおこらないと動こうとしませんでした。しかし、私たちの神様はそうでありません。むしろ私たちがどこでつまずくかをわかっていていつでも助けようとしてくださる恵みの神様です。だからそのままにほっておくことはしません。ですから8節の前半「神はすみやかに彼らのために正しい裁きをしてくださいます。ここで私たちが神様に対してよく誤解をすることがあります。このよくない裁判官のように神様のことについて思ってはいませんか?私たちが神様に祈ることを神様は私たちの祈りがあまりにうるさいから聞いてやることにしようとか勝手に考え

ていませんか。しつこく祈ってみたらいいと考えていませんか。あの人の祈りが聞かれたのに私の祈りは聞かれていないのはなぜなのかとか私の祈りに熱心さがないのからさらに祈ろうとか思っていませんか。また神様は私の悩みはご存じないから教えてあげなければとか思っていないですか。

イエス様ははっきりとマタイ6:7~8「また、祈るとき、異邦人のように同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは言葉数が多ければ聞かれると思っているのです。8節「だから彼のまねをしてはいけません。あなた方の父なる神は、あなた方がお願いする先に、あなた方が必要なものを知っておられるからです。」そしてどう祈ったらよいかを教えてくださっています。

私たちは失望せずに祈り続けるということを勉強しているこの箇所でも、私たちがただ単に熱心に祈るということがイエス様がおっしゃられたのではなくなぜ私たちは失望しないで祈るということができるのかというとそれは18:7「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことをほおっておかれることがあるでしょうか。」イエス様は「夜昼呼び求めている選民」とおっしゃっています。夜昼呼び求めているというのはいつでも祈っているということです。そして選民というのはユダヤ人でもなくてイスラエル人でもありません。先週の先生のメッセージで10人のうち帰ってきた一人はサマリヤ人だったようにイスラエル人ではなくてこの外国人も選民の一人です。ということは信じている人のことを言っています。そんなことをほおっておかれることは決してしないとイエス様はおっしゃらておられます。だからイエス様は帰ってきたサマリヤ人に「あなたの信仰があなたを直したのです」とおほめになりました。でも私も経験がありますが、同じことをいくら祈っても聞いてくださらないと判断すると、それは御心ではないと勝手に判断して勝手に思い込んで勝手に都合のいいように理解して祈るのをやめてしまいます。例えば家族の人の救いだとか友人の救い知り合いの救いについて祈っています。人の受験や就職のことをやはり祈ってしまいます。しかし、結果人の救い、受験、就職その他私たちが思っているような結果が出なかったとします。そしてクリスチャンの中にも受験や就職で自分の考えているところに見事合格した人を見ては他の人の祈りは聞かれても私の祈りは聞かれなかったと思ってしまいます。そして神様に対して「失望」してしまうわけです。この失望というのは前向きに歩こうとしている人にとっては厄介なものです。人の救いということは神様はその人(私たちが祈っている人)が救われるのは今ではないと考えるように私たちはこの祈りは聞き入れられていて何年後私たち以外の人が橋渡しをしてくれるのだと判断します。

受験や就職に関してもそうです。例えば第一志望に受からなくて衝撃が大きくてそんなことは考えられないのはわかりますが仕方なく第二志望や第三志望の学校や会社に就職することになったのなら神様がこの学校やこの会社に導いてくださったと考えるのはどうでしょうか。私たちが思ってもみないようなことを神様は用意して

くださっていると考えればクリスチャンとして納得できるのではありませんか。

ヘブル11:1(古い聖書401ページ新しい聖書438ページ)「信仰は望んでいる事柄を保証し、目にみえないものを確信させるものです。」だから希望があるのです。まだ見ていない確実な証拠を見る目を信仰というもので見ることはクリスチャン一人一人が歩んでいる日々の中で現れるものだといえます。ましてや自分の人生は自分自身が一番よく知っているし経験していること歩んできた道のりは自分しか知りません。いや、神様もご存じになります。信仰は決して失望に終わることはありません。だから、私たちが「失望しないでいつも祈る」ことができるのは、私たちが叫んで求めていることをほおっておかれない恵みの神様がおられます。ですから、その恵みの神が私たちのすぐそばにいて、私たちを助けてくださることを知っているのと知らないでいるのとは格段に違うことは言うまでもありません。そういう認識があれば私たち人間の熱心さによるものではなく努力のたまものでもなく神様が私たちの危機をいち早く察知して助けてくださるようにしてくださるようにそばにいて助けてくださいます。どんなに祈っていても聞かれない祈りもあるかもしれません。しかし、それも「失望しないでいつも祈り続ける」ことができるのは恵み深い神様がそばにいてくださるからです。私たちの人間の熱心さや努力では信仰生活は長続きしません。私自身洗礼を受けてから27年たちました。何をしても続かない私です。釣りを趣味にしようと考えました。しかし、私自身一人になると釣りのことなど全くと言っていいほど考えません。ゴルフを始めたとき2か月ぐらいは打ちっぱなしに通いました。しかし、それっきりで会わないとは思わないけど進んでいくことはないのです。車を趣味にしようと考えました。若いころは速い車にあこがれてスポーツカーに乗っている時期もありました。しかし55歳の年齢のせいにしたくないのですが今の車に対する考えは走って燃費が良ければいいというこだわりもpolicyもありません。しかし、このキリスト教という宗教は私にあっているとは思わないのになぜ27年間も教会に通い詰めているのかわかりません。私の人生たぶんはたから見るとあまりいいように映っていないと思われます。何を基準にいい人生かわかりませんが自分でもこの人生もう一度しろと言われればいややといってしまいたいのです。なぜなら嫁に逃げられ、仕事はたくさん変わり、ケガもよくする、そんな時にいつも神様に向かって叫びました。トンネルの中にいてる自分がいつの間にか日の当たるところにいてることが多々ありました。なんでキリスト教だけ続くのか考える日々を過ごしています。信仰歴何十年という人を見ると本当に尊敬してしまいます。何十年も経験しますと人生山あり谷ありとは日本のことわざでありますがイエス様を知らない人は多分人生谷あり谷ありだという人は少なくないと思われます。しかしクリスチャンもそうですが谷は気づくのですが山はあまり気が付きません。

私自身なぜ信仰生活が続いているかわかりません。いや、わかっています。それは神様がそばにいて日曜日になると私のわがままな用事を無理やりなくしてくださり教

会に導いてくださるのです。いわば神様から私の意志とは別で首根っこをもたれているようです。そのことは今更ながら感謝の一言です。その時はよくないと思えることでも後でよくしてくださるのが御心だということは何度も経験しています。受験や就職に失敗したからと言って新たな神様がよい道を作ってくださいます。それが人生山あり谷ありです。

ではどういう風に祈るのかをイエス様はおっしゃられました。それがマタイ6:9~13です。古い聖書の人は8ページ、新しい聖書の人は9ページ「主の祈り」です。

「天にいます私たちの父よ。み名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をおゆるし下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。私たちをこころみに合わせないで、悪からお救い下さい。国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

最後に18:8「あなた方に言いますが、神はすみやかに彼らのために正しい裁きをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき,はたして地上に信仰がみられるでしょうか」ルカ17章の後半の再臨の時のことをイエス様はおっしゃっています。

人の子が来たときとは再臨のことです。イエス様はこの世に2回来られるといわれています。一度目は救い主としてもうすでに来られました。2度目は再臨の時です。この再臨で信仰を持っているものはどれくらいいてるのか警告をしています。この言葉はかなり厳しい言葉です。ですから「失望しないでいつも祈るべき」です。

先週の恵み

ルカ17章でサマリヤ人の後イエス様は再臨の話をされました。そして18章に入って

いきます。イエス様は弟子たちに「いつも祈るべきであり、失望してはならないことを教

えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」不正な裁判官のたとえです。裁判官た

るもの中立公正でなければいけない。とは理想であって、人間は罪びとです。ましてや裁

判官となると権力を持っています。お金の持っているものに賄賂を渡されると無罪とい

う言葉が出ます。訴えた人からすれば命がけで裁判に挑んでくるのに、いとも簡単に原告

を退かすことができます。しかし、あまりにもうるさいやもめがしつこく会いに来ます。

このやもめについにこの不正な裁判官は裁判を実行します。しかし、神様は不正な裁判官

とは違い夜も昼も呼び求めている選民のためにさばきをつけないでいつまでもそのこと

をほおっておくことがあるでしょうか。とイエス様はおっしゃられています。ここでいう

選民とは私たちクリスチャンのことです。この時から17章で登場する癒されたサマリ

ヤ人を用いてイスラエル人イコール選民ということがなくなり。信じるものイコール選

民という位置づけになります。そして神様は私たちが失望しないようにそばにいます。

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