2022年10月9日 礼拝説教

説教題「主に感謝する時、新しい事が起こる」

聖書箇所 ルカ17:11~19

17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。

17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、

17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。

17:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。

17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、

17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。

17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

おはようございます。

17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。

イエス様はいよいよエルサエムに向かって旅をしています。ここでエルサレムに向かってとは、今聖書を読んでいる私たちはどういうことかとわかります。ただの旅ではないのです。

弟子たちはわかりませんでしたし・・・群衆も理解はしてませんでした。が

エルサレム行きとは

ルカ

18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について

預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。

18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。

18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

イエス様はエルサレムに行き、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死に、私たちの罪の身代わりの罰を受け、そして三日目によみがえり、私たちの罪の赦しが完成したことを知らせるのです。

キリストの十字架と死と復活 その福音のために行くのです。

誰も理解していない中でイエス様は進まれるのです。

サマリヤとは元々同じイスラエル民族でした。ダビデの王国の後、ソロモンが王になり、その後王国は北王国と南王国に分裂します。

その北王国がサマリヤです。エルサレムは南王国にありましたから、北王国の人々はエルサレムに上れないので、サマリヤに神殿をつくります。

ここでまことの神様からずれていったのです。

サマリヤは先に滅びます。

そして信仰は純粋なユダヤ教ではなくなって行きます。

南王国もバビロン捕囚と言う時期を過ぎ、彼らの帰国が許され、もう一度神様を中心に、旧約聖書を中心にユダヤの国が再建されます。

その時、サマリヤはまことの神様から離れた民、汚れた民と言う扱いを受けます。

この聖書の当時、ユダヤ人はサマリヤ人を汚れた民と軽蔑し、一緒に食事もしません。付き合いをしていなかったのです。

ガリラヤは、イエス様の育った地、ナザレがあり、ガリラヤ湖があり、そこでイエス様の宣教が始まった地です。ガリラヤはイスラエルの北部にありますが、ここは旧約聖書を信じ、律法を守り、エルサレムの神殿に参拝するユダヤ教の地域です。

ガリラヤからエルサレムに行くには、サマリヤの地を通って行くルートがありました。そちらの方は平地になります。

そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。

この境を通られたんです。

17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、

17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。

ある村に入ると・・・・これはたぶんユダヤの国、ガリラヤ側の村と想像します。10人のツァラアトに冒された人がいた。

ツァラアトは新改訳第三版からで第二版まではらい病と書かれています。

これがツァラアトと改訳されたのは、ある人の生涯を賭けた熱い働きがありました。

岡山県の長島と言う島に、日本で国立として初のハンセン氏病の療養施設愛生園ができました。1930年(昭和5年)の事です。この島で教会ができました。長島曙教会と言います。家族からも、世間からも捨てられたような島の中で多くの人がクリスチャンになりました。素晴らしい信徒の方がたくさんおられ、私も父と一緒に行ったことがあります。

そこで現在の牧師をされている大嶋先生がおられました。

大嶋先生は聖書でらい病と言う記述があることに心を痛めていました。それはハンセン氏病の人の事をらい病と呼ばれていたからです。

聖書のらい病と今、長島曙教会に集われているハンセン氏病(らい病)とは違うんだという事です。聖書ではらい病は神の裁きのような時もあります。汚れているという考えです。

そうすれば今、曙教会にいるクリスチャンの皆様もらい病という事になれば神様の祝福を受けていない、何かの裁きの結果かということで悩む方もおられます。

大嶋先生は聖書に書かれているらい病について研究し、アメリカにまで留学して研究してついに論文を発表し、聖書のらい病と、今、らい病(ハンセン氏病)とは全く違うものである。

だから聖書を日本語に翻訳する時らい病という書き方は変えて欲しい。変えるべきだ。と主張しました。どう変えるか?

聖書は日本語でらい病と訳されている言葉は原語ヘブル語ではツァラートなのでその言葉で日本語聖書を直してくださいと一生懸命運動して、ついに新改訳聖書第三版からツァラートと翻訳されているのです。大嶋先生ともお会いしましたが、そのために生涯を賭けておられました。たくさん

のクリスチャンがいた長島曙教会 島の中に神学校まで作られた教会でしたが・・・いまハンセン氏病を発症する方は日本ではほぼありません。年間10人にも満たないそうです。合っても、良い薬もあるし、一般の病院で治ります。

ですから曙教会には新しい人は増えなくて、高齢化になり、天に召される人が多く。長島愛生園自体の入所者の平均年齢が87歳くらいになっているため・・・・曙教会は7,8人くらいで日曜礼拝を守っておられ、大嶋先生が牧会をされています。今年五月末で36年間の牧会を引退されたという事を知りました。今は息子さんが牧会を引き継いでおられます。

ツァラアトの人の事については旧約聖書のレビ記に詳しく書かれています。そして人をツァラアトと決める、診断する、宣言する。治った事を宣言するのも祭司の勤めでした。人は祭司のところに自分の患部を見せに行ってツァラアトであれば彼は汚れていると宣言され。治っていれば彼はきよいと宣言されるのです。祭司がその役目をしていました。

そしてツァラアトと宣言された者はこうなるのです。

レビ

13:44 彼はツァラアトの者であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。

13:45 患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。

13:46 その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

ツァラアトになった人は人とは一緒に暮らせないのです。私は汚れている汚れていると叫ばなくてはならない。

最近、コロナがあって、とりわけ当初の頃はこんな感じでありました。誰とも会えない。たとえ死んでも遺骨さえ触れない。

今でもコロナになったら社会から分断されます。ツァラアトの人はそれ以上です。

さきほどの大嶋先生のおられた長島曙教会の皆さんの話では

ある日突然、ハンセン氏病になる・・・親族とも別れて、戸籍もなくなって一人、島に隔離されるんです。もう名前も変えられます。故郷に帰ることもできません。ものすごい差別が社会には会ったんです。

私と父が訪問した時に、ある方は、私は羽衣の高師浜という所のお屋敷で

生まれた・・・・懐かしいけど帰ることはできないと言われていました。

ツァラアトの人たちも突然、発症するんです。そしてツァラアトの場合は神様から汚れていると宣言される。もう人間ではないような扱いです。

でも生きてるんです。食べ物も食べるし、日々の生活もある。

彼らは宿営の外 村の外に住んでいたんでしょう。

そこにはガリラヤ人もサマリヤ人も肩を寄せ合あって同じ病の中で生きていたようです。

そしてイエス様が来てもそばには寄れないんです。遠く離れたところから叫ぶんです。

17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、

17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。

この思い・・想像します。人を見たら「口を覆って、汚れています。汚れています」と叫ばなくてはならない。

悲惨ではないですか?

ここでは彼らが叫ぶんです。この方、イエス様ならば。と叫ぶんです。

17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。

これを見て、聞いて、イエス様はツァラアトの人たちに言われるんです。

17:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。

ツァラアトの癒しは祭司が決めます。

どうやら10人いたみたいですが・・・彼らはイエス様の声を聞き祭司の元に行くのです。そして行く途中できよめられた。治った!!それは彼らにわかったのです。なんと嬉しい事でしょう。

もう急いで祭司に見せに行って「あなたはきよい」と宣言されて、家に帰る。自分の家族のところに帰る。そんな喜びがあったでしょう。

今までのつらい日々の事を思えばその思いは、その喜びは言葉に表せないほどでしょう。

イエス様に癒された感謝なんか忘れているようです。

17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神

をほめたたえながら引き返して来て、

17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

そのうちの一人は自分が癒された事がわかると・・・・彼はイエス様が癒してくれたんだという事に感謝をささげるために引き返すのです。

後の9人は癒された喜びの中で、早く祭司に見せて・・あなたはきよい。もう治ったと宣言されて。社会生活に復帰したい・・・と引き返すことなく祭司のところへ進んでいくのです。

しかし、ひとりはイエス様のところに引き返してきて。

イエス様の足元にひれ伏し感謝したのです。

彼はサマリヤ人であった。ユダヤ人からは汚れた民と軽蔑されている民だったのです。その彼一人がイエス様に感謝をしに帰ってきたのです。

この箇所、私の想像ですが。ユダヤ人は祭司のところに見せに行きます。でもこのサマリヤ人は祭司が、違いますから・・・・ユダヤ教の祭司に見せに行くことはできないから、どうしたんだったんだろう???と思いました。みんなが祭司に見せに行っている時、彼は違う所へ向かっていたかもしれません。そして同じころに皆、癒されます。

このサマリヤ人は当然のごとく、癒してくださったイエス様のところに帰ってきて感謝をささげるのです。

でも喜びの中で帰ってこなかった9人の気持ちもわからないではないのです。

17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。

17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

神を信じていると言われるユダヤ人が神を崇めるために帰ってこないで、この外国人 サマリヤ人だけが帰ってきたのか・・と嘆くのです。

そしてこのサマリヤ人に言います。

17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

彼は神を崇め、イエス様の元にひれ伏し感謝しました。彼の信仰は喜びの中で神様に結び付いたのです。

そして彼は、ツァラアトの苦しみからも癒され、また彼の人生も主にあっ

て祝福されたものとなって行ったと信じます。

彼は自分の身に起こった癒しと言う出来事に、確かに神を見、イエス様に感謝する信仰へと導かれたのです。

後の9人はどうでしょう??

イエス様に癒されながら‥神様の恵みを受けながら・・・自分の事だけ考えて・・・イエス様に感謝せず・・自分の社会復帰を優先した。これは私たちでも起こりうるかもしれないと思います。

めちゃくちゃな喜びの中で、ああそうだこれはまず神様に感謝しなければと向かった足を止める人が何人いるでしょうか??

ただ神様に感謝せずに進んでいった9人のこれからがどうなったかは、わかりませんが・・・・せっかくの大きなチャンスを・・・イエス様と出会うチャンスを失ったことは確かです。

でも彼らの今までの苦しみを覚え・・・そこから解放された喜びの中で、神様への感謝を忘れる・・・と言うのも人間らしいかとは思います。

でも神様に喜ばれない事だったとは言えます。

イエス様の元に感謝に戻ったサマリヤ人 彼の信仰に見習いたいものです。

イエス様は彼に素晴らしい祝福の言葉をかけました。

17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

今日の箇所で覚えることは

ツァラアトの中で苦しんでいた人々 人々から分断され、つらい時を送っていた。それは、形はいろいろですが私たちにもあると思います。

いろんな苦しい事つらい事、情けない事、悔しい事、もうあきらめそうなこと・・・・・。

彼らがイエス様に出会い イエス様に叫ぶのです。「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」

その時イエス様はあなたの祈りに応え、憐れんでくださるのです。なんと素晴らしい事でしょうか。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」

イエス様の言葉に応答して、イエス様の言葉を信じて 一歩歩み始める時、信じられない癒しの奇跡が起こったのです。彼らは行く途中できよめられ

た。。

この時の私たちの態度は大切だと教えられました。信仰は大切だと教えられました。

9人は喜びの中でイエス様への感謝も忘れ、自分のために生きていくのです。

ひとりのサマリヤ人はイエス様の元にまず帰ってきて感謝をささげたのです。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、

17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。

イエス様は彼の信仰を喜ばれました。

それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

この話を考えている時、ちょっと私の事を思い出しました。これは自慢ではないですが、ちょっと嬉しい事でした。

私が教会に来るきっかけになったのは、結婚して、大阪に転勤になって、家内が妊娠していて、家内が妊娠中に大きな発作があって、病院の先生から子どもの脳に酸素が行っていない可能性があるから子供に障害があるかもしれないと言われていました。その事は私たち夫婦以外には話さず。大丈夫何とかなる。たとえ障害があっても俺が守るから・・・と強がりを言っていましたが心の深い所では不安もありました。

そんなころ家内が教会に誘われ、私も行って、生まれてくる赤ちゃんのために教会に来ていた偉い先生が祈ってくれました。

先生は事情は知っていませんが、私たちの頭に手を置いて「元気な赤ちゃんが生まれてきますように」と祈ってくれました。

信仰心もない私でしたが・・・その祈りはありがたくて涙が出そうになりました。

そして元気な赤ちゃんが生まれました。

私は、教会に感謝をしようと思いました。その感謝のためには、お金を出すより、礼拝に私が出ることを皆さんが喜んでくださるので、神様への感謝は忙しい私が日曜日は教会の礼拝に出る。それを10回しようと決心しました。

今日の癒されて帰ってきたサマリヤ人みたいだと思います。

この世で、教会に来て、祈られてうまくいって・・・・それから教会に来なくなる人はいっぱいいます。受験で祈り、合格したらそれっきりと言う

人もいます。

偉そうですが私はイエス様の元に感謝に来ました。

でもこれは信仰ではなく今思うと多くの人の祈りがあったからと思います。私が偉いのではありません。

10回礼拝に出ると決めましたが・・・当時は奈良の方に仕事に行っていて毎朝5時過ぎに起きて夜は10時か11時に帰るというような仕事。休みは日曜日だけ それで日曜日に礼拝に行くのですからある意味大きな犠牲を払っています。

ところが礼拝に出てもさっぱり説教がわかりません。

せっかく来てやっているのに・・・・と言う思いもありました。あなたは罪びとです!!と言われるのです。

でもなぜか惹かれるものがあり、聖書も自分で読んで・・・

ちょうど10回目に神様を信じることができたのです。

不思議な話です。

そこから私の人生は神様と共に歩んできました。もう40年以上になります。

それは元気な赤ちゃんが生まれた時、イエス様の元に感謝しに帰ったからだなあと思うのです。これは小さな証しです。

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

この言葉は私のためにもあると信じるのです。

皆さんにもイエス様からの言葉が今日あるのです。

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

祈り

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